第147話
空がひっくり返った。
急上昇からの、一時停止。浮遊感の中であらゆる思考は停止し、ただ恐怖だけが流れ込んできた。これから地面に叩きつけられる、それだけは確実だ。
装甲車のハンドルを握る男の名はマスタード。彼は己の車に絶対の自信を持っていた。荒野を走り回るには戦車は重すぎるし、値段も高すぎる。
事実、彼らは中型ミュータントを十数体も葬りさってきた。ハンターランキングも順調に順位を上げて、今では常に40前後をキープしていた。ハンターオフィスに張り出されるのは50位以内であり、そこに入れば立派に上位ハンターだ。
(戦いに必要なものは機動力だ。戦車でなければならないなんてのは固定観念であり、ただの思考停止にすぎない)
実積が彼の理論を肯定した。同時に、慢心が少しずつ彼の心を
中型ミュータントの中でも相性最悪の相手、
白猿に特殊な能力はない。砂に潜ることもなく、肉食蝿が涌き出ることもない。みっしりと締まった筋肉はただひたすらに硬く、強い。
重機関銃の弾丸を数十発も浴びながら怯まず突き進んできた白猿の姿に、顔面が蒼白となった。
(おい、ふざけるな!当たっているだろ、当たっているんだから死ねよ!)
常識や自然の
白猿は赤い目を妖しく光らせ、泡を吹きながら装甲車を両手で掴んだ。みしり、と車体が
窓から、上部の重機関銃を操作していた相棒のペドロが飛び上がるのが見えた。
いや、振り落とされたのだ。
最悪の想像が浮かび上がった。長年連れ添ってきた相棒を、この装甲車で叩き潰そうというのか。それも自分が乗ったままで?
(やめろ、やめてくれ……ッ!)
後悔するときはいつだって取り返しがつかない。
白猿について何も知らなかったわけではない。耐久力が高いようだが重機関銃の弾丸を雨あられと浴びせれば倒れない奴などいないだろうとたかをくくっていた。
ベテランのハンターですら目が曇る。成功の連続とはそれほどまでに甘美な毒だ。電気椅子のスイッチを押されるのを待つばかり、そんな死刑囚の心境である。
怒り、後悔、謝罪。それらの感情が漆黒の恐怖に塗りつぶされていく。喉がひきつって叫び声すらあげられなかった。
突如、大気が震えた。
防弾ガラス越しに聞こえる風切り音。ぐらり、と車体が揺れてそのまま落とされた。叩きつけられたわけではないようだ。
落下の衝撃で視界が歪むが、頭蓋骨が潰されたわけではないので儲けものと思うべきだろう。
相変わらず視点は反転したままだ。頭に上る血をなんとか分散させようと軽く首を振り、窓を覗くとそこには白猿の汚い足が見えた。
(倒れている、のか……?)
だが何故、どうして?
それがわからない。
(そうだ、ペドロはどうした? 無事なのか、あいつがなにかやってくれたのか?)
思い出すと同時に、白猿とは反対方向の窓がコツコツとノックされた。むさ苦しい男の顔が見える。相棒のペドロだ。
(良かった、生きていた……)
状況はよくわからないが、とにかく一安心だ。震える手で四点式シートベルトを外し、ドアを開けて
立ちあがり一息ついた。血と砂ぼこりの臭いしかしない空気が、今はとてもありがたい。
「それでその、一体何が起きたんだ? 神様が助けに来てくれるほど信心深いほうじゃないと思うんだが」
聞くと、ペドロは眉をひそめて装甲車の少し上を指差した。反対側を見ろ、ということだろう。
回り込むと、そこでは日除けマントを
白猿の胸にはクッキーを切り抜いた跡のような丸い穴がぽっかりと空いていた。
男はマスタードたちなど居ないもののように独りで黙々と作業を続けている。人を寄せ付けない雰囲気に、さて何とか声をかけようかと迷っていると、ペドロにぽんと肩を叩かれた。
彼が無言で動かした指の先を視線で追うと、そこには重厚な漆黒の戦車が身構えていた。
白猿と正面から戦う気ならこれくらい用意しろ。そう言われているようで、マスタードはなんとなく気恥ずかしくなり目を伏せた。
やがて首切り作業を終えた男が振り向いた。意外に若い。歳はマスタードたちと同じく20半ばといったところだろうか。
男は何も言わず、少し迷うような顔をしてからまたチェーンソーを振り上げた。
男が何をしているのかようやくわかった。いや、意味はわからないが。
切り落とした白猿の首を、さらに頭頂部からまっすぐに切り分けたのだ。右半分をクーラーボックスに入れて、左半分はその場に残した。
「遺体を
独り言なのかマスタードたちに向けたのかもわからないような呟きを残し、男は戦車に向けて歩き出す。
結局、なんの話もできないまま戦車は立ち去った。
「なんだったんだ、あれは……?」
わからない。わからないものを考えても仕方がない。今考えねばならないことは他にある。マスタードとペドロの視線が一点に注がれる。その場に残された、半分になった白猿の首だ。
血だけでなく、脳までもどろりと荒野に垂れ落ちる。放っておけば赤い目玉も転げ落ちてしまいそうだ。
(半分になった生首は、賞金の半分をくれてやるという意味なのか……?)
絶体絶命の危機を救ってもらった身だ。感謝することはあっても文句をいう筋合いは無い。ミュータントの首を持っていくのは当然の権利だろう。それでマスタードも納得していたはずだ。
だが、あの男は半分を置いていった。無視されたとか、小馬鹿にされているなどというのはとんでもない勘違いだ。
(あいつは、俺たちの戦いを否定しないでいてくれたんだ……)
謎の感動が全身を貫き、ぶるりと身が震えた。戦車が去った方角を見つめながら、マスタードは泣いていた。荒野で流す涙は熱い。
その姿を不審に思ったペドロが顔を覗きこみ、うげっと声をあげた。
「何でお前泣いてんの……。そんなに怖かったのか?」
「そうではない、そうではないが、ここが猛烈に
そういって、マスタードは己の胸をわしづかみにした。
「ハートがドキドキってか。恋する乙女かテメーは」
「
「……はい?」
「無論、尻を差し出してどうのという話ではないぞ。男が漢に惚れたのだ、わかるか!?」
「わかんねぇって……」
自分の世界に浸るマスタードは放っておいて、ペドロはひっくり返った装甲車に潜り込みクーラーボックスとツールボックスを引きずり出した。
「これ、ハンターオフィスで受け取ってもらえるのかぁ……?」
マスタードたちも他のチームと合同でミュータント討伐をしたことはある。賞金を山分けにするならば生首を提出してから改めてクレジットを分ければいい。何も生首を半分にする必要はない。
こんな訳のわからないことをするのは、他人とコミュニケーションを取れないか、取る気がないという証明のようなものだ。
悪い奴ではないのだろう。だが信用に値するかといえば疑問が残る。
「おらマスタード、手伝え。このドン亀ひっくり返すぞ」
「そうだな。俺は追わねばならない、あの男の背を!」
「はいはい……」
その後、工具を
その間、温度差のある二人の会話はまったく噛み合わなかった。
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