第6話 絶望の魔女と深緑の魔女《後》
◇◇◇
アングロサクソン人との間でアルトスの指揮した大きな戦は十二回あり、その中で最後のものがベイドンヒルの戦いである。西暦五〇〇年ころ、アルトスはこの戦いでアングロサクソン人の侵攻を食い止め、一部を大陸に追い返した。
彼が王位にある間、ブリタンニアはローマ軍が駐留していた時期のように理想的な国であったが、それは五十年ほどしか続かなかった。
アルトス亡き後、ブリトン人をまとめ上げる強大な王は出現せず、島の南部からアングル人、サクソン人、ジュート人が勢力を拡大し北侵、ブリタンニアに再び戦火が戻ってきた。
6世紀に入り、北東ではデイラとバーシニアというアングル人の国が北方を脅かし、中央では同じくアングル人国家のマーシアが西侵、南部ではサクソン人国家のサセックスとウェセックスが南西へと攻め込んだ。
アルトス亡き今、ブリタンニアはもうその形を維持できなかった。
偉大な指揮官にして王を失った少数のブリトン人達は、南西のコーンウォールを拠点に頑強に抵抗を繰り返すか、西の山がちなウェールズに逃げ込むか、北方のハドリアヌスの壁とアントニウスの壁の間で抵抗を続けていた。
ウォード――ピクト人はスコット人と手を結び、アングル・サクソン・ジュートの諸部族に対抗し始めた。壁の付近に留まっていたブリトン人達も、最早スコット人と協力して、今度は南方諸部族の北侵を、かつてとは逆の方向から壁に沿って戦う事となった。
一方で、アナは相変わらず戦場の流血を少しでも減らすために奔走していた。
アルトスの治世の間、マーリンはついにドルイドの学院と渡りをつけ、十一人のドルイドを仲間に迎え入れることができていた。いずれも女性であったが、卓抜した魔術の腕前で円卓の戦士をよく支えた。
しかしアルトス亡き後は円卓の戦士達も散り散りとなり、大多数は帰らぬ人となっていた。
大魔術師マーリンは日頃の行いが悪かったか、弟子の裏切り(深すぎる愛情とも言える)に遭い、異界へと幽閉されて戻ってこない。
残されたのは、支えるべき戦士たちを失った十二人のドルイドだけだった。
だが、しかし、それでも尚。
ドルイドたちはアルトスに敬意を払ってその名を掲げ、自らをアルトス魔術院と自称し、彼の治世を再現すべく延々と戦場を駆けずり回っている。
あれから二百年も経っていたが、アナは相変わらず前線に立ち、『力の転移』を駆使して兵士達の足腰を立たなくしては押し返していた。しかしかつてのように、一人気を吐いて戦場で昏倒するようなことはない。十一人のドルイドがアナを支えていた。
彼女らはアナに敬意を払い、アナの名である『ヴァルプルギス』をその名に冠していたため、戦場では兵士たちから『ヴァルプルギスの魔女』と恐れられていた。
彼女らはそれぞれに比類なき魔術を使い、戦場では一騎当千の働きを見せた。
兵士たちを畏怖させたのは、それでいて一人の死者も出さないその不気味さであった。流血を好まない彼女らは、ただただ相手の戦意を挫くために戦っていた。
彼女達はアルトスのようにこの混乱を治め、善政を敷いてくれる王を探して、しばしば有力な部族の長を支援した。
しかしブリテン島の戦乱は混迷を極め、彼女ら十二人の力では到底抑えることができないほどの戦が繰り広げられている。
彼女達に助けられた兵士は星の数ほどいたが、彼等ですら、魔女達の行いを無駄なものだと口さがなく言った。
***
西暦六八五年。春の温かい夜であった。四月三十日は春の訪れを祝う翌日の祭りのための前夜祭であり、ささやかながら兵士たちにもエールが振る舞われていた。ノーサンブリアのアングル人は、ブリトン人とピクト・スコット連合がその夜宴が終わり、寝静まった頃を見計らって、ハドリアヌスの壁に猛攻を開始した。
「姐様、このままじゃ不味い、一旦下がるぞ!」
歩兵を相手に猛攻を繰り広げていた灼熱の魔女エススが、物量に押し返されてじりじりと後退し始め、悲鳴を上げるようにアナに向かって叫んだ。
この区画の担当はアナと彼女の二人で、他にはブリトン人戦士以外に魔女の姿は見えない。
魔女たちはコーンウォール、ウェールズ、ハドリアヌスの壁に別れてブリトン人を支援するために陣取っており、最も戦闘経験の豊富なアナとエススは二人だけでハドリアヌスの壁を守っていた。
「なりません、ここで戦線を支えなければ、私達の背にある村邑が戦火に巻き込まれてしまいます」
「そうは言うけどよ、アタシ等がおっ死んでも同じことだぜ」
