10話 怪物

「■■■……」


 厚みの感じられない目玉がギョロリと動き、僕の全身を品定めするかのような視線が舐め回していた。

 表情どころか口らしき物も無い相手ではあるが、もしあったなら舌なめずりをしているに違いない。


 背筋を冷たい汗が伝う。足が震える。喉の奥がカラカラに乾いてゆく。

 目の前のそれは危ないものであると、全身が危険信号を放っている。

 触腕の先にある鰐口がウズウズとするように開閉していた。

――逃げなきゃ、でも足は動かない。身動き一つ、声一つ上げられない。

 ゆっくり、ゆっくりと近づいてくるに対して、何一つアクションを起こすことができない。

 もう終わり、逃げられそうにない……そう思った瞬間、目の前の怪物の背後で大きな羽音が立った。


「う、うわああああああ――!!」


 悲鳴を上げながら、人型のシルエットが飛び立ってゆく。……どうやら、先程の悲鳴の主はまだ食われてはいなかったらしい。

 その音に釣られて怪物の視線が後ろへ向いた瞬間、かろうじて足に力が戻った。

 水ボトルの詰まった重荷リュックを放り出し、地面を蹴る。


「■■■■――?」


 力いっぱい地を蹴り、走る、走る、走る!

――息が苦しい、酸素が足りない。だからなんだ、酸欠よりもよほど恐ろしいものが背後にいるのだから、そんなものは後だ!

 走る、走る、曲がる、走る――!

 背後から足音などは聞こえない。――当然だ、奴は浮いているのだから。

 ――ひょっとしたら、追ってきていないかもしれない。そんな事はわからない、確かめる勇気などない。振り返る余裕も……!?

 ……いつの間にか何かが顔に当たる日光を遮っていた。


「ッらあァッ――!!」


 脚をもつれさせながらも、全力で真横へ跳び込んだ。


「■■■■■■――――!!!」

「がっ――あアッ!」


 直後、凄まじい衝撃と風圧が僕を襲った。

 受け身など知るかとばかりに跳んだ体が、更にもみくちゃになってアスファルトへ叩き付けられる。

 ただでさえしぼんでいた肺から根こそぎの吐息が押し出され、呼吸が止まる。激しく咳き込みながらも身体に鞭打ち目を開くと、先程まで僕が駆けていたであろう地面を砕いて青い球体がめり込んでいた。

 ……仮に跳んでいなければミンチだったな、と妙な笑いがこみ上げる。怖すぎて頭がおかしくなりそうだった。


 半ば埋まった怪物がぬるりと地面を抜け出すところを視界の端に捉えながら、僕もよろよろと立ち上がり――そしてそのまま立ち上がれずに倒れ込む。

 ……どうやら、跳んだ拍子に足首をやってしまったらしい。


「ぅぐっ、クソっ」


 それでも、近くの電柱伝いになんとか立ち上がる。立ち上がらなければ死んでしまう。

 ……目の前の怪物が人間を喰らうものなのかは知らない。だが今ので友好的な存在ではない事、人間を羽虫のように潰せるような相手である事はよくわかった。


「■■■■……?」


 昨日で終わったと思ってた命、せっかく生き長らえたと思ったのに、こんな化け物に殺されて終わりなんて真っ平ゴメンだ。

 ……しかし。


 地面を抜け出し周囲をぐるりと身渡した怪物の一つ目が、こちらの姿を捉える。

 距離にして精々が4、5メートル、怪物の大きさや動きの速さを考えればあってないような距離。対するこちらは走れないと来た。

 目前に迫った濃厚な"死"の気配を前に、頭に浮かんでくるのは、クーたちの顔だった。


「……ああ、クーたちの昼ご飯、作り置きしとけばよかったな」


 野生児のチビ助はともかく、クーは大丈夫だろうか? 鼻が利くからドライフードを見つければしばらくは持つだろうけどその後が心配だ。

 シーザーも僕が来なくなったら干からびやしないか、と心配は尽きない。

 ああ、ここで死ぬのは、本当に……。


「■■■■■」


 目の前の怪物が、鰐口を大きく開けた触腕を振り上げた。

 その数、四本。怪我した足どころか無傷の状態ですら避けられる気がしない……万事休すとはこの事だろう。

 体から力が抜け、その場にへたり込む。

 無機質な瞳でこちらを見つめる怪物が相手を嬲って楽しむような存在ではない事を祈りながら、僕は目を閉じる。

 ――ああ、せっかく、みんなと通じあえたのに。


 

