隕石がもたらしたもの

1話 黒衣の来訪者

1日目 早朝


「カレーおいしーね!」


 居間のテーブルには、不器用に握ったスプーンでカチャカチャと音を立てながらカレーを掬うクーの姿があった。

 卵を投入し、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられたレトルトカレー(甘口)はびっくりするほど食欲をそそられないが、彼女的には顔をベタベタにするほど大満足の味らしい。

 真っ白だったノースリーブのシャツには茶色の染みが転々と散り、これまた白いスカートには小さなジャガイモが転がっている。

 これはひどい。


「……カレーにしたのはまずかったかな」

「ええ、おいしーよ?」

「いや、そうじゃなくて……っあ、そういえばタマネギ……」

「……?」


 劇的に茶色く染め上げられていく彼女の顔と服を見て失敗を悟っていたのだが、それ以上の問題を今更思い出して少し青ざめる。

 人の姿をしているから素で忘れていたが、猫にタマネギは御法度である。

 仮にクーの体質が猫そのものだとしても、今の姿が見た目通りならば体重的に問題は出ないはずではあるが……。


「……クー、食べ終わったら一応体重測ってみようか」

「うん?」


※※


 人は自らの許容できる範囲を遥かに超えた出来事に直面すると逆に落ち着いてしまうという話を聞いたことがあるが、僕は今まさにそれを味わっているのだろう。

 僕の貧弱な許容量は地球滅亡の危機を前にパンクしていたのか、クーが人の姿になると言うある意味隕石以上に奇妙奇天烈かつ摩訶不思議ホンワカパッパな事態に対し、自分でも驚くほど冷静でいられた。

 取り乱してクーを不安がらせたりする事もなく普段通りに接する事ができたのは怪我の功名と言えるのかもしれない。

 対するクーと言えば変化した体で僕に抱きついてみたり、延々と喋り続けてみたりと大興奮した様子。彼女が落ち着きを取り戻す頃にはすっかり空は白みはじめていた。

 空腹を思い出したのか餌皿の前でそわそわし始めた彼女には悪いが、人間の少女が四つん這いで餌皿に顔を埋める姿は余りにも犯罪チックであるため、お気に入りのドライフードを注ぐわけにはいかない。

 そういう事で本日からは人間的な食事を取ってもらう流れとなったのだが……初っ端からやらかした。


「うーん……まあ多分カレーひとパックくらいなら平気、かな? でもしばらくカレーは無しで様子見な」

「えー!」

「えーじゃない」


 手慣れた動作で毛づくろいをしていた彼女に(驚くべきことに、カレー染みが綺麗に消滅した)そう伝えるも、抗議の声を上げられてしまう。

 今測った体重と身長からして見た目通りに中高生くらいの体格は持っているようだし、猫基準ならば多少のタマネギは平気だろう。

 そもそも擬人化していれば大丈夫なのかもしれないが、万一倒れたらどこに担ぎ込めばいのか検討もつかない。

 とりあえず二、三日は様子を見なければ。


「さて、僕はちょっと後片付けしてくるから適当にくつろいでてくれる?」

「うん、わかったー!」


 手と尻尾をふりふりしながら答えるクーに気分を癒やされながら食器を台所へ運ぶ。

 皿を水に浸けた所で、一杯になったごみ袋が並んでいるのが目に入る。

 地球滅亡の危機が回避されたことでごみ収集車もそのうち動くことだろうし、急に来てもいいよう一応出しておこう。

 平時なら今日はごみの日だし。


 玄関を開けると、二度と拝めないと思っていた朝日が眩く輝いており、心なしかいつもより目に染みた。

 スズメの鳴き声もどこかいつもより喧しく、日常の再開を祝福しているかのようだ。

 時刻は午前五時半、ほんの一月ほど前ならば通勤者の姿も見え始めた時間だが、通りには誰の姿も見えない。

 日本の企業戦士たちも星降りからの夜明け直後に出社はしないらしい。ここらの住人もシェルターへ押しかけたり田舎へ帰ったりで単純に住民があまり残っていないのが一番の理由ではあるが。