苦言を呈しつつも、灼熱の魔女エススはなんとかその場に踏み留まっていた。だが確かに彼女の限界が近いのは、アナも重々承知していた。
ブリトン人兵士たちも疲弊している。このままでは早晩、壁は突破されてしまう。
アナの目指すところは戦況の膠着である――しかしそれでは相手の勢力は残存し、火種は消えない。アルトスと円卓の戦士のように、力ある王や指揮官がいる間は天秤の均衡も保たれようが、周辺諸部族が力を蓄えるに至り、均衡は完全に崩れてしまっている。
「撤退! 撤退!」
ブリトン人兵士の声がアナの耳に届いた。アングル人の猛攻に、最早ブリトン人側の戦線は崩壊し、あちらこちらの部隊が壊走しているのが見えた。
「姐様! 引くぞ! ここで粘るより、走って村々に逃げのびるよう伝えたほうがいい! ここが抜かれてもまだアントニヌスの壁がある、そこで立て直そう!」
「貴女の言う通りです、エスス。しかし逃げる時間を稼ぐ
「……分かった、だけど死ぬなよ、姐様!」
ブリトン人戦士とエススを見送ったアナは、やけにすっきりとした顔になって微笑んだ。
(私が止めなければ)
アントニヌスの壁はハドリアヌスの壁の更に北方にある防塁出会ったが、ハドリアヌスの壁に比べてしまうと、その規模においてやや見劣りする。そこまで下がれば一層の劣勢にさらされるのは分かっていた。しかもその壁の間には、ブリトン人の生き残りがいくつか小国家を作って生き延びていた。ここでサクソン人を食い止めなければ、壁の間のブリトン人たちに未来はない。かと言って食い止めるだけでは、何度でも繰り返し襲い掛かってくることは分かっている。
しかしアナの強大な力は不殺の
だから彼女は覚悟を決めた。
自分がすり減って、魔力に汚染されて人間でなくなってしまおうとも、絶対にこの壁を抜かせない。
絶望を絶望させる者。絶望を殺す者。
絶望の魔女の名にかけて。
アナは辺り一面を埋め尽くす程のアングル人の軍団に立ち向かった。
それは客観的に見れば、ほとんど自殺と変わらなかった。
その時、
『全ての木々は――我が友なり!』
空の上から女の声が響いた。
木の枝に跨って北の空から飛んできたそれは、ウェーブがかった金の髪をなびかせて、緑の衣を纏っていた。
植物の種を上空からばらまくその手には、手袋がはめられている。
植物の種は地面に落ちると、淡い光を放ちながら急速に成長した。
アングル人兵士達は人の腕ほどもあろうかという太さのつる性の植物絡め取られて身動きが取れなくなる。
そこに別の植物が咲かせた花が絡みつき、兵士たちの顔を覆ったかと思うと、彼らは次々に気を失っていった。
アナは空からやってきたその女性をよく知っている。
「シルヴィー!」
「母様、ご無沙汰しております。二百年ぶりでしょうか?」
その姿は、アナが森で拾った頃からあまり変わっておらず、今でも少女と言って良いような顔立ちだった。
「生きて――いたのですか」
「母様から頂いたこの力のおかげか、全く歳を取らなくてですね……おかげさまでずっと
「それは――何よりでした」
アナは驚くやら喜ぶやらで、自分の感情の整理がつかなくなっていた。つい先程決めた覚悟が、見る間にしぼんでゆく。
「いつか母様と肩を並べて、母様を助けたいと思っていました。ふふ、こんな状況ですけど、私、願いがかなって嬉しいです」
にこりと可愛らしく微笑むシルヴィーの力は、しかしアナに比肩しうるほど強大で、アングル人兵士たちは次々に昏睡させ、遂には撤退に追い込んだ。
「ちょうど日付が変わった頃ですね。今日は春を呼ぶ
ドルイドの間で春の祭りとされるビョールティナ祭は、作物を実らせる太陽の力の隆盛を迎えるものである。
確かにそれならば植物の扱いを得手とするシルヴィーの力は高まるだろうが、しかしこの力の強大さはそれだけでは説明がつかない。
「シルヴィー、貴女、まさか
「はい、母様の真似をして不殺の
シルヴィーは花が咲くような笑顔で言った。
「私、久しぶりに母様の作ったご飯を、お腹いっぱい食べたいです」
アナは気が抜けて、しかし喜びがこみ上げてきて、へらりと笑った。
「ええ――五人前は用意しますよ」
***
これより後、ヴァルプルギスの魔女の数は十三人となり、代替わりをしながらその活動の範囲を広げる事になる。
彼女らはブリテン島だけでなく、欧州全土の戦火に苦しむ人々を救うために、千年以上もの間、戦場を駆け回ったという。
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