隠怪談百物語
かくれ
1 夜間押ボタン式信号機
会社員の彼は残業を終え、一人家路についていた。
深夜一時過ぎ。ハードワークに疲労し、軋む身体に鞭打って帰る。足取りは重く、明日も仕事で気分は憂鬱。梅雨の最中で湿度が高く、身体がベタつき不快だった。
街灯の少ない夜道は暗く、空には覆いかぶさるような一面の雲。月も星も無く、空気中の黒を一層濃くする。
その年の春から住み始めた街で、土地勘が無い。住宅の明かりはどこも消え失せ、馴染みのない街で独り、心細かった。
もう少しでやっと自宅──という所で、彼は横断歩道の前で歩みを止めた。目の前の信号が、赤く光っている。
夜間押ボタン式信号機。彼は生真面目な性格だった。真夜中の見通しの良い道路で、車のヘッドライトは確認出来ない。だが彼はいつもそうしているように、迷わずボタンに手を伸ばした。
その瞬間、彼は見た。
『許してください』
赤く光る文字だった。
正しくは『押してください』とあるべきの文字が、そう見えたのだ。
指の動きは止まらずボタンは押され、文字は『お待ちください』に変わった。
彼は戸惑った。なんだ今のは……? 単なる見間違いか、疲れているせいか。
信号はすぐに青に変わった。彼は特に躊躇する事もなく、歩き始めた。
そして横断歩道を渡りきった、直後だった。
夜の静寂を切り裂くけたたましい高音。それはまるで大きなガラス片を黒板に突き立て思いっきり引っ掻いたかのような、恐ろしい音だった。
続け様にボンッ、ドンッ、と鈍い音。
彼は音に驚き、
彼はしばらく、振り向いて後ろを見る事が出来なかった。
場所と音から想像はついた。
それなりにスピードを出し、走ってきた車が急ブレーキを踏んだ音。……人体が撥ねる音。
一転、静寂が戻った夜。彼には自分の心臓の鼓動だけが聞こえていた。動けないでいる。じっとり、冷たい汗をかいている――。
彼はやがてゆっくり振り向いて、音の出所を見ようとした。
しかしそこには、何もなかった。夜の闇、見知った暗い道路。消えかけた横断歩道の白い線に電柱、押ボタン。
ただ、電柱の根元に、影に隠れる形で置いてある小瓶に、枯れた花が一本刺さっているのには、その時初めて気が付いた。
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