「――くおんさまから……離れろッ!」



 次の瞬間、耳に届いたのは怒声だった。

 それに驚いて開いた僕の目に飛び込んで来たのは、虹色の光を纏って飛んできた人型のシルエット――そして、轟音とともにブロック塀を貫き転倒する怪物の姿だった。


 怪物に強烈な体当たりをかましたそれが、僕の目の前で不格好ながらもしっかりと着地をする。

 その姿に、僕は見覚えがあった。


「……シーザー!?」


 僕がその名を呼ぶと、右足にしっかりと尻尾を巻き付け、恐怖に顔を強張らせた彼女がこちらに駆け寄ってくる。

 夢中で走るうちに、シーザーの耳に届く範囲まで逃げてこれたらしい。

 ……しかし、この状況は。


「くおんさま、ご無事ですか! は、早く逃げましょう!」


 必死の形相で僕の体を持ち上げんと四苦八苦するシーザーの背後では、あの怪物が早くもその身を起こそうとしているのが見える。

 僕は、彼女の肩を優しく押しのけた。


「……ありがとうシーザー。でもごめん、僕は逃げられない」


 僕からの拒否に呆然としていた彼女が、顔を悲痛に歪ませる。


「どうしてですか!?」


 彼女は悲鳴のような声を上げる。


「足を怪我して、歩くことすらままならないんだ。君は力持ちだろうけど、大荷物を抱えた慣れない走り方で逃げ切れる相手じゃない」

「それは……でもっ!」


 シーザーはつい2日前まで犬だったのだ、いくら力持ちだろうと、この場で怪我した人間をうまく抱えて走れるはずがない。

 それは彼女自身分かっているらしく、それでもなお葛藤するように声をつまらせるシーザーに、僕は嬉しく思った。


「君一人なら逃げられる。ご主人様にまた会うんだろう、だから早く……」

「――逃げません!」


 たしなめる僕の言葉を吠えるような声が遮る。気付けば、今まで俯いて震えていたシーザーが、顔を上げて立ち上がっていた。

 僕を真っ直ぐに射抜いているその目には、確かな決意が揺らめいていた。


「……くおんさまには、いつもお世話になっています。先日、ご主人さまが出かけられてからは特に、です」


 彼女は僕に背を向け、ブロックの瓦礫から這い出した怪物と対峙する。

 その尻尾は今も右足に巻き付いており、体は小刻みに震え、歯の根が合わないのか声も震えている。

 しかし、それでもシーザーはその場を離れなかった。


「――犬は、仲間を決して見捨てません。受けた恩も、忘れません」


 そう言って息を深く吸い込んだ彼女は次の瞬間、腹の底にまで響くような……力強い遠吠えを行った。

 彼女の体から震えが止まり、尻尾が足から離れて垂れる。

 ……不思議と、僕にも勇気が湧いてくるような、不思議な声だった。

 遠吠えを終えた彼女は、ゆっくりと振り返ると僕に微笑んでみせる。


「私はくおんさまのことが大好きですし、ご主人さまたちだってそうです。くおんさまとお話するご主人さまはいつも楽しそうでした。だから……」


