8
バスから降りると、博斗とひかりをむっとした熱気が包んだ。
「由布の父親は、もともと剣術の師範だそうです」
「礼儀を失くせば男の力を振りかざす素地はあったのか…」
二人は、由布と母親の部屋の前に立った。
表札のプレートも出ていない。
「あの…どちらさまで…?」
細い声が聞こえた。
年の頃は四十というところだろうか。蛍光灯の暗い灯かりのためか、なんとなく疲れた表情を見せる、面長の顔立ちをした女性が怪訝な顔つきで廊下に立っていた。
「由布の、母親ですね?」
中に招き入れられ、こぢんまりとしたリビングのソファに、博斗とひかりは腰かけた。
正面には由布の母親が座る。
「いまお話した通り、由布は、何かショックを受けたために、一種の昏睡状態にあります。由布を元に戻すために、あなたに教えてほしいんです」
「教える? 私が、何を…?」
「失礼なのかもしれませんが…あなたと由布の父親が離婚した原因はお察しします。ただ、そのとき由布に何があったのか…正確なことを教えてほしいんです