9
ひかりは、保健室で夜を過ごしていた。
この数日はいつも不眠気味だったが、今日は完全にそのピークに達していた。
まるで眠れない。
考えることが多すぎる。
夜の学園は痛いほどの静寂に包まれている。
なにかの作業に一人で注目して取り組んでいるときには、自分自身の立てる音がその静寂の存在を弱めてくれるが、ふと、手を止めて考えこむ時間が生まれると、ぞっとするほどに沈黙した空気が身体と心の寂しさをかきたてる。
そんな感じなので、ひかりが一人で静かにいるときに誰かが部屋の外を通れば、足音でわかるし、足音のほとんどしない場合でも、なにか―いうなれば空気の流れのようなもの―を感じとって、誰かが外を通った、ということはわかるのだ。
そしていま、そろそろ未明から明けという時間に変わろうかというとき、ひかりは、なにかが外を歩いていったということに気付き、椅子から飛び出した。
「なにか」としかいいようがない。
生き物―それも人間―には違いないのに、それなのに、人外とさえ思えるぞっとするような殺気が、ドアと壁のわずかな隙間すら逃さずに煙のように流れこんできてひかりの身を凍えさせた。
このような気配を発する者には、何人かの心当たりしかない。
ひかりが相手に気付いているということは、相手もひかりには気付いているのだ。
気付いていながら、無視している。
ひかりよりも大切な用事があるのだ。
この戦いにおいて、自分の命よりも価値があり、いまこの時間に学園にあるものといえば、答えは一つしか考えられない。
ひかりは保健室を出た。
夜気はまだ冷たく頬を痛める。
何者かは、廊下を進んでいる。
方向では中庭のほうのようだ。
ひかりは険しい顔であとを追った。
先を行く何者かはすでに中庭に出ている。
その何者かが空に飛びあがったのがわかった。
ひかりは、まだ暗い夜空を見上げた。
真っ暗な時計塔に煌きが見えた。
時計塔の頂上からきらきらと煌めきが舞い下りてくる。
何者かは時計塔の頂上まで行き、用事を済ませまさに降りてくるところ、ということか。
目を凝らしたひかりは、なぜ煌きだけが目に入ったのかを理解した。
影はシータだった。
マスクも含め、全身は完全な漆黒。
煌いていたのは鎧にはめられた多くの飾りだった。
「あなたは…」
ひかりは、疑念の声を上げた。
これは…。
「イシス。いまはお前に用はない。私の目的はこれだったからな」
シータは、人差し指と中指で、一枚の薄いカードを顔の前でちらつかせた。
「それは…!」
ひかりは絶句した。
「人の心など、脆いものだと思わないか、イシスよ? かの男も油断したな。この通り、やすやすとパンドラキーの在処を教えよったわ」
シータの仮面のなかから、くぐもった声が聞こえる。
ひかりは気付いた。
声はシータのものだが、この言葉を喋っているのはシータではない。
シータは操られている。
マヌはシータを利用してなにをしたのだ?
「ホルスを失ったのは痛手だが、パンドラキーさえあれば、人すら不要。これほどたやすく手に入るとはな。シータもたまには役に立つ」
ひかりは、シータをつかまえようと走ったが、手は空を切った。
シータは完全な煙となり消滅した。
ひかりは、バランスを崩したまま、地面に膝を折って座りこんでしまった。
頭のなかを、混乱が猛烈な速さで周回している。
いったい、なにがどうなっているのか…。
ただ一つ、あまりにもあっけない形で、これまで秘匿し続けてきたパンドラキーが、マヌの手に渡ったということ、それだけは確かなことだった。
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