ぼけっと考え込んだまま歩いていた桜の耳に、不意に「博斗」の名が飛び込んできて、桜は思わず飛び上がった。


校門の前で、翠が、老人とやりあっている。

「あれ、翠じゃない。なにしてんのかしら?」


「は、遥さ~ん、飛んで火に入る夏の虫…じゃなくて、ここであったが百年目…じゃなくて、いいところでお会いしましたわっ! わたくしが皆さんと宿泊するのに、全然信じてもらえないのですわ! やれふしだらな三枚目教師に淫惑されただのなんたら…」


「い、いんわく…すごい言葉ね」

「三枚目教師って?」

「博斗先生ですわ」


「むっ。失礼ね。博斗先生は三枚目じゃないわ。よし、あたしが一発ガツーンとあのおじーちゃんに…」

鼻をふんふんと鳴らして行こうとした遥を、翠が止めた。

「それはおやめしておいたほうがよろしいですわ」


「なんでよ」

「暁は、柔道空手にレスリング、あわせて二十三段の猛者ですことよ」


「げっ。よくわからないけどすごいわね。あたしも、ソロバン書道英験だったらあわせて七級だけど…」

「それって全然駄目ですわ」

「うるさいわね」


「とにかく、ですから、遥さんと桜さんには、わたくしの身の潔白と、一緒に宿泊所に泊まるということを証明していただきたいのですわ」

「はいはい」


「暁、早くトランクを開けて荷物を出していただけませんですこと? わたくし、この二人と一緒に泊まるのですわ。男はいないですことよ」


暁は桜と遥を品定めするように眺めた。

「ふむ。よろしいでしょう。あの三枚目教師にたぶらかされているのではないのですな?」

「違うと言っていますわ、暁。もう昨日の晩から五百回ぐらい言いませんでしたかしら?」


「わかりました」

暁はうなずいた。

「そうですな。暁もいつまでも過保護ではいかんのです。翠様も、御自分で御自分のことは判断できるはず。よろしい。暁は翠様を信じましょう」

トランクから翠の荷物を出し、暁は一礼すると車に乗りこみ、去っていった。


遥は、頭よりも高く積み上げられた翠の荷物を見て唸った。

「これ、なに?」

「わたくしの宿泊用荷物ですわ」

「あんた、これ、どうやって運ぶの?」

「考えていませんでしたわ。どうしましょう?」


道路から聞きなれた音がして、桜はにやりとした。

「問題解決だね」

シャコシャコという音を響かせて、坂をものすごい勢いで駆け上がってくる自転車がある。


自転車は並んで走っていたタクシーを追い越し、あっという間に校門の前まで来ると、桜達の前でぴたりと止まった。


「おはようにゃ」

燕は自転車から降りると元気に挨拶した。

「燕さん! いいところでお会いしましたわ!」

「なに?」


「この荷物、運んでいただけませんですこと?」

翠は、山と積み上げられた荷物を示した。


「うん。いいよ」

燕は屈託なく応じた。

「はあ。助かりましたわ。それでは、わたくし達、これを片づけてから参りますわ」


「んじゃ先いこ、桜」

「あ、うん」

桜と遥は、翠と燕をおいて歩き始めた。


「ねえ、遥?」

「なに?」

「すごく変なこと聞くけどさ…」

「うん、すっごく変ね」


「まだ言ってないよ」

桜はむくれた。

「へへ。で、なあに?」


「やっぱり由布とか燕って、可愛いよね」

「なに、桜、その気があるの?」

「な、ないよ。だから、変なことって言ったじゃない」

「あはは。ごめん。それで?」


「翠も、口と性格は悪いけど、美人だよね」

「まあ、ね。容姿は認めざるを得ないわね」

「遥も、かっこいいよね」

「あたし? やっだなあ、もう、お世辞言わなくていいわよ!」

遥はぺちぺちと桜の肩を叩いた。


「僕は…」

桜は呟いた。

「僕は、どうなのかな?」

「あたしは桜のこと好きだよ」


「そういうことじゃなくて、その…つまり、たとえば異性から見て…」

「うーん。わかんないけど、あたしがもし男だったとても、やっぱり桜のこと好きだと思うけどな」


「どのレベルで?」

「レ、レベルって?」

「友達とか、恋人とか、いろいろあるじゃない」


「それは、なってみないとわからないと思うけどな。そういうのって、あんまり線引きできるものじゃないもの。昨日まで友達だったのが、いつのまにか恋人同士になってたり、付き合いやめても友達のままとかもあるし、友達以上恋人未満ってのもあるし…」


「そ、そういうものなの?」

「なにが?」

「だ、だから、その…恋人とか、友達とか、もっと、こうしたら恋人とか、そういうのって、決まってるんじゃないの?」


「あっははは。おかしなこと言うのね、桜って。そんなの決まってないよ。恋とか愛って、始めようとか、そう思って始められるものじゃないから。気がついたら、もう、そうなってるものよ」


「そ、そうなの…」

桜はうつむいてまた考え込んだ。

僕は考えてみたら、勉強のことばっかりで、恋愛とか、そんなこと、全然知らないや。どうすればいいのか、全然わからないや。


どんなに物理法則知ってても、宇宙のことを知ってても、科学に詳しくても、勉強ができても、知識があっても、自分の気持ちの落ち着かせ方ひとつわからない。


これが、人を好きになるってことなのかな?

僕は、もしかしたら、ほんとうに、博斗先生が好きなのかな?

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