第3話 星の輝き
“昴”は親の顔を覚えていない。
彼を育ててくれたのは得体のしれない魔女であり、彼女に引き取られる前の記憶はひどくおぼろげである。
自分がなんという名前で、どこに住んでいて、どのような暮らしをしていたのかも忘れてしまった。両親の顔すら思い出せない。
気が付いたら全身真っ白の、ものすごい美人が目の前に立っていた。
ついて来いと言って彼女は白い牡鹿の背に座ったから、彼は何が何やらわからずに、ぼんやりしたままおとなしくその白鹿の後を着いていったのだ。
周りは景色もわからないほど濃く霧がかかっていて、真っ白な女性と鹿は、少しでも離れるとあっというまに見失いそうになった。
これが馬なら尻尾を掴むことができたのに……と考えたことだけは覚えている。鹿のしっぽは短すぎて、掴むことすらできない。
ただ、置いていかれるのが怖くて、必死で後を追いかけていった。
たどりついたのは、おとぎ話の中でしか見たことがないような場所だった。
ここが新しい住処だと言われたが、洞穴より少しマシかもしれない程度の、かろうじて家の形をしているだけの建物だった。
傾きかけた小さなオンボロ家である。
床は板張りで、一部は腐って底が抜けそうになっているし、石の壁や茅葺の屋根は苔むしていて、外の森とほとんど同化しかかっていた。
部屋は一階にリビングがあるだけ。二階はなし。
ところがリビングの奥には扉があって、不思議なことにそれを開けると、そこには長い長い廊下が広がっていた。
外から見る限りでは、そんなに大きな家には見えなかったのに。
その廊下でつながった一室に、彼は自分の部屋を与えられた。同じ並びに師匠の私室もあるという。
リビングには暖炉があって、調理もそこで行う。
風呂なしトイレなし。もちろん水道もない。外に井戸はあった。また、外の倉庫だという小屋には、薪と食糧がたくさん積まれていた。
テレビもスマホもタブレットもあるはずがなく、当然ゲーム機もない。
こんなところでどうやって生活するのだと、ひどく困惑した。
彼の師匠は〈白の魔女〉と呼ばれていて、その名の通り、真っ白な肌と髪に赤い瞳を持った、神秘的な雰囲気の人だった。
それは、「
師匠の性格を一言で表すのであれば、傲岸不遜。
いつも無茶な命令しておいて、少しでも遅かったり手際が悪かったりするとすぐに杖で殴られる。杖先ならばともかく、鳥の頭を形どったグリップの部分で殴られるのでとても痛い。
最初にひどく殴られたのは、水汲みができなかったときである。
井戸から水を汲んでくるようにいわれたものの、生まれてこのかた井戸など一度も使ったことがない。
井戸の側にあった木桶を投げ込んで汲み上げるのだというのは、テレビで見てなんとなく知っていた。
ところが、見よう見まねで木桶を井戸まで投げ込んだはいいものの、それを持ちあげるためのロープが見当たらないことに気が付いた。
テレビでは井戸の上に丸い滑車が付いていて、滑車から伸びるロープを引っ張ると桶が上がってきたのだが、この井戸には滑車がない。
つまり、先ほど桶を降ろした時に、ロープも一緒に落ちてしまったのである。
否、そもそも、木桶にロープが付いていたかどうかすら覚えていない。木桶を投げ入れた時点でロープのことなど全く意識していなかったのだ。
途方に暮れてしまった彼はその場でおろおろするばかりで、結局、水を汲みに行ったまま帰ってこない弟子に業を煮やした師匠が様子を見に来るまで、じっとその場に突っ立っていることしかできなかった。
師匠はいつも目を閉じているので、てっきり目が見えないと思っていた。
家の中では常に手探りで物を探していたし、このときも、家の外に出てくるのも杖で足元を探りながらやってきた。
しかし、彼女は井戸と彼の数歩手前で足を止めると、横柄に声をかけたのだった。
「水汲み一つにこれほど時間をかけるとは、お前は随分丁寧に仕事をするのだな。おかげで私の研究もよく捗りそうだ」
これが嫌味であることくらい、幼い彼でもなんとなくわかる。
真っ赤になって仕方なく、桶と一緒にこれを引き上げるロープも井戸の底に落としてしまったことを白状すると、師匠は突然彼の頭を鷲掴みにした。
目が見えないはずなのに、まっすぐ彼の頭に手を伸ばしてきたのである。
「愚かな子供だ。言いつけられた仕事一つできないとは。お前も桶や縄と共に井戸底へ落ちるがいい」
そうして彼女は、彼の頭を井戸へと突っ込んだ。
真っ暗な穴が彼の眼前に迫ってくる。
師匠に頭を押さえつけられたまま、真っ暗な底がどんどん彼に近づいてきて、いつの間にか井戸の底の水に顔を突っ込んでいたのである。
驚いて必死で顔を上げようとするが、ひ弱に見えた師匠は存外腕力が強くて、ごぼごぼとあぶくのみがあふれ出る。
とうとう息を吐き切ってしまい、口から漏れるあぶくも小さくなった頃、彼はふわりと意識が浮き上がるように遠退くのを感じた。
ああ、死ぬのだな。と覚悟した瞬間、視界の端に何かの影が映り込む。
反射的に目玉を動かすと、透き通った水の中に、彼が落としてしまったはずの木桶とロープが浮かんでいるのが見えた。
すると次の瞬間、彼は髪を掴まれて水から引き揚げられた。
そのまま地面に投げ捨てられて、全身をしたたか打ち付ける。
衝撃で大きく咳き込んだおかげで、肺の中に入り込んだ水を吐き出すことができた。
「ふん。この程度の役には立つか。しかし、やはり使えんな」
師匠の冷たい声が聞こえて無理やり目を開くと、彼女の手には木桶とロープが握られていた。
いったいどうやってあれを引き上げたのだろうか?
