第4話 もっきゅもっきゅ
シルヴィーは、噛みつくまでもなく、その手が触れただけであらゆる生命の力を奪った。人間をはじめ、動物、植物、虫、生きとし生けるもの全てである。
そのため、彼女は素手で何かに触れる事が出来なかった。常に手袋をはめるようにアナから言い渡された。
「自分の意志で『力の転移』の発動を制御できるようになるまでは、それをつけていて下さい」
「このてぶくろ、ぶあつすぎる。ものがうまくつかめない」
「その内、外せるようになります。それまでの辛抱です。それから、肌の露出も可能な限り抑えるように」
制御できずに常時発動してしまう『力の転移』により、彼女は常に空腹だった。魔力を使うと体力も消耗する。それを補うために、体が栄養を欲するのである。
慢性的な空腹感はカレドニアにいた頃も同じであったので耐えられないことはなかったが、アナの元では十分な食料を提供されていたので、彼女は腹一杯になるまでパンやスープを食べることが出来た。
潤沢な食糧事情に加え、アナが料理を得意としていたこともあって、シルヴィーは空腹を我慢するという忍耐を放棄した。
「もっきゅもっきゅもっきゅもっきゅ」
「し、シルヴィー。お腹を壊しますよ、その辺でやめておきなさい」
「へいき。いくらでも、たべられる。とっても、おいしい」
「褒めてくれてありがとうございます……で、でもかれこれ五人前は食べていますよ……?」
「おなか、もっきゅ、すごく、もっきゅっもっきゅ、すいてる、もっきゅもっきゅもっきゅもっきゅ」
アナはシルヴィーの力の制御のために、朝起きてから夜寝るまで、まさしく行住座臥の全てを共にした。
衣食住の全てを提供し、魔術は元より教養も丁寧に教えるアナに、シルヴィーは大分心を許すようになっていった。懐いている――と言っても良い。
実際、彼女に付きっきりで面倒を見るアナの様子は、幼子の面倒を見るようであった。
そのおかげもあってか、シルヴィーは次第にブリトン語を流暢に話すようになった。
そしてその内、アナの事を、
「今日は何を教えてくれますか――母様」
恥ずかしそうにアナの事を母と呼んだシルヴィーの顔を見て、アナは怪訝な表情を浮かべた。
「私のことを母と? シルヴィー、貴女、故郷に家族は」
「ええと、私はみなしごで――父と母は飢えに苦しんで亡くなったと聞いています。私は族長に育てられて――あ、あの、母様と呼ぶのが迷惑ならやめます」
「……いいえ、迷惑という訳では……」
アナは気恥ずかしそうにしていたが、悪い気はしなかった。
***
数年に及ぶアナの教導により、シルヴィーはヤドリギの呪法を徐々に身につけていった。
『力の転移』の発動を抑え、ヤドリギを
そして、植物に関してだけならば、アナより上手く力を転移させてみせるようになった。
「母様、見て下さい、私こんな事も出来るようになりました!」
シルヴィーは、大地の根元的な活力を植物に転移させ、植物を急速に成長させる術を身につけた。それを活用し、野菜や果物を、種の状態から数日で成熟させる事が出来るようになっていた。
「……これはとても役に立つ、そして優しい力ですね」
「母様、どうしました? 最近元気がないみたいです」
「……シルヴィー、私は貴女を故郷に帰してあげると言いましたね。貴女は立派に力を使いこなせるようになった。本当ならもう、カレドニアに帰ってもいいのですが……もう少し、こちらにいるつもりはありませんか?」
「え? どうしてです?」
「それは……その」
アナは口ごもった。はっきりとその理由を告げることが、上手くできなかった。
「うーん、いいですけど。私、母様のこと好きですし! ブリタンニアにも慣れてきましたし、円卓の戦士の方たちも親切ですし。あ、たまに口説かれるのは困りますけど」
おどろおどろしい模様を描いていた青い塗料を洗ったシルヴィーの顔は、実は見目麗しく、円卓の戦士の何人かは彼女に言い寄っていた。それだけ彼女がブリトン人に打ち解けたということでもある。
アナは、良かった、と言いながら、辛そうな表情を浮かべた。
***
「シルヴィーの力は有用じゃ。アナ、是非おぬしと同じように、軍団付きの魔術師として随伴させたい」
「……なぜです、マーリン」
「分かっておるじゃろう。シルヴィーがおれば、軍団の糧食は尽きることがない。その場で食料を生み出せるのじゃからな。これでピクト人もスコット人も、なんならアングロサクソン人をも押し返せる」
「彼女もピクト人です、同胞を討つために協力しろと? 私は彼女と約束したのです、故郷へ帰すと!」
「まだ手元に置いておるではないか。もう力の転移は使いこなせておるじゃろうに」
「今の戦況では、たとえカレドニアに帰しても、すぐに戦火に巻き込まれます。もう少し、もう少し情勢が落ち着いてから……」
