9話 視線

「本当に懐かしい……貴方が最後にここを訪れてから、もう随分と経ってしまいましたね。お元気そうで、なによりです」


 そう言って、お稲荷様オイナリサマは苔生した狐の像を撫でる。

 ……僕は小学校の高学年まで、この近くに住んでいたのだ。生来の性格や片親である事もあってか、当時の僕には放課後や休日に遊びへ誘ってくれるような友達も居なかった。

 誰もいない家で過ごすのが嫌いだった僕は、一人の時間の大半をこの小さな稲荷神社……竹林で過ごしていた。

 引っ越しゴミから椅子などをくすねてきてはここに設置し、自分だけの"秘密基地"のように扱っていたのだ。

 ……それが見落とされていた程には、この竹林の中の神社は寂れていた。


「管理者もろくに訪れないようなこの社の周りを、時折箒で掃いてくれましたね。あの、身の丈に合わない大きな竹箒で」


 そう言って、彼女は当時を再現するかのように大きな尻尾で地面の落ち葉を払う。


「あの……あれは」


 違うんです、それは自分の遊び場だからという理由で。心の中で言い訳をしていると、お稲荷様オイナリサマはくすくすと笑った。


「まあ、そんな顔をしないで。ええ、知っています。ここが『秘密基地』だったからでしょう? それでも、ここへ来てくれる貴方はわたくしにとって愛おしいものでした」


 彼女の慈しむような視線が、とてもこそばゆく感じる。妙な照れ臭さに思わず頬を掻いていると、彼女の目がいたずらっぽく笑う。


「でも、社の軒下を艶本の隠し場所にしたのはちょっと罰当たりですよ?」


 指先を口元に当てて「めっ」とする姿に、僕の頬がかあっと熱くなる。


「いいっ!? き、気付いてらしたんですね、申し訳ない……」

「当然です、ここに祀られた神ですから」


 半ば忘れかけていた恥ずかしい事をよりによって神様に掘り返されて、耳まで火照っているのが自分でもよくわかった。

 ある日クラスメイトが河原で拾った事を自慢げに話しているのを聞いて、自分でもいくつか探し出してここに運んだ記憶がある。

 赤くなったり青くなったりしてるであろう僕に堪えられなくなったのか、お稲荷様オイナリサマは口元を隠して笑い声をこぼした。

 ……よく笑う女性だ。


「うふ、ふふふっ……ええ、大丈夫、怒ってませんから安心してください。幼くとも男の子ですし、そういった事に興味を持って当然です」


 むしろ男児たるものそれくらいで無くてはいけない、と彼女は笑う。

 ……さすがは神様、懐が広いと思わざるを得ない。


「貴方と過ごしたあの日々は、とても楽しいものでした。ここらを根城にする野良猫と戯れる貴方、宿題をする貴方、お昼寝をする貴方。そして、片親であることをからかわれて、ここで泣いていた貴方」


 つかつかと歩み寄ってきた彼女の、ひんやりとした手が僕の頬をやさしく撫でる。


「……ずっと、見守ってくれていたんですね」

「ええ、ずっと。撫でてあげられない、声をかけてすらあげられないというのはいささか辛くもありましたが。だからこそ、仮染の肉体を得た今、こうしてお話できてとても嬉しく思います」


 そうやって微笑むお稲荷様オイナリサマ。……しかし、神様とはいえ、全部お見通しという訳でもないらしい。

 一つだけ、彼女は勘違いをしていた。


「――声は、届きましたよ」

「え?」


 それは、今の住居への引っ越しを控えたたある日のこと。


「たった一度、それも最後の最後にですが。たしかに僕は聞いたんです」


 秋口のお休みの日、ここで居眠りしていた僕に掛けてくれた言葉。


「”風邪を引きますよ”って……あれは、お稲荷様オイナリサマの声だったんですね」


 あの時確かに聞いた優しげな声は、未だに脳裏に焼き付いている。


「当時は、幻聴か何かだと納得していました。それでもその声が未だに心に残っているのは、あとでこう感じたからですかね」


 口をぽかんと開けて固まってるお稲荷様オイナリサマに、僕は言葉を続けた。


「もしお母さんがいたらあんな風に声をかけてくれるのかな、って」


 ……言い終えてから少しこっ恥ずかしい気分になってくる。それに、神様に対して”お母さんみたい”だなんて、不敬に取られないだろうか?

