2話 ある忠犬
1日目 昼
「ひゃあ――!!」
――どんがらがっしゃーん!
突如として耳に飛び込んできた悲鳴と轟音に、微睡んでいた意識が覚醒する。僕は慌ててベッドを飛び出し居間へ走った。
「どうした!?」
「うぅーっ……!」
居間に入ってまず目に入ってきたのは、仰向けにひっくり返って額を押さえるクーの姿。そして無残に破壊されたテレビである。
テレビの先にはクーお気に入りのキャットタワーがあり……僕は全てを察して小さく溜息をついた。
「……大丈夫か? ほら、おでこ見せて」
「う、ぐぅう……はい……」
そう言って涙目で差し出された額はやや赤くなっているものの、傷は無さそうだ。
優しくおでこをさすってやると、クーがえぐえぐと泣き出した。
「痛む? 冷やすもの持ってこようか?」
「ぢがう゛の゛……はこ、ごわしぢゃっだぁ、ごべんぁざい……」
「……いいよ、もうだいぶ古くなってたし。それよりも、体格全然違うんだから今までどおりに振る舞ってちゃ危ないだろ」
「ぁい……」
彼女は日々、テレビからキャットタワーの最上段への見事な跳躍を見せてくれていた。
が、それを人間の体格でやればどうなるかはご覧の通りである。
というか、目的地たるタワー自体も今の彼女が乗るには手狭すぎるのだ。
僕は冷蔵庫からひんやりシートを取り出すと、彼女の額へ貼ってやる。
「ひゃっ」
「しばらくそのまま貼っといてね」
「はぁい……」
キャットタワーを見ると、ぶつけたと見られる場所が激しくひしゃげていた。かなり硬質な素材で出来てるはずなのだけど。
僕はクーが無事だったことに安堵すると同時に、その頑強さに戦慄する。
同じ衝撃を僕が受ければ、額ぱっかぁんは免れないであろう。
「テレビの処分ってどうするんだっけ……後で調べないと」
年代物のブラウン管の画面は粉々に砕け、ガラスが飛散していた。
飛び散った破片を片付けようと箒を取って戻ってくると、クーが何故か壊れたテレビの前で正座している。
「クー、別に怒ってないよ」
「うぇ? うん……あったかい寝床、壊れちゃったなぁって」
「あー、その上でよく寝てたからなぁ」
クーにとってのテレビは温かい寝床でしかないらしかった。そういえば、クーは画面に興味を持つことはなかったな。
「まあ、今のでわかったろうけど今のクーには色々と小さすぎるから気を付けてね」
「うにゅう……」
しょんぼりするクーを後目に大きな欠伸が出る。終末を起きて迎えるための夜更かしの後、クーのカレーを用意したりするうちに朝を迎えてしまった僕は遅めの睡眠を取っていたのだが……すっかり目が覚めた。
「12時過ぎか……」
六時間近くは眠れたし、まあ丁度いいタイミングだったとも言えるだろう。
「あ、お腹は空いてる?」
「……空いてる!」
途端に耳と尻尾がピーンと立つ。なんともゲンキンな子である。
猫時代は朝晩二食が基本……おやつ除く、であったクーではあるけれど、今の体だと三食与えるのが適当かと思われる。
しかし、ひとつ問題が。
「猫人間にこんな味の濃いものを食べさせて大丈夫か不安だ……」
「いいにおいー!」
今食べているチキンスープのラーメンは僕にとっても味が濃いと感じる。もちろん、猫に食わせるには塩分過多で論外だ。
明日がない前提で過ごしていた我が家には現在こんな物しか食料がない。
それでも、僕が普通の食事をする横で
「あっつ!」
「ほら、小皿に入れて冷ましてから食べて」
「あい!」
クーはやはり猫舌らしい。フォークを握りしめいい笑顔で答える彼女を見つつ、自分でもラーメンをすする。うん、んまい。
……しかし、昨夜まで世界の危機なのだーといった感じだったのに。しかも何故か動物が擬人化するという異常事態に遭遇しているにも関わらずこんなに何事もないように日常を過ごしていてもいいのだろうか。
