第10話
カリカリカリカリ。
カリカリカリカリ。
カリカリ……。
ってやってられるかああああああ。
俺と伊藤桜は部室の隅にある机を前にして一年の課題を解いていた。
伊藤桜は学習している最中だからわかるんだろうけど俺にとっては一年前の範囲だ。いちいち覚えているわけない。
「渚、言いたいことはわかるけどここはあなたが手本となって伊藤さんと一緒に勉強するのよ」
なにかあったらすぐに暴力に走る体力バカの志保はなぜだか成績優秀な生徒だった。
ということは優秀な教師足りうる人材ということだ。
そして俺と伊藤桜は一年の英語を教えてもらっていた。
「先輩過去分詞と現在分詞の違いがさっぱりわかりません」
伊藤桜はやればそれなりにできる人間らしい。
俺は質問の意味すらわからないのでぐぬぬと一人悶絶する。
「一応中学でもならったと思うけど高校にはいるとより難しくなるからね」
志保は思ったよりも優しく伊藤桜に指導している。
「つーか俺ここにいる必要なくない?」
どうしても勉強したくなくて駄々をこねる俺だったが。
「あんたは留年かかってるんだから復習もかねて勉強しないと」
「その優しさ痛み入ります」
ふざけてそう返すと竹刀がバンッと振り下ろされる。
「真面目にやらないとどうなるかわかってるかしら」
「ふひひ先輩私よりもできないとは。おかげで優越感に浸れますね」
「そこ、変な自信つけないっ」
できるといっても比較基準が俺なので伊藤桜もかなり下の方だ。
「ううっ。苦手な勉強を頑張ってるのにこの仕打ち、先輩はやはり暴力系……」
「伊藤さんも渚みたいな目に逢いたい?」
「ひいっ。いえ失礼いたしました」
そしてテキストと向き合いながら修行僧のような心持ちで問題を解いていく。
しかし全然面白くないしただひたすら眠い。
そして。
「ぐーぐー。すぴー」
俺は一人眠りの世界に入ってしまった。
「ちょっとあんたなに寝てるのよっ」
バシッと竹刀が俺の頭を直撃する。正直滅茶苦茶痛い。
「ひでえな。ちょっといい気持ちになってただけなのに」
「それを人はサボりと呼ぶのよ」
「先輩人のこと言えませんよ」
伊藤桜は以前徒然部での居眠りを思い出して、してやったりという顔をしている。
「伊藤さんはやればできるんだからいちいち人と比べないっ」
「さっきから俺を守りたいのか攻撃したいのかさっぱりわからないぞ」
正直な感想を述べると志保はやれやれと肩を竦める。
「私はあんたと伊藤さんのためを思ってやってるの。情けは人のためならずって言葉は理解しているつもりだけれど、ここまでやる気のない相手を教えるとわからなくなってくるわね」
「俺はやる気がないんじゃなくえただ勉強が苦手なだけです」
「私も右に同じく」
そう反論するがまったく効果はない。
「仕方ないわね。この範囲が終わったらジュース奢ってあげるから」
「マジで?やっほーい」
「先輩喜びかたがガキっぽいです」
俺は単純な男で褒美があればすぐに動く人間だ。要は志保は馬の前にニンジンを吊るす作戦に切り替えたようだ。飴と鞭とはよくいったものだ。
致し方ない。俺も本気を出すとするか。
問題の範囲は中学の復習がほとんどだった。そのなかで厄介なのは文法問題。全部暗記していないと解けないからだ。
「うーん。目的格ってなんだっけ?」
「ここはhimとかusとかが入るやつですよ」
意外と面倒見がいいのか伊藤桜がこっそり教えてくれる。
っていうか勉強しているうちにわかってきたけど伊藤桜はバカではない。
一応この難関校の入試を突破できるくらいだからそれなりの学力はあるようだ。
「伊藤さん勉強苦手って嘘なんじゃないか」
「はひぃ?なにふざけたこといってるんですか?」
俺がためしに聞いてみると彼女は必死にその事実を否定した。
「私なんか学力は下の中、レベルもミジンコくらいちっぽけな存在ですよ。間違っても勉強できるなんて言わないでくださいっ」
謙遜も過ぎればただの嫌みとなる。だがその自覚はないらしく彼女は自虐を続ける。
「親からの期待にも答えられずただカリカリ問題解くのも続けられなくなったただのバカなんですよ」
彼女なりに複雑な心情があるらしい。そして勉強に関して強いコンプレックスがあるのがわかった。
「できのいい妹と比べられたら私はミジンコ以下のいやミジンコ未満のろくでなしです」
彼女は小さくため息をつく。
「親の期待に答えようと頑張ってこの学校に入ったのですが頭のいい人たちに囲まれたら私は下の中です。それがわかったから勉強も真面目にやる気が起きません」
正直に答える様はどこか痛々しかった。
「妹は中学受験で全国トップの受験校に合格しました。親はそれをいたく喜びましてね。私の合格なんてさらっと流されたくらいですから」
その寂しそうな表情に俺は言葉がでなかった。
ばか野郎。ここでなにかいってあげるのが優しさってやつだろう。
「先輩慰めなくて結構ですよ。私が一人でいじけてるのはわかってますから」
おそらく両親からは厳しい言葉しかかけられてこなかったのだろう。
彼女の心境を思うと胸が痛む。
彼女は勉強ができないのではなく、勉強をしたくないのだ。
それは出来のよい兄弟に比べられるから。
自分の無力さに気づかされるから。
「伊藤さん、さっきから話を聞いているけどあなたその考え方はもったいないわよ」
志保は静かに彼女を見据える。
「もったいない?どういうことですか」
伊藤桜は声を震わせていた。
やめろ。これ以上は彼女が傷つく。
「渚、さっきかから黙っているのに彼女のことになるときつい目で見てくるのね」
志保はまるで悪女を演じているように艶然と微笑む。
「はっきり言わせてもらうわ。あなた、自信がないのはわかったけれどそれを続けているとせっかくのチャンスも棒に振ることになるわよ」
「自信ですか。そんなものあったら苦労しませんよ」
伊藤桜は自虐的に笑う。
「このままただ逃げるためだけに閉じ籠っていたら逆に親御さんの思う壺よ」
余計彼女ができないと思わせることになる。
だけど勉強すればできる人間と比べられることになる。
まるで山嵐のジレンマだ。
ほしいものと避けたいものがぶつかりあう。
「だからそれを抜け出すためには好きなものを見つけなさい。それを大事にしていれば小さいことのひとつや二つどうだってよくなるはずよ」
そのために徒然部に入らないかと志保は彼女を誘う。
「今は好きなものを見つけるのに一緒に活動できればいいかと思って。ねえ渚」
「ああ。俺たちにできることがあったらなんでもいってくれ」
その言葉に伊藤桜は目を瞬かせた。
「先輩……」
その眦に涙が浮かぶ。
「ううっ。ぐすっ。どんなこと言われても勉強は嫌いです……」
堰を切ったように涙があふれでる。
「でも先輩の話は確かだな、と思いました」
セーラー服の裾で涙を拭き取ろうとする伊藤桜。俺たちは静かに彼女を見守る。
「だから徒然部に入部させていただいてもいいですか?」
「もちろんよ」
「俺たちの方もよろしくな」
志保はぽんっとジュースを伊藤桜に向かって投げる。
「さあこれで機嫌直してね」
「ふひぃ。かたじけないです」
顔は涙でグシャグシャだったけどどこかスッキリとした表情だった。
俺も頑張らないとなと思わされる。
かくして伊藤桜は新しい部員になることになった。
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