 まあ、数日もすれば人々も戻るだろう。


「おっ」


 人ではないが、来客があった。

 家の前のごみ捨て場に目をやると、そこでは数羽のカラスが待機している。黒い瞳が、じっとこちらを伺っていた。


「……はいはい、分かってるよ」


 ごみ袋をネットに詰め終えた僕がビニール袋を取り出すと、待ってましたとばかりにカラスたちがチョン、チョンと寄ってくる。


「ゴミは荒らさないでね」


 そう言って袋の中身を我が家の敷地内へぶちまけると、カラスたちは目の前に飛び出したもの――パンの耳へと飛びついた。


 ……カラスは賢い鳥である。人の顔を判別し、恩も恨みも忘れない。

 ゴミ用ネットをこじ開けて中身を引きずり出すことすらあるご近所カラスに僕が試した手は、であった。

 意図を理解してもらえるよう試行錯誤は必要だったものの、今ではゴミを荒さないどころか敷地内にはフンすらしない。賢い。


 パンの耳を楽しむ姿を眺めていると、不意にカラス達が一斉に空を見上げた。

 一体何が、とつられて空を見上げた瞬間、先程まで眩しかった朝日を何かが遮った。


「なっ―――!?」


――まず、ゆったりとした大きな羽音が耳をついた。町中を飛ぶ鳥が発する忙しないものとは全く違う。

 次に、見覚えのある虹色の粒子が辺りを舞ったかと思えば、今度は太陽を背負った黒い大きなシルエットが目に飛び込んでくる。


 そのシルエットは、鳥のそれではなく――

 

――空に浮かぶ、一人の少女のものあった。


 身一つで中に浮かぶのは黒いセーラー服を身にまとった少女。それが、唖然とする僕の前へ、ゆっくりと下降して来ていた。

 風に靡く髪は、まるで翼のように羽ばたいて虹色の粒子を撒いている。

 真っ黒なタイツに包まれた細い脚をクッションにし、同じく黒いローファーが地面を踏みしめる。彼女が地面に降り立つと同時に、辺りを舞っていた虹色の粒子はすっと宙に溶けて消えた。

 余りにも幻想的な光景に呆然としていた意識が覚醒する。顕になった顔を見ると、その容貌は驚くほど整ったものだ。

 ゆったりとしたセミロングの黒髪は艶々と輝き、左だけ伸びた前髪に隠された青い瞳も含めて、僕はどこか冷たい印象を抱く。


 バサバサァッ!