 そんな風に思っていると、今までほうけていたお稲荷様オイナリサマは口元に手を当ててころころと笑い声をあげた。


「ふふっ……。そうでしたか、あの声は、届いていたのですね」


 だからあの日はちょっと慌てた様に帰ったのですね、と彼女は笑う。

 ……うん、善意で声をかけてくれたのに申し訳ないけど、あの時びっくりして半ば逃げ出すようにそそくさと帰ってしまったのは確かだった。


「偶然とはいえの声が届くなんて、貴方は少しばかり素質をお持ちなのかもしれませんね。この時代には珍しい事です」

「素質、ですか」

現世うつしよにあらぬ者を感じ取る素質です。遥か昔ならばいざ知らず、今となってはあまり意味のないものではありますが……こうして覚えていただけただけでも、私にとっては素敵な才能です」


 そうやって嬉しそうに笑みを浮かべるお稲荷様オイナリサマは、まさにこの世のものとは思えないほどに美しかった。

 ……ふと気がつけば、彼女の全身から見覚えのある虹色の光がゆらゆらと立ち昇っているのが見え始めた。

 彼女自身それに気付いたのか、きらきらと光る自分の手を見つめた。


「――いけない、懐かしさのあまりに長々と話し込んでしまいましたね。あまり時間がないというのにまだ本題を話せておりませんでした」

「本題……?」


 よく考えれば、思い出話をするためにわざわざ呼び出したはずもない。神様が一体僕になんの用があったのだろうか。

 そう思っていると、お稲荷様オイナリサマはどこかからか拳ほどの大きさをした不思議な形をした塊を取り出した。


「これは……?」

「流星の力――その結晶です」


 そう言って僕の目の高さに掲げられたそれは、この世ならざる輝きを放っている。

 ……流星、つまりはあの隕石のことだろう。その力というと、これまでの事からある程度のことは推察できる。


「貴方もお気付きでしょうが、先日宙そらより降ってきた流星は不思議な力を持っております。これは、獣たちに人の姿を与えるもので……」


 彼女が結晶を手の中で弄ぶ度に、その表面からは虹色の粒子が花火の様に散る。

 とても不思議で、美しい結晶に僕の視線が釘付けになった。


「獣との強き縁を持っていれば、私のような幽世かくりよの存在にすらこうして器を与える、超常の力です。縁の強さから混じり合ったのか、伏見で私の本体が運良く狐の人型として器を得ることができました」


 ……よくよく考えれば、狐はお稲荷様オイナリサマの使いであって、そのものではなかったはずだ。

 しかし彼女の頭には大きな狐耳が生えていて、後ろには立派な尻尾が揺らめいている。


「それで、本題とは?」


 僕が訊ねると、彼女は手の中の結晶を僕に差し出した。……んっ?


