3 蕎麦屋

 彼はコンビニの夜勤スタッフだった。夜の十一時から朝の八時まで、休憩一時間を除き八時間。週五日、働いていた。

 朝起き夜眠る、いわゆる『普通』の人達とは真逆の生活リズム。彼はよく他人に自らの生活を説明する時こう言っていた。「時計一周分の時差がある、ってこと」


 慣れてしまえば何という事もない、と事も無げに彼は言ったが、そんな生活を送っていると、実際に体験してみないと気付けないような小さな不便が幾つもあるのだと言う。

 その一つが、仕事終わりに外食出来ない、というものだった。


 彼はラーメンが好きだった。前職では仕事終わり、よくラーメン屋を巡っては味比べをしたものだった。それが夜勤スタッフとなると、仕事終わりのタイミングに飯屋は営業していないのだ。昼前まで待つと、その日の夜の仕事に影響が出る。深夜営業時には夜勤が一人で店を回さなければならなかった。しっかり眠らなければ、ハードな夜勤業務をこなせないのだ。


 その日、彼は仕事を終えて店を出た。朝の八時過ぎ。出勤ラッシュの人の波に一人逆らい、駅へと向かう。

 彼は腹を空かしていた。疲れも感じていた。季節は二月、冬はラストスパートとばかりにびゅうびゅうと北風を吹かす。暖かいラーメンが食べたくて仕方なかった。


 とはいえ時間が時間、近くに開いているラーメン屋など無かった。駄目元で検索するも、やはり営業している店は無い。

 彼はそこで閃いた。……蕎麦屋で検索をかけてみたらどうだろうか。

 その思惑は当たった。すぐ近くに一件だけ、この時間に営業している蕎麦屋がある。

 彼は喜び、足を急がせた。見るとチェーンではない、個人経営のこぢんまりした古い蕎麦屋。近くのオフィスで働く人達の朝食需要を見込み、この時間から営業しているらしかった。


 店に入ると四つのテーブルとカウンター。スーツ姿の客が三人。厨房に店主らしき禿頭とくとうの男性の後ろ姿が見えた。


 券売機で暖かい蕎麦を買い、店主に差し出す。カウンターで座って待っていると、すぐに蕎麦が出てきた。

 もうもうと湯気を放つ蕎麦。カップラーメンばかり食べているので、久々の外食に胸が高鳴る。


 つゆを一口、すくってすする。出汁だしが効いててウマイ。暖かさが胃から、全身に伝わるのを感じた。

 さて麺、とばかりに割り箸を割ると、一口分掬い上げ、うつむき、口へ運ぶ。


 啜り始めた、その時だった。


「すみません」


 ――声が、聞こえた。


 それはまさに、『蚊の鳴くような声』だったという。細く、消え入りそうな女性の声。


 ニュアンスとしては『sorry』ではなく、『excuse me』。


 自らの麺を啜る音にかき消され、しっかり聞き取ることは出来なかった。咀嚼すると、辺りを見回す。

 店の中には、女性は一人もいなかった。

 彼は特に気にすることなく、食事に戻った。


 ──しかし。彼はその店に行く度にその声を聞く事となる。いつも決まって、俯き一口目の蕎麦を啜り始めた瞬間。ズズズッ、という音に混じって。


「すみません」


 と、聞こえるのだ。

 それはいつも決まった方角、店の入り口の方から聞こえるのだという。


「……それだけ?」


「それだけ」


 事も無げに、彼は言った。


 だから奇妙だなぁ、とは思いつつ通い続けているというのだ。コワイよりウマイの方が勝っているのだ、と彼は続けた。

 これからも通い続けるよ。そう、彼は笑顔で言った。



 ――この話には、後日談がある。


 それから数ヶ月後、季節は夏。蒸し暑い晴天の日。彼は仕事終わりにいつものその店に行くと温麺ではなく、ざる蕎麦を注文した。


 いつものようにカウンターで待っていると、すぐにざる蕎麦がやってくる。彼は蕎麦を一口分箸で掬うと、麺汁めんつゆひたした。


 彼はあまり行儀が良くないことを自覚しながら、ざる蕎麦を食べる時には蕎麦を麺汁に完全に浸して食べる。麺を掬うと、一気に啜った。


「すみません」


 いつもの声が聞こえる。慣れっこだった。


 人間、慣れというのは怖いもので、絶対にありえない、言ってしまえば霊的現象のような事が毎度起こっているというのに、無害ともなると気にしなくなる。


 彼は気にせず、二口目の蕎麦を掬うと麺汁に漬ける。


 掬い上げた、その時。

 口に運ぼうとしたその一瞬、気付いた。


 麺の中に、混じっているものがある。


 指で摘んで引っ張る。それは細く、黒く、長い、一本の髪の毛だった。


 箸を止め、まじまじと見つめた。ざるから掬い上げた時には気付かなかった。自分のものであるはずはなく、かといって厨房の中で入ったとも思えない。


 厨房の中には、禿頭の店主が一人居るのみなのだから。


 彼は店主にそれを訴える事もなく、その二口目を麺汁の中に戻すと、そのまま店を出た。


 それ以来、その店には一度も行っていないらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る