翠は立ち上がると、がらんとした食堂を出た。

外に出ると、だだっ広い庭園を、背伸びしながら歩いた。

新鮮な空気を吸うと、心まで新鮮になる気がする。憂鬱な夢など忘れてしまいそう。


このところ、小さい頃の夢をよく見る。

暁に無理を言って、はじめて公園に連れていってもらったときのこと。


翠が、暁の手から離れて駆け出して転んだとき、わんわんと泣き始めた翠を助け起こしてくれたのは、泥まみれで、ふてくされた顔をした少年だった。


思えば、これが翠の初恋だったのかもしれない。


はじめて博斗を見たときに、あの子のイメージがだぶった。博斗の子どもっぽさは、翠の心を激しく揺さぶった。


そして、この前プールで見た、あの子ども達。


翠は、なぜ玉次郎の手を取ったか、その理由がはっきりと自覚できていた。

自分の幼い頃の幻影に、あの子達の姿が重なった。

玉次郎と、新小岩の娘。あの二人も、いずれ、離れてしまうのだろうか?


翠は、ガレージについた。

リムジンのドアを開けると、後ろの席に座り、ぼーっとしていた。


数分もしないうちに、運転席のドアが開き、暁のごま塩頭が目に入った。

「参りましょう。お忘れ物はないですね?」

「ええ。構わないから、早くお出し」

「はい」


翠は、この、朝の数時間が好きだ。

毎日、同じ事の繰り返し。暁と翠と、二人で家族の真似事をしているだけかもしれないが、その繰り返しが、なにより翠の心の支えになる。


「ねえ、暁…」

「はい」

暁は、顔を前に向けたまま、声だけで応えた。

「わたくし、変わりましたかしら?」


「そうですな…。この数カ月、翠様は、小さい頃の翠様に戻りつつあるように存じます」

「小さい頃のわたくし?」

「お父様の言い付けを聞かず、勝手に外を出歩いて、そのことで山口は随分とお父上から叱咤されたものです」


「それは、わたくしがお前にわがままを言って外に出してもらったからですわ。…お前は昔からそうだった。わたくしのために、いつも盾になって…」

「山口は、今も昔も、変わっておりませぬぞ」

「まさか、お前、今も…?」

ミラーに映る暁の表情は、柔和な笑顔のまま。


「お父様に、わたくしのことをごまかしているのですわね? お前は、わたくしの盾になって、お父様の目がわたくしに届かないように、しているのですわね?」


「このところ、翠様は、体中に傷をつくっておられる。お父様は気付かずとも、この山口が気付かないとでもお思いでしたかな?」


「なぜですの暁? お前は、なぜ自分を犠牲にしてまで、わたくしをかばうの?」

「山口は、翠様をお慕いしておるのですよ。あの方のようにはなってほしくない、ただそう思うだけです」

「あの方…?」

翠は問いただしたが、暁は答えなかった。


「生徒会をはじめられてからというもの、翠様は、お悩みの姿が増えました。しかし同時に、笑顔のお姿も増えました。山口は、そのような人間らしい姿をとりもどしつつある翠様のためなら、老体捨ててでも…」


翠は、ぽろりと暁が口にした言葉に、自分でも信じられないほど動揺した。

「暁! か、軽々しくそんなことを口にするものではありませんわ! お、お前が死んだりしたらわたくしは…」


「ほっほっほっ。ご心配遊ばすな。この山口、翠様の晴れ姿を見るまでは、たとえ骨になっても死ぬわけにはまいりませぬ」

「暁…」

「ただ、山口も少し、考えることがあります。そろそろ、翠様は、山口から離れてもよろしいのではないかと」

「どういうことですの?」


暁は答えなかった。

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