「この結晶を貴方に授けます。この流星の力は人に変じた獣に活力を与え、傷や疲労を癒やします。獣に宿る”力”を使い過ぎた時も同様です」


 その上で、お願いがあるとお稲荷様オイナリサマは言う。


「流星の欠片は時が経てば空に溶けてしまいますが、この結晶には力の霧散を防ぎ同様の物質を取り込むまじないをかけてあります」


 そう言って彼女が指さした辺りよく見れば、結晶の中に紅く輝く鳥居のような不思議な文様が浮かんでいる。


「もし貴方が流星の欠片を手に入れた時はこれに取り込ませてください。そして、可能であればとある者たちに渡してやってほしいのです」

「……とある者たち?」

「その者たちは”八咫烏ヤタガラス”を名乗り、恐らくはカラスを連れています。これを見せれば、彼らもすぐに分かるでしょう」


 そこまで言って、お稲荷様オイナリサマは吐息を吐く。


「しかし、これはあくまで”お願い”です。もし貴方が危険を感じたならば、無理をする必要はないのです。仮にこれを失おうとも、責めたりしません」

「……あっ」


 僕の手に虹色の結晶が握らされる。それと同時に、お稲荷様オイナリサマの姿は急速に透明になり始めた。

 急な事態に狼狽えていると、彼女は優しい微笑みを浮かべる。


「安心して下さい、この器を失ってもただ幽世かくりよへとだけ。これからも私は変わらずここに居ます」


 唖然とする僕の前でお稲荷様オイナリサマの姿は、足元から虹色の粒子へと崩れ去り、虚空へと消えてゆく。


「なので……もし、が収まったら。時々でいいので、またここにお参りに来てもらえれば嬉しいです――」

「――ちょ、ちょっと待ってください、今世の中で何が起きてるんですか!? 騒ぎって一体……っ!」


 慌てた僕の問いに「しまった」という風な表情に変わったお稲荷様オイナリサマは、何かを言おうと口を開くもののそのまま虚空へ溶けて消える。

 最後の質問は回答者を失い、宙ぶらりんになってしまったらしい。


「……思い出話に熱中して肝心なことを言いそびれるなんて、お稲荷様オイナリサマも意外とドジっ子なんですね」


 ポツリとこぼした一言に、返答はない。幼き頃と同じ奇跡は都合よく起こってはくれないらしい。

 ただ、なんとなくお稲荷様オイナリサマが傍で謝ってるような、そんな気がする。

 鬱蒼とした竹林は、いつの間にかその先に道路が薄っすら見えるほどに小さなものとなっていた。

 かつて運び込んだ物も当然残っておらず、引っ越してから経た十年近くの時は環境を大きく変えてしまったらしい。

 子供の足には少し遠くともこうして来れない距離でもないのだから、たまには足を運べばよかった、なんて思いながら。

 僕は少しばかり後ろ髪を引かれつつ、神社を後にした。



※※

「流星の力、か……」


 お稲荷様オイナリサマに渡された結晶を太陽に翳して見ると、美しい虹色の輝きを放っている。

 この輝きは隕石が消滅した直後に周囲に見えたものや、擬人化した鳥が飛ぶ時に撒き散らすそれと同じに見えた。

 形状としては透き通った虹色のキューブを乱雑に組み合わせたような、とても不思議な形だ。隕石が運んできたか、あるいは隕石そのものがこれで出来ていたのだろう。

 消滅時に飛び散ったこの破片が動物に当たり、人へ変えていった?


 持ってみて分かった特徴としては、重そうな見た目に反して異常なほど軽い事が一点。

 まるで空気のよう……いや、むしろ実体のない霊的物質とかそういう可能性もあるのではなかろうか。

 神様にまで影響を与える物質だ、ひょっとしたら隕石の破壊に失敗したのもこれの持つ特性が関わっているのかもしれない。


「……それに、渡してくれって言ってもどこに行けば会えるのやら」


 お願い事に関する肝心な情報が殆どこちらに伝わっていない。

 お稲荷様オイナリサマの意外なツメの甘さに、思わず笑みが溢れる。

 僕の中での彼女の印象はもはや神様というより、ちょっと抜けた近所のお姉さんといった印象に変わっていた。



「アライグマちゃんは……まだいないっぽいなぁ」


 スーパーの近くまで戻ってきた僕は、情報収集のために飛び出していった少女の姿を探した。出た時に閉めた扉は開いておらず、おそらく彼女がまだ戻っていないであろう事が伺えた。

 ……とりあえず、一旦帰って夕方にでもまた出直そうか。


 そう思って歩き始めた、その時だった。


「いやあ――――!」


 絹を裂くような叫び声が僕の耳に飛び込んできたのだ。

 妙な胸騒ぎがして、僕の足は自然と声の方へと駆けていき――そして。


「――――!!」


 僕は、それを見てしまった。


――それは、例えるならば青く巨大な球体。

 艷やかな表面は液体のように緩やかに波打ちながらもその形状を保っている。

 その側面からは幾本もの太い触腕のようなものがうねっており、その先は鰐の顎のような形状だ。そのギザギザとした牙は容易に人体を両断しそうな凶悪さを見せている。

 路地を塞ぐような形でふわふわと浮かぶそれが――。


『■■■■■――?』


――ぐるり、とこちらへ振り向く。

 金属の管を通る空気のような低く震えたノイズ音が、発声器官も見当たらないそれから発せられ、僕の背筋を凍らせる。

 青い球体表面の中央部には、立体感がない白黒の目玉状の何かが一つ波打っており、その視線がこちらをじっと射抜いていた。


 ――二日経ってなお帰ってこない人々

 ――人とも獣とも異なるにおい

 ――不可解な停電

 ――そして、お稲荷様オイナリサマが言っていた”騒ぎ”の元凶。


 それらの答えであろうモノが、僕の目の前に悠然と浮かんでいた。

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