 シーザーの咆哮に慄くように動きを止めていた怪物が、触腕をニつ持ち上げる。

 危ない、そう注意する間もなく放たれたそれを――彼女の両手はしっかり受け止めた。


「だから、私は逃げません……! やっ!」


 掛け声とともに、二本の触碗が引きちぎられる。シーザーの髪の毛は逆立ち、両手からは虹色の光りゅうせいのちからがまばゆく立ち上っていた。


「■■■■■――!!」

「があああああッ!」


 怒りからか、おぞけの立つような咆哮を上げる怪物。

 続けて放たれた触碗をシーザーは避け、弾き、時に強靭な顎で受け止め食いちぎる。

 ちぎられた触碗は切り口から再び伸びてシーザーを襲い、それをシーザーがまた捌いてゆく。


……状況は拮抗しているようでいて、ややシーザーが圧されていた。


 喰らいつかせはせずとも、避け切れなかった触碗の牙が確実にシーザーの身体へ傷を付けていた。手数が、違いすぎる。


「ぐっ――!」


 触碗の一つがシーザーの横腹を殴りつけ、彼女の体が僅かに浮き上がった。

 その隙を狙い、他の触碗が襲いかかる。


「シーザー!」


 着地した彼女はすぐさま跳躍して触碗の一撃を回避する。硬く重いものがアスファルトを叩く音が辺りに響いた。


 ……真綿で首を締めるように、じわじわとシーザーは追い詰められている。

 このままではいずれ彼女も怪物の餌食となってしまう。なにか、なにかないだろうか。

 こんなレベルの争いでは加勢しようにも、邪魔にしかならない。

 辺りを必死で見渡す。

――べしゃり、という音を伴って何かが目の前に落ちてきた。

 シーザーにちぎられた怪物の触碗だ。

 それは数秒のうちに無数のキューブへと崩れ去り、虹色の光へと還元されていった。……なるほど。

 その光景を見て察するに、この怪物もまた隕石由来のモノのようだ。

 隕石は地球をかち割ったりはしなかったが、災いの種はしっかりと蒔いたらしい。

 隕石が突然軌道を変えた理由を、なんとなく察してしまった。


「それが分かったところで……?」


 ふと、ポケットに入れた物の存在を思い出して取り出す。

 ――先程お稲荷様オイナリサマからもらった、流星の力の結晶である。

 あの怪物もこれを力の源にしているならば、これを投げれば注意を引けるのでは無いだろうか……そこまで考えて、この策はナシだと気付く。

 お稲荷様オイナリサマはこれを擬人化動物の傷を癒やし、活力を与えるものだと言っていた。

 それがあの怪物にも適応されるなら、これを奪われるのは非常に危険だ。

 それに、一瞬気を引いたところで、シーザーにはあの怪物を一撃で沈める程の力は無く、焼け石に水でしかない。

 他にシーザーの手助けになるものは――!


「あ、ぐうぅっ……!」

「■■■■■――!」


 耳に入った悲鳴に顔を上げると、触碗の牙がシーザーの右腕と左肩へ食らいついていた。鮮血のあかが、脳を焼く。

 ……もう、考えている時間はない!