「アナよ、お主も分かっておろう。わしらのやり方では情勢が安定するまでに時間がかかる。少しでも流血を防ぐためには、なるべく早くにアルトスの軍団が脅威だと、周辺諸族に思わせる必要がある」
マーリンとアナは、いずれか一つの勢力がこの島を統治する事を嫌った。ある民族が他民族を支配して隷属させた場合、いつか反乱が起きて戦が再燃するのは目に見えている。それよりは、力関係が対等な勢力が並立し、お互い睨みを利かせている状態の方が、たとえ小競り合いがあったとしても最終的に流血は少なくなると考えていた。
ローマ軍がこの島から撤退した今、天秤は北方のピクト人や
マーリンの言うように、ブリタンニアの戦士達が腹を空かせずに戦えるならば、周辺諸族に傾いている天秤は一気に水平に近くなる。
「『力の転移』は元々私の魔術です。私にも同じことが出来ます」
「前線で戦士たちを支えながらか?」
アルトスの軍団指揮官としての能力は確かに卓抜したものがあったが、それでもブリトン人が戦下手なのは変わらない。指揮官がいなければ烏合の衆であるブリトン人に比べて、アングロサクソン人等は戦闘の玄人としてこの島に招聘されたのだ。アナはアルトスに随伴して、『力の転移』で相手の軍勢を腰砕けにして、奪った力を味方の軍勢に付与し、なんとか勝ちを拾っている状態であった。
既にアナの負担は限界に近い。
「わしは今、アングルシー島やマン島のドルイドの生き残りに声をかけて回っておる……円卓の戦士たちを支えるわしらのような者が多ければ、それだけ天秤の均衡が早くなる。しかし、わしもお主もドルイドとしては鼻つまみ者じゃ。アングルシーには四百年前に滅ぼされたドルイドの生き残りが学院を作っておるのじゃが、説得するのに手間取っておってな。シルヴィーが戦線を支えてくれるならば、話は早いのじゃ」
「マーリン、私はアルトスが戦をするのにも本来反対です。この上まだ年端もいかない子どもを戦場に送ることは許せません。彼らもいつかは血反吐を吐き、泥の中をのたうち回りながら生きることになるかもしれません。しかしそれは今でなくてもいいでしょう」
「ならばどうする」
マーリンは意地悪そうにアナを試すような目で見つめた。
その問いに対するアナの答えは一つしかない。この老人はいつだってアナの選択肢を奪ってから問いかけるのだ。
「……そうですね。年長の者が先に泥に踏み入るべきです」
***
円卓の戦士達と、彼らが率いる軍勢の奮戦は凄まじいものがあった。戦場では『力の転移』で、野営地に戻れば食料を生み出す事で、アナが彼らを支えたからだ。
しかし流血を嫌うアナは、敗走した敵軍の追撃を許さなかったため、戦士達からは不満の声もあった。敗残兵を追走して殺さないと言う事は、体制を立て直した同じ敵がまた攻めてくるということでもある。
「敵の首を取っておけば、次に悩まされることもないんだぜ、なぁ、そう思わないかパーシヴァル」
「ボールスの言うとおりです、アルトス。それに敵を討ち果たしてこそ戦士の誉れ。私はいつになったら武勲をあげられるのか」
「そう言うな。俺はアナに協力してもらう代わり、無抵抗の敵は殺さないと約束したのだ。俺を嘘つきにしてくれるな。それとも貴公らは嘘つきの汚名を着た王の元での働きが名誉になると思うのか?」
「そもそも、あのアナって魔女、元はウォードについてローマと戦ってたらしいじゃねえか。そんな奴に頼っていいのか? 今度は一体いつ裏切るか分からんぜ」
パーシヴァルもボールスも、小部隊の指揮を担う有力な戦士である。彼らに剣を放り投げられては勝てるものも勝てなくなるとあって、アルトスは彼らの不満をどうにかやり過ごさねばならなかった。
「ケイも何とか言ってくれぬか」
ケイはアーサーと共にマーリンに育てられた屈強な戦士である。そのため、マーリンに近い考え方をしており、戦士の身とはいえ無駄な流血は嫌っていた。
「あー、俺ぁ別に、戦が早く終わるなら何でもいいよ。人を斬るのが趣味ってわけでもねぇしなぁ。ただ贅沢言わしてもらうなら、豆のスープじゃあ力が出ねぇ。肉を腹いっぱい食いてぇな」
アナが成長させることができるのは植物だけである。動物を無尽蔵に増やす事はできない。戦士達を支えるのは主にパンと豆、僅かばかりの野菜と果物であった。
その点においても戦士たちの不満は募っていたのだ。
「しかしその豆のおかげで我らの戦闘継続時間は以前より遥かに長くなっている。確かに貴公らに負担は強いているが、おかげで連戦連勝ではないか。もう少し耐えてくれ、ハドリアヌスの壁まで敵を押し返せば、その後はずいぶん楽になる」
ハドリアヌスの壁は、三百年ほど前にローマが北の民族の侵入を拒むために建造した長大な城壁である。壁は高さ
ここまで前線を押し戻せば、これを防壁として、戦いはかなり楽になるはずであった。
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