「クー、味濃いから汁は残そうか」
ふと、丼を持ち上げ顔に近づけるクーに気づいて声をかける。
さすがに汁まで飲ませるのは怖い。
「ええー、にーちゃは飲んでたじゃない!」
どうやら、僕の真似をして飲もうとしたらしい。なんという迂闊。
「僕は……ほら、人間だから。それに熱いからベロやけどするよ」
「むー」
そうむくれながらも丼を置くクーを眺め、彼女の扱いについて考えを巡らせる。
社会的な問題は、まあ世間に同様の例が溢れているならいずれなんとかなるだろう。
問題は僕自身が彼女に対してどう接してやるか、ということだ。
今はとりあえず年の離れた妹だとでも思って接しているが、クーにとって本当は何が一番いいのかまだよくわからない。
人間として扱うと言っても、そのための物資も現状不足している始末。ここは田舎というほどではないが郊外寄りであるし、各種サービスの復旧に何日かかるやら。
家に放置するのが嫌だったから出したゴミも当然まだ回収されていない。……人が戻ってこなくては何も始まらないな。
しかも、食べるものも残り少ないときた。……仕方がない、か。
「クー、ちょっと外に行ってくるけど……」
「うにゃ……?」
「眠いなら留守番しとく?」
クーは眠たげな瞳をこすりながら頷く。
思えばただの猫だった時、昼間のクーは大体ぐーすか寝ていた。猫は夜行性だしね。
「じゃ、ちょっと行ってくるから――」
といったその時にはもうカーペットの上で丸まっているクーであった。
※※
「誰もいないなぁ……」
町中は昨日までと変わらずゴーストタウンの様相であった。
空を見上げればたまに擬人化した鳥らしき人影が飛んでいるのが見える。
最初はギョッとしたものだが、チビ助のおかげで正体は把握済みだ。
街にいるであろう不審な人影も、正体がわかるならば驚くことも……。
「――くおんさま?」
「うおっ!?」
……ない、とは限らないのであった。流石に名前を呼ばれては驚きもする。
蚊の鳴くような微かな声は散策の目的地の一つである、近所のとある老夫婦宅の庭から発せられていた。
僕が恐る恐る塀の影から庭を覗く、と。
「今日も来てくれたのですね、くおんさま」
そこに座っていたのはシベリアンハスキーのシーザーくん……だったと思われる、一人の少女であった。
「おおシーザーよ、お前もなのか……」
「……はい?」
子首を傾げる彼女の姿はどことなく、髪の毛やら服装やらにハスキー犬の面影がある、気がする。ちなみに元はやたら立派なものがついたオスだ。
“おすわり”の体勢でこちらを見上げている彼女に目線を合わせようとしゃがむと、彼女はいつもしてきたように僕の胸元に頭を一度擦り付けてくぅんと一声鳴いた。
「……相変わらずそこに座ってるんだね」
「ご主人さまがたが帰ってくるまで、ここを守らねばなりませんので」
そう言って胸を張る彼女の健気さに、僕は少し悲しい気分となった。
この家に住む老夫婦とはシーザーを通じて知り合った昔からの知己だ。
久遠くん久遠くん、と何かと可愛がってくれた彼らはシェルターへ避難するにあたり、連れて行くことのできないシーザーを後ろ髪を引かれながらも置いて行ってしまった。
仕方のない事だとは、思う。
「それで、そのぉ――」
「うん、もちろん持ってきたよ。持ってきたけど……」
シーザーがやや甘えるような声でやんわりと催促してきたので、リュックから取り出した袋を見せてやる。
もじもじするシーザーの背後でゆらゆらしていた尻尾がちぎれんばかりに荒れ狂う。
数日前に出発した彼らが山と積んでいったドッグフードは、ご馳走にハッスルしたシーザーと、集まってきた野生生物たちによってまたたく間に食い尽くされてしまった。