そんなことをぼんやり考えていると、師匠は彼の目の前に立ち、
「仕置きだ」
そう言って、杖を振りかざした。
一度、二度と殴られて、彼は体を丸めて身を守る。
鳥を模したグリップの、嘴に当たる部分が彼の体に突き刺さった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
殴られるたびに何度も何度も謝る。
何度打たれたかもわからなくなった頃、ようやく師匠は彼を殴るのをやめた。
ずきずきと痛む体を庇いながらほっと息を吐いていると、師匠が何も言わずに立ち去るの気配がした。
一度も弟子を振り返ることなく家の中に入っていった姿を見て、彼はその日、覚えている限り初めて大声で泣き叫んだのだった。
***
師匠に水汲みを失敗して殴られた時の話をすると、“夢の雫”は真顔で彼の髪をくしゃくしゃにした。
「あんた、よくそれで逃げ出さなかったねえ」
「だって、ほかに行くとこないし。森でまい子になってしにたくないし」
それもそうだね、といって、“夢の雫”は彼の頭をぽんぽんと叩く。
眠る間際のベッドの中である。
保育園の子供じゃないんだから! と、最初は同じベッドで眠ることに全力で抵抗した彼だったが、この家にはベッドが一つしかないから、ここで寝ないなら床で寝ろと言われて、不本意ながらも“夢の雫”と同じベッドで寝ることになった。
「なあ。おれって、ゆうかいされたのか?」
ずっと気になっていたことを聞くと、彼女は困った顔をしてうーんと唸った。
「師匠は『拾った』って言ってたけどねえ。どこで拾ったのか、親はどうしたのかは全く聞いていないから、あたしも何とも言えないんだけども、少なくとも、親がいて幸せに暮らしている家から無理やり子供を攫ってくるような、惨いことをするようなお人ではないよ。自分勝手な人ではあるけどね」
“夢の雫”は厳しいけど優しい。師匠とは大違いである。
水の汲み方も火の熾し方も、一からきちんと教えてくれた。
言いつけを守らないと怒られるが、何回か尻を叩かれて終わりである。
しかも、お仕置きの後はちゃんと悪いところを指摘して、次にどうすればいいかまで教えてくれる。
料理を教えてやろうと言って、おやつのケーキ作りから始まった。
掃除と洗濯は、彼女との共同作業である。
覚えることがたくさんあって大変なはずだったが、いつも彼女が一緒になってやってくれるので、大して苦にはならなかった。
家の手伝いなんてした覚えもないのに、それよりも楽しいかもしれないとさえ思える。
それに、魔女の生活は彼にとっては不思議なことばかりで、毎晩の寝物語の代わりに魔女や魔法使いについての話を聞くのも楽しかった。
「なあ。“夢の雫”はなんで“夢の雫”っていうんだ? おれも“昴”ってへんな名前だし」
「その名前は嫌いかい?」
「ううん。でもおれ、前はもっとちがう名前だったはずなんだ」
わすれてしまったけど、と続けると、“夢の雫”は少し考えて教えてくれた。
「あたしの名前はあんたと同じように師匠がつけてくれたから、どうしてあたしが“夢の雫”って名前なのかは師匠に聞いてみないとわからないね。もしかしたら、あたしが夢占いをするからかもしれない」
「ふうん。じゃあ、なんで師匠は〈白の魔女〉って呼ばれてるのに、“夢の雫”は『魔女』って呼ばれないんだ?」
「師匠の〈白の魔女〉というのは通り名なんだよ。あの方の本当の名前は、修行を進めていけばおのずと知ることになるだろう。魔女も魔法使いも、名前は大切にするよ。親兄弟やよほど親しい人じゃないと教えない。それ以外の人は、普通は通り名で呼ぶね。あたしだったら〈夢幻の魔女〉と呼ばれる。親しくない人が名前を呼ぶことは、失礼に当たるんだよ」
「なんで?」
「なんでと聞かれると難しいんだけど……まあ、修行を進めていけばそのうちわかるよ。今はそういうものだと思っておきな」
彼女の説明には、修行を進めていけばわかる、とか、今はそういうものだと思いなさい、という答えが多い。
彼がまだ小さな子供だから理解できないとでも思っているのだろうか?
