第4話 東京ディズニーリゾート
日本人なら100%に近い確率で「行きたい」もしくは「行ったことがある」このテーマリゾートですが、実は「世界初のアメリカ国外に建設されたディズニーパーク」なんです。
そのため経営失敗のリスク回避策として、ライセンス契約という形での運営になりましたが、あまりの人気に後年のディズニーCEO曰く、「ライセンス契約にしたのは史上最大の失敗だった」とも冗談めかして語られています。そのためか残りの海外パークもアメリカ本社の直営方式になっています。
そんな大人の事情はともかく、日本にディズニーランドが生まれた過去を振り返ります。
1970年。
1人の男性が、遊園地に新設するバラ園で利用する花を買い付けるため、アメリカへ飛びました。
彼の名は、川崎千春。
「オリエンタルランド計画」と呼ばれる、千葉県に新たな遊園地を作るため京成電鉄が設立した、社員数3人という非常に小さな企業の初代社長でした。
彼はその道中、カリフォルニアでとある物を目にします。
それが、開園したばかりの「ディズニーランド」でした。
帰国後自身の企業が計画していたレジャーランド構想に、ディズニーランドを誘致しようと動き出します。
最初にディズニー社とセッションが持たれたのはその4年後でしたが、交渉の当初から門前払いの状態でした。
その後の交渉は何度も決裂しかけ、更には多数の誘致合戦にも巻き込まれましたが、1979年の契約成立にこぎつけることができました。
現在パークの所在地として知られる「舞浜」ですが、この名前はパーク建設時のモデルとした「ウォルト・ディズニー・ワールド」のあるフロリダ・マイアミビーチから取られています。
少し話を逸らします。
日本において、ディズニーランドの建設計画はオリエンタルランド以外にもありました。
その1つが、「富士山のふもとに作る」というものでした。
しかしディズニー社側は計画の当初から立地条件の良かったオリエンタルランドに作らせるつもりで、好条件を引き出すためにわざと候補地を残していました。
表向きには「富士山が見えると夢から覚めてしまう」という景観そのものを理由として、建設地を千葉県に決定しました。
こうして1982年に建設がスタート、1983年4月15日にグランドオープンを迎えます。
当初は法律の関係で「休園日」がありましたが、現在では廃止。
2000年にはディズニーホテル「ディズニーアンバサダーホテル」と商業施設「イクスピアリ」、更に2001年7月27日に「ディズニーリゾートライン」、同年9月4日に第2パーク「東京ディズニーシー」がオープンし「テーマパーク」から「テーマリゾート」に姿を変え、大きく発展を遂げました。
東京ディズニーリゾートの歴史には、他のディズニーパークにはない困難もありました。
2011年3月11日、午後2時46分。
東京ディズニーリゾートを震度5強の揺れが襲いました。
当時はランドもシーもそれぞれパレードとショーの真っ最中。
普段からの訓練のおかげかケガ人などは皆無でしたが、敷地や設備は大きく被害を受け、およそ1か月に及ぶ長期休園、再開後も一部アトラクションは節電のためクローズしたまま、パレードも公演は無くなりました。
パレードに関しては太陽光発電システムを活用することで節電と開催を両立するなどして再開にこぎつけ、休止していたアトラクションも輪番停電がほとんどなくなったため営業復帰。
これは余談ですが、東京ディズニーランドが再開したのはグランドオープンと同じ、4月15日でした。
そして、2018年。
東京ディズニーランドは開園35周年を迎え、東京ディズニーシーは翌年度に新アトラクションのオープンを控えます。
これからも進化は続いていくことでしょう。
(このパークについてもっと知りたい人は前作へ⇒https://kakuyomu.jp/works/1177354054883095731 )
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