シーザーは図体は大きくとも、人にも動物にも吠えない温厚な犬である。平時から野良猫に餌を途中で奪われながらも尻尾をゆらゆらさせて見守っている姿をよく見かけた。
番犬としてはダメっぽい子ではあるが、そんなところも含め彼は皆から愛されていた。
出発の際に首輪を外され自由の身となったシーザーではあるが、忠犬たる彼は変わらず庭先に座っている。
「毎日ありがとうございますっ!」
「好きでやってることだから気にしないで。ただ、今でも口に合うといいんだけど……」
擬人化を想定していなかった為、持ってきたのはいつものドッグフード。
やはり別のものを持ってこようかと迷いながらも、よだれを垂らして手元を凝視する彼女に負けて餌皿に入れて差し出す。
……しかし、彼女はそれを受け取らず、真面目な顔で”おすわり”の体勢を続けていた。
しばらく考えた僕は、そっと手のひらを差し出してみる。
「……お、お手?」
「ハイッ!」
待ってましたとばかりにシーザーは元気よく応じてくれた。
僕はそっと餌皿を床に置き、もう片方の手のひらを差し出す。
「おかわり」
「ハイっ!」
シーザーの鼻先に出した僕の右手人差し指がすっと円を描く。
「おまわり!」
「ハイっハイっ!」
「伏せっ!」
「ハイッ!」
しゃがんだままの体勢から勢い良く横周りに回転すると、勢いのまま伏せの体勢へ移行するシーザー。
「待て!」
そして身動きをやめ、じっと餌皿を見つめる彼女を焦らすこと数秒。
「……よし!」
「いただきますっ!」
元気よく宣言したシーザーは地面に置かれた餌皿に躊躇なく顔を突っ込み、ガツガツとドライフードを食べ始めた。
「…………」
――その光景に謎の罪悪感に苛まれる。女の子に対して一体何させてるのかと。
……いや違うのだ、プレイとかではないのだ、いつも通りの彼、いや彼女につい流されてやってしまっただけだ。
心の中で言い訳をしていると、空になった餌皿がカランと音を立てた。
「ぷはーっ! ごちそうさまですっ!」
お腹を空かせていたのか、彼女は凄まじい勢いでドッグフードを完食してしまった。
クーが人の食事に馴染んでいたから口に合うか少し不安だったが、どうやら動物時代の食事も平気なご様子。
……とはいえ、やはりその絵面は余りにも背徳的であった。
「次はなんか対策考えてくるから……いや、なんでもない。ほら水はこれね」
流石に水は皿に注いだりせずペットボトルのフタを開け、そのまま手渡す事にした。
固形物はともかく、液体は人間の口ならこちらの方が飲みやすかろう。
彼女が小首を傾げていたので一口だけ飲んで見せると、なるほどといった様子で真似して飲み始めた。
「――くおんさま。その、少しお聞きしたいことがあるのですが」
「うん?」
水を飲んで一息ついた後しばらく黙っていた彼女だったが、気付けば不安げな面持ちでこちらを伺っていた。
「ご主人さまがたがどこへ行かれたのか、くおんさまはご存知ですか?」
「…………それは」
――その質問は予想していた物ではあった。しかし、どう答えるのが彼女らにとって良いものなのかは未だに測りかねていた。
僕が少し言葉に詰まっているのを見かねてか、彼女はおもむろに口を開く。
「――あの日、ご主人さまと奥さまは、今まで見たこともない表情で私を代わる代わる何度も強く抱きしめてくださいました」
遠くを見つめながらそう語りだした彼女に、僕は口を挟めなかった。
「私は今でこそ、くおんさまともお話できるようになりました。しかし、あの日の私はただの犬です。難しいお話は、わかりません」
そこまで言って、シーザーは口ごもる。
しばらく何かを考えるような仕草をした後、彼女は続けた。
「ただ……とても申し訳なさそうな、悲しそうな、そんな顔をされていた気がします。奥さまなど、涙を流されていました」