 僕は意を決すると、ふらつく体で立ち上がり、虹色の結晶を掲げる。

 そして、注意を引くために声を上げようとした、その時だった。


「――足止めゴクローだ、犬っころ」


 シーザーと怪物の間で、虹色の閃きが幾条も弾けた。


「……え?」


 喰らい付いていた触碗はすべて切断されており、シーザーと怪物の間には二つの人影が悠然と立っていた。


「ここは私たちの縄張り、ですからね」

「訳のわからねー玉っころは失せろってな!」


 指先を丸めたねこのて両手を構え、背中を丸めたねこぜ独特の構えで怪物を牽制するその二人の姿には、見覚えがあった。


「おうおう、これまたデカブツが出たもんだ。このでかさで食えりゃあ少しは役にも立つんだがな」

「えぇ……こんな臭いの食べたくないです」

「そもそも割ったら消えちまうからなぁ」


 そしてその背後に降り立ったのは、目を引く黒と茶のツートンカラー。

 ……間違いない、まゆげとハナコ、そしてダンシャクだ。


「――にんげんさん、大丈夫か?」

「うおっ!?」


 そう言って袖をくいくいと引いたのは、今朝別れたばかりのアライグマ少女であった。

 この子にはよく驚かされている気がする。


「でっかいメダマに追っかけられてるのを見たときはびっくりしたのだ……もう食べられてたらどうしようと思ったけど、無事でよかったのだ」


 心底ホッとした様子で言う少女に、こんなにまで心配して駆け付けてくれたことに対して深い感謝の念を抱かざるを得なかった。


「それでにんげんさんを追いかける途中であの三匹を見つけたから、やっつけてくれるよう”お願い”したのだ!」


 感謝どころの騒ぎじゃなかった、本気で命の恩人……恩アライグマ? だったらしい。

 これはもう彼女ら五人には足を向けて寝られない。


「ホントにありがとう、おかげで命拾いしたよ。……でもどうやってあの子たちを説得したんだ?」


 特に人懐っこい性格をしているハナコはともかくとして、ダンシャクやまゆげはそう簡単に力を貸してくれるイメージがない。

 少女はキョトンとした顔になった後、意味深な笑顔を浮かべた。


「ふっふっふー、これもにんげんさんに教わったことなのだ!」


 そう言って彼女がしたり顔でビニール袋から取り出したのは、なんと『テュールまほうのおやつ』であった。


「……なるほど、これを対価にお願いしてくれたのね」

「そうなのだ! あの三匹はもともとメダマを退治して回ってたみたいだから、お願いしたらすぐ頷いてくれて助かったのだ……」


 そう言って彼女は今も激闘を繰り広げる四匹に目を向けた。

 ハナコ、まゆげ、シーザーの三名によって、あの厄介な再生する触碗の全てが見事に完封されていた。


「いい加減に……倒れろやァッ!」


 ブロック塀を足場に天高く舞い上がったダンシャク。光を纏った手で怪物の無防備な頭部を切り裂くと、怪物の球体の上半分近くがブロック状に崩れて弾け飛んだ。

 その抉れた内部に、質感の違う何かが見た気がした。


「――あれ?」


 次の瞬間には抉れた箇所がじわじわと埋まり始め、やがては再び球体へと戻る。

 その姿は初めて見た時より、二周り以上は縮んでいる。


「ちぃっ! デカイのは面倒だな、ちびこいのは一撃で消し飛ばせたのに」

「やっぱ地道に削るしかないか? 思ったより厄介だぞこれ」


 空中で見事な一回転捻りを見せて着地するダンシャクが唸る。

 獅子奮迅の活躍を見せていた彼女らではあるが、今やみな肩で息をし始めており、流石に疲れが見える様子だった。

 少し悩んだが、思い切って声を上げる。


「ダンシャクー! ちょっといいかー!」

「何だボウズ、今忙しいのがわかんねぇのか!」


 なかなか倒れない敵に苛つき始めているのか、棘のある口調を返してくるダンシャク。


「今怪物の頭が弾け飛んだとき、中に石みたいなものが見えた! それを壊せば倒せるかもしれない!」

「ああ、石だぁ? ……よし、お前らちょっと抑えとけ!」


 ダンシャクの号令を合図に、三人が一斉に飛びかかる。

 連携もクソもないような一斉突撃に対して、怪物も全ての触碗を踊らせて迎撃する。


「そろそろくたばれやァ!」


 再びブロック塀を蹴って高く跳躍したダンシャクの爪が、怪物の頭部を砕いた。

 先程はそこで離脱した彼女だったが、今度はそのまま抉れた怪物の上に降り立つ。


「■■■■■――!!!」


 それには怪物も危機を感じたのか大きく体をよじるも、触碗を握るシーザーたちが暴れる事を許さない。

 多少の揺れは猫にとっては軽いアトラクションでしかなく……破片が生み出す虹色の輝きを掻き分け、彼女は目的の物を見つけた。


「――これか。そぉらトドメだッ!」


 大きく振り上げられた拳が一層強い光を放ち、虹色の尾を引く流星の如きの様相で怪物へと振り下ろされた。


――ぱきん。ガラスが割れるような涼やかな音が、辺り一面に響く。


 次の瞬間、あの恐ろしい怪物はぱかぁんという派手な音を立て、無数のブロックへと砕け散る。

 やがて虹色の光となって霧散していった。

 怪物がいた辺りには小石ほどの虹色のキューブがニつ、転がっているのが見える。


 ……正直死を覚悟したが、なんとか生き延びることができたらしい。

 僕は強い安堵に胸を撫でおろした。

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