3
「翠様。お目覚めのお時間です」
枕元のマイクから暁の声が聞こえ、穏やかなオルゴールの音色が流れ出す。
「わかっていますわ。構わないから、食事の支度を」
「かしこまりました」
翠は、ベッドに腰かけた。美しい金の巻き毛をそっと撫ぜる。
わたくしは、世界に君臨する女。
いずれは豪徳寺グループを継ぐために、婿をもらい、実質的な権力者となる…。
それが、わたくしの生まれついての定め。それが、わたくしが今日まで育てられてきた理由。
…。
ほんとうに、それがわたくしの望んでいることなの?
翠は、自分が幼い頃から心に秘めている矛盾を、よく知っていた。
自分は、特別でなければならない。
しかし、特別でなどいたくはない。「普通」でいたい。
しかし、翠は特別でなければ安心できない。
そんな宙ぶらりんな状態が、ずっと続いていた。
翠は立ち上がった。
クローゼットを開くと、絢爛たる衣装が目に飛び込んでくる。そのほとんどは、年に一度、着るかどうか。
父に苦い顔をされているにも関わらず、翠は制服を着て学校に通っている。
そして、自分なりのささやかな工夫を凝らし、他人の制服姿とはやや異なった姿を見せようとする。
特別でなければならないことと、特別でいたくないことと、特別でいたいことの、三つの考えのなかで戸惑う翠が、かろうじて導いた結論だった。
制服を着込んだ翠は、寝室の重い扉を開けた。
翠が家族用の食堂に入ると、すでにテーブルの上には、ひととおりの料理が乗せられている。サンドイッチ。ハムとシーフードのサラダ。湯気を立てるコーンスープ。
「翠様。今朝のご機嫌は如何ですかな?」
椅子に腰掛けた翠の前に、暁がフォークとスプーンを並べて置いた。
「普通ですわ。…お前は?」
「山口は、お嬢様のお元気そうなお顔が拝見できれば、それでよろしゅうございます」
「そう…」
翠は目を伏せると、テーブルに並べられた皿に手を伸ばした。
暁は、貝のように押し黙ったまま、翠の食事を見守っている。
こうして、暁と二人だけの朝食が、もう、何年続いただろうか。
翠にとっては、遠い父や母よりも、近くにいて、常に影から翠を気遣ってくれる暁のほうが、心を許せる相手だった。
暁に面と向かうと、翠は、自分が豪徳寺の娘であることなど忘れ、ただ、一人の子どもに帰ったような気がするのだ。
「今日は、少し油が濃いようですわ」
「お口に合いませんか?」
「いえ。これでよろしいですわ」
翠は、わざとそっけなく答えて食べ続けた。
暁の料理は天下一品である。社交界というものは派手なパーティーがよくあるのだが、翠は一度たりとも暁の料理よりもおいしいと思った料理に出会ったことがない。
「前にも聞いたことがある気がしますけれど…暁、お前は、なぜこんなに料理が上手なの?」
「料理が好きだからで御座います。翠様」
「料理なんて、食べるほうがいいに決まってますのに」
「翠様にも、わかるときが来ますとも、必ず」
「そうですかしら? まあ、よろしいですわ。もしそんな時が来たら、暁、わたくしにきちんと教えるのよ?」
「それはもちろん。…翠様がそう言い出すのを山口はお待ちしつづけておるのですから」
「あら、そう。それなら、どうしていままで教えてくれませんでしたの?」
「料理は、心が大切ですから。心底から、おいしい料理をつくりたいと思わないと、心のこもった料理は出来ないものです」
翠は肩をすくめた。暁のいつものパターン。
翠がなにか不満やわがままを言うと、暁はとらえどころのない言葉でするりと翠の追及をかわす。
「翠様…あまりゆっくりとお食べになっていると、また時間が…」
「それなら、間に合うように車を走らせればよいのですわ」
暁が後ろからそっと椅子をひいた。
「では、お車へどうぞ。山口は片づけを済ませてすぐに参りますゆえ」
「お早くなさい」
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