三隅夫妻がいかにシーザーを愛していたのかは、僕も知っている。僕には想像する事しかできないが、とても辛い決断だったのは確かだろう。
「私にはなぜご主人さま方が泣いていたのか、わかりません。なぜ、何日もここに帰らないのかも、分かりませんでした。それでも私は疑う事なく待っていました」
昨日までの彼は、元気だった。
主人が帰って来ることを微塵も疑うことなく、寂しげながらも力強く待ち続けていた。
「――しかし、この姿になって考える力を得た私は少し、不安になりました」
そして彼女は、何かをこらえるように、吐き出すように声を絞り出した。
「もしかしたら、私は……」
――捨てられてしまったのでは、と。
そう語った彼女の表情に先程までの明るさは見られず。眉は不安を湛えて垂れ下がり、大きな獣耳は悲しげに伏せられて。
――今まで穏やかに揺れていた尻尾も、力無く地に垂れていた。
彼女が今語った通り、人の姿を取った事が悲観が入り込む原因になったのだろう。
知恵を得る事が、必ずしも幸福につながるとは限らない。僕は、純粋な彼女に対し、嘘や下手な誤魔化しをしたくないと思った。
「三隅さん……いや、君のご主人様はシーザーを捨ててなんかいないよ」
ぴたりと伏せられていた大きな耳が、僕の言葉に反応してゆっくりと起き上がる。
「――昨日の夜に、空がまぶしく光ったのが見えただろう?」
「はい、私がこの姿になったのも丁度その頃だったと思います」
シーザーはまっすぐと僕の顔を見つめ、次の言葉を待っている。
「シーザーのご主人様もそうだけど、僕ら人間はね、
「そうなのですか?」
「うん、僕達は
彼女は雷を例に出されると、少し納得したような顔になった。
シーザーと雷に関するエピソードはいくつも聞かされていた……内容に関しては、彼女の名誉のためにも省く事にするが。
「なるほど、かみなり……ですか。確かにそれならば納得できます」
うんうんと頷いていた彼女は「実は私も」と前置きして話し始めた。
「かみなりの日は特別に家に上げてもらえました。その上ご主人さまや奥さまに抱きしめてもらっていたのですが……それでも音にびっくりして粗相してしまうぐらいには私もかみなりが苦手なんです、だから分かります」
……省いた詳細を本人の口で語られてしまった。「シーザーの可愛らしいエピソード」として三隅さんの奥さんから聞かされたものの一つである。
対策として予め膝にペットシーツを敷いて抱きしめているのだとか。
「そう。それでみんなで安全な場所へ集まる事にしたんだけど、そこには人間しか入れてもらえないんだ。だから三隅さんたちは君を置いていくしかなかった」
……しかし理由があれど、シーザーを一人家に残して避難した事は事実だ、誤魔化しようがない事。
反応が少し怖かったが、シーザーは意外にもその表情を曇らせたりはしなかった。
「それならば仕方がありません。オスは伴侶を守るものです、奥さまを優先されたのは当然のことでしょう……それで、ご主人さまがたは?」
「うん、
「……よかった」
僕の言葉に安堵の表情を浮かべた彼女を見て、わだかまりなく事実を伝えられた様子に胸を撫で下ろす。
……あとの事は、帰ってきた三隅さんたちとシーザー次第だ。先に擬人化について三隅さんに伝えておきたいけど。
「……さて、僕はそろそろ行くよ。三隅さんが帰るまではご飯持ってくるからね」
「ああ、何度もすみません……この御恩は必ずお返ししますので!」
「はは、あんまり気にしなくていいよ。それじゃ、またね」
尻尾を振りながら見送る彼女に手を振ると、僕はもう一つの目的の為に歩き出した。
――散策の最終目的地は、近所のスーパーマーケットだ。
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