子供扱いされることに不満はあったが、彼ももう8歳だ。駄々をこねて大人を困らせるほど幼くもない。
ぷくっと頬を膨らませて拗ねて見せるが、本当に怒っていないことは“夢の雫”にはお見通しらしく、いつも笑ってごまかされるのが常だった。
「じゃあ、あたしからも一つ質問だ」
「なに?」
「あんたは、本当に魔法使いになりたいのかい?」
いつもは彼が“夢の雫”を質問攻めにするので、彼女から質問されるのは初めてだった。
彼は目をぱちぱちさせて彼女を見る。
「うん。だって、カッコいいじゃん!」
「カッコいい?」
「うん!」
彼の答えに、彼女は目を丸くした。
「ろうそくをゆびでさしただけで火がついたり、かみとペンをなでたらかってに字をかきはじめたり、なんかすげえじゃん! おれもあんなことできるようになりたい!」
本当はもっと色々なことができるのだろうが、彼の練習にならないからと、彼女があえて魔法を使わずに生活していることを知っている。
それでも、彼とは関係のないところでは今まで通り魔法を使っているようで、時々見かける姿は彼にはとてもカッコよく見えるのだ。
目をキラキラさせる少年に、“夢の雫”は、そうかい、といって笑った。
ちなみに、彼女の家も師匠の家に負けず劣らず古かった。
師匠の家とは違って不思議な空間はなく、見かけ通りのただの古い家だったことには少しがっかりしたが、目立った痛みや歪みはなく、きちんと掃除もされていた。
そして、あの夜の森で他の魔女が言っていた通り、電気もガスも水道もなかった。
明かりも暖房も料理も火をつけるところから始まり、掃除や洗濯に必要な水は井戸から汲んでくる。
魔法を使うのに欠かせないという薬草は裏の畑で栽培し、食糧は全て自給自足。畑で野菜を作り、家畜を育て、森で木の実を拾う。どういうものが良くて、何がいけないのか、それらも順番に教わった。
なんて原始的で不便な生活だろうと最初は面食らったが、すぐにそんなことを考えている暇はなくなった。
原始的ということは、これまでボタン一つで終わっていたことをすべて手作業でやるということであって、そうなるととにかくやることが多い。一日のほとんどを生きるために費やしているようなものである。
少し前の彼なら、そんな生活をダサいとか面倒臭いとか思っていたのだろうが、今ではむしろ、ちょっとカッコイイとさえ思っている。なにせ、ボーイスカウトの活動よりも本格的だ。
たとえ明日、突然怪獣が襲ってきて街が破壊されてしまっても、山に入って生き延びることができる。同年代の子供たちには絶対にできないであろうことができるのだ。
それに、少しづつでも魔法を教えてもらえるのが何よりも楽しい。
今、教わっているのは、水晶玉で遠くの相手と話をすることである。
本当はもっと後に教わる魔法らしいのだが、「あたしに何かあったら大変だから」という理由で練習することになった。
空気中に漂うキラキラしたものを水晶玉に集めて話をしたい相手を思い浮かべると、上手くいけばテレビ電話のように相手の顔を見ながら話をすることができる。
兄弟弟子だという“銀鏡”や“真夜中”や“湖姫”と話をするのは楽しかった。
ただ、いつも上手くいくわけではないので、もっぱら練習中である。
「さあ、坊や。そろそろお休みな。明日の朝もまた早いよ」
“夢の雫”が彼の頭を撫でながら囁いた。
一日の仕事でくたくたに疲れていたこともあって、彼は、うん、と素直に頷いて眠りについた。
牝鶏が産んだ卵を朝一番で回収するのは、彼の仕事である。
明日がまた楽しみだ。
そうして一年が経ち、彼は師匠の下へ返された。
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