2 浴槽
「そういえばアンタ、幼稚園まで行く道どうしても変えてほしいってワンワン泣いたことあったわね」
世間話の流れで母親の口から出た言葉。それは、彼女に遠い昔の出来事を思い出させた。
――二十年以上前のことである。彼女はまだ三才で、幼稚園に入ったばかり。母の漕ぐ自転車の後ろに座り、週五日、家と幼稚園を行き来していた。
その道すがら。小さな畑があって、その手前には木々が生い茂り陰っていた。その木の下に、浴槽があった。
(おふろだ)当時の彼女は思った。何故そこにあるのか、幼い彼女にはわからない。
古く、土で汚れた剥き出しの浴槽。畑仕事で使う水を貯める為に置いてあるのであろうそれが、彼女は気になった。行きも帰りも、そこを通る度に目をやった。いつも木の影の中にあって、日の光を浴びている所は見た事がない。
彼女はどうにも気になった。そこにあるのが不思議であった──それだけではない。
子どもながらに――子どもだったからこそ、と言うべきか。
何かを感じ取っていた。
ある日の夜の事。彼女の母は駅前のレストランで古い友人と食事をする約束をしていた。
母は幼い彼女を連れて行った。友人にも彼女と同世代の娘がいたので、きっと友達になれるだろうと以前より計画していたのだ。
食事会は盛り上がった。母とその友人は昔話をし笑い合い、子ども同士はすぐに打ち解け仲良く遊んだ。
気付いた時には、かなり深い時間になっていた。母の漕ぐ自転車の後ろに乗って、家路につく。
途中から、いつも通る通園路を走っていた。
あの畑の横を、もうすぐ通る。遊び疲れた彼女は後ろでウトウトしていたが、通り過ぎる時、癖のようにそちらを見た。
木の陰、月の明かりも届かない闇の中に、いつものように浴槽はある。
その浴槽の中に、真っ黒な人のシルエットが見えた。胴の辺りまで水に浸かり、両手で
黒い、人の形をしたものが、浴槽の中にいる。
通り過ぎる一瞬の間ずっと、彼女は見られていたような気がした。
彼女を目で追うように、首がグゥーッ、と動いた。
母の後ろで彼女は固まってしまった。今にも叫び出しそうに口がパクパク動いたが、声は出ない。母に何か伝えたいが、言葉にならない。
そして家に着き玄関でやっと、ワァーっと泣いた。
彼女はその後すぐ、母に通園ルートを変えてくれと訴えたのである。
――彼女はもうすぐ母親になる。子どもが大きくなったら、思い出深い、自らの通った幼稚園に通わせたいと思っている。
だが、あれ以来一度も通っていないあの道を通って、子どもを通園させる事は絶対にあり得ない、と彼女は言う。
大人になった彼女はもう平気でも、子どもの方が、見てしまうような気がしてならないのだ、と。
その畑と浴槽は、今だにそこに在る。
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