バスから降りると、博斗とひかりをむっとした熱気が包んだ。

「由布の父親は、もともと剣術の師範だそうです」

「礼儀を失くせば男の力を振りかざす素地はあったのか…」


二人は、由布と母親の部屋の前に立った。

表札のプレートも出ていない。


「あの…どちらさまで…?」

細い声が聞こえた。


年の頃は四十というところだろうか。蛍光灯の暗い灯かりのためか、なんとなく疲れた表情を見せる、面長の顔立ちをした女性が怪訝な顔つきで廊下に立っていた。

「由布の、母親ですね?」


中に招き入れられ、こぢんまりとしたリビングのソファに、博斗とひかりは腰かけた。

正面には由布の母親が座る。


「いまお話した通り、由布は、何かショックを受けたために、一種の昏睡状態にあります。由布を元に戻すために、あなたに教えてほしいんです」


「教える? 私が、何を…?」

「失礼なのかもしれませんが…あなたと由布の父親が離婚した原因はお察しします。ただ、そのとき由布に何があったのか…正確なことを教えてほしいんです」


母親はテーブルから煙草を取ると、火を点した。

そして、博斗達の問いには答えず、まったく違うことを言ってきた。


「あなたが、瀬谷先生なのですね。…由布が、よくあなたのことを、話します」

「由布が? 俺のことを?」


「あなたにお会いして、どうして由布があなたのことを熱心に喋るのか、なんとなくその理由がわかりました」

母親は目を伏せた。

「よく、似ているんです。雰囲気というか、匂いのようなものが…」


「似てる? 誰に?」

「父親…ですね?」

ひかりが代わりに口を挟んだ。


母親は息を漏らしながら唇だけで笑った。

「あの子は、お父さんっ子でしたから。父親のことが忘れられないのですね…」


「どんな酷い暴力にさらされても、ですか。いやむしろそれゆえにいっそう父親の愛を求めたのでしょうか」

ひかりは、凍り付いた母親をじっと見据え、淡々と続けた。

「いつから続いていたのかは分かりませんが、あなたあるいは由布は、父親の暴力にさらされ続けていたのですね。そしてあの子が中学一年の夏、決定的なことが起きた。由布の様子や、その後の父親の動向からすると、生命の危険があるような過ちですね? 母親であるあなたは、由布を護るために、離婚して由布を引き取った」


重い沈黙が部屋を支配した。


博斗は、母親の言葉を待った。

母親は、身を震わせ、やっと口を開いた。

「私も、もう疲れました。私一人の心にしまっておくことにもう、疲れました」


そして、不意に顔を両手で覆うと、鳴咽し始めた。

「私には、母親の資格はないんです。あの子が可哀相でならない、不憫でならないというのに、あの子が憎いんです。あの子には、何の罪もないと、わかっているのに…。あの子が耐えてくれれば、私達の家庭も崩れることはなかったと、そう思うと、ふとあの子が憎らしくなって…」


博斗は胸を締め付けられるような気分の悪さを感じていた。

なんて…悲しいんだろう。

人間ってのは、なんてつらい生き物なんだろう。


博斗とひかりは、テーブルに泣き崩れた母親をおいて、外に出た。


「あの人が、一人で抱えこんでいた重荷が、私達に少しだけでも移されたのであればよいのですが。まだ、あの人は由布を憎むことがあるかもしれませんし、時間がかかることかもしれませんが…それでも、少しずつは、きっと、よくなっていくはずです」


「やっぱり俺は、神様とか運命とか、そういうのは大っ嫌いだ。…許せない。なぜだ? どうしてだ?」


エレベーターが一階に着いた。

二人は重い足取りでマンションを出て、バス停に向かった。


「俺に、何ができるんだ」

博斗は自問した。

「こんな重いものを背負った、あの子に…」


ひかりは黙って博斗の言葉を聞いていた。


「俺なんかに、あの子を助ける権利があるのか? 俺も、一歩間違えれば、あの父親と同じなんだぞ」

博斗は拳を握り締めた。

「ついこの間だって、翠君を叩いた。あれだって、愛とか教育という名を借りた暴力だ」


「では、このまま由布をずっと眠ったままにするのですか?」


「いや、それは違うんだ」

博斗は言下に否定した。

「それは違う。由布には、戻ってきてほしい」


「それならば、博斗さん、あなたが心に持っている汚いところを、すべて由布に明かすしかないのではありませんか? そのうえで由布が、戻ってくるかどうか、自分で決めるはずですから」

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