「――っ!?」


 いきなり彼女が両手を勢い良く広げ、様子をうかがっていたカラスたちが驚いて一斉に飛び立ってしまう。

 周囲をカラス達が落とした黒い羽根が舞い――その中心には黒い少女が佇んでいた。


 突然の出来事に、僕の心臓は早金のように脈打ち、全身は緊張で硬直している。

 そんな僕に対して少女は一瞥を寄越したのみで、まるで興味がない様子でその視線を地面へ落としていた。

 そしてチョン、チョンと見覚えのある動作で跳躍したかと思うと――


――その場にしゃがみ込んで、地面に散らばるパンの耳を口へ運びはじめた。


「もぐもぐ……」



「えぇ……」


 脱力のあまり、僕はその場に崩れ落ちてしまうかと思った。

 まるで非日常の始まりを告げるかようなミステリアスな登場シーンを披露した少女は、一瞬にしてその印象を蹴散らしてしまった。


「あげないわ」

「いらないよ……」


 あまりにじっと見ていたからか、少女は最後のひと切れを急いで頬張りながらこちらを見上げていた。

 少女は手に付いていたパンくずをついばむように舐め取ると、立ち上がってこちらに手を伸ばしてきた。


「……なにか?」

「私のぶん、今日も残してあるんでしょ? ちょうだい」

「ん、ん? ……あっ」


 その言葉で、僕は一つの確信を得た。


「ひょっとして、チビ助か?」

「え? ああ、たしかにそんな風に呼ばれてた気がするわね」


 僕が問うと少女――が肯定する。

 うちを訪れるカラスの中に、群れの中で目立って小柄な子が一羽いた。

 微妙に動作がトロいのもあり、他のカラスに押しのけられてはよくパンを横取りされがちだった。

 少し不憫に思った俺は、パンを一度に全てまかず、一部手元に残しておいてその子が食べやすい位置に投げてやるようにしていた。

 その際、チビ助と呼んでいたのだが、彼女はそれを覚えていたらしい。


「まあなんでもいいわ、それもちょうだい」

「いや、まあ、いいけど……」


 意外と図々しい彼女にちょっと引きつつも手元に残していたそれを手渡すと、彼女は目を輝かせて袋の中身を食べ始める。


「……なあ、君の仲間の中でそんな姿になった子は他にも居るのか?」


 気になっていた事を訪ねてみると、彼女は食べる手を止めこちらを向いてくれる。


「そうね、この姿になった子なら他にも何羽かいたわ。まあ互いにびっくりして散り散りになっちゃったから、どこに行ったかまでは知らないけど……」

「そうなのか」


 どうやら、俺とクーに起こった不思議な出来事は意外にも普遍的な(?)現象らしい。

 珍しい体験をするあまりに「謎の特殊部隊によってクーを奪われ記憶を消されたりするのでは」という密かに抱いていた心配はどうやら杞憂に終わりそうだった。

 どう考えてもあの隕石が原因だし、現状から見てこの擬人化現象は世界中で起こっていると考えた方が自然だ。

 空想上の謎の組織でもこの規模の異変にはお手上げだろうさ。


「――ねえ、これでもうおしまいなの?」

「えっ? ああ、君らに用意したのはそれで終わりだけど……」


 気付けば彼女は袋の中身を食べ尽くしていた。仲間の分を独り占めしてなお彼女のお腹は満たされないらしく、何とも切ない表情を浮かべている。

 ……まあ、確かにヒトの食事としては物足りないだろうね。


「そうなの……残念」

「……あのさ、仲間追っ払ってたけど、いいのか?」


 がっくりしている彼女に対し、もう一つ質問をぶつけてみる。カラスの恨みは根深い、と言うのは僕も目の当たりにしてきた。

 カラスに石をぶつけた近所の悪ガキが頭を蹴っ飛ばされたり顔に爆撃されたりと散々な目に遭った事は町内で有名なのだ。

 元同胞とはいえ……いや元同胞だからこそ、報復が恐ろしくないのであろうか。

 そう思っていると、彼女は端正な顔で不敵な笑みを浮かべた。


「ふふん、見ての通りあたしはヒトの姿を得たのよ? アイツらなんてもう怖くもなんともないわ。もう偉そうになんてさせないんだから」


 そう言って拳を握る彼女に「ああ、イジメられてたのかな」と察してしまい、なんだか微妙な気分になった。

 カラス社会もなかなか大変らしい。


「この体は大きくて強いけど、お腹いっぱいにならないのよね。あ、ごはんありがと! それじゃあ、またね!」

「え、ああ、またな」


 彼女はそれだけ言うと軽く足を屈め、跳躍の勢いで宙へ飛び出す。あの髪はやはり翼の役割を果たしているらしい。

 虹色の粒子をまき散らしながら元気に飛び立った彼女の背に軽く手を振る。

 僕はどんどん小さくなるシルエットを見送りながら、「擬人化しても鳥は飛べる」と頭のメモに書き込んだ。……しかし。


「……飛ぶ時は気をつけないとパンツが見えてるよ、って教えた方が良かったかな」


 彼女に羞恥心という物があるようには見えなかったが、あの姿をしている少しは気にする義務がある、と僕は思うのだ。

 他のカラスたちが戻ってくる様子はないし、僕は家に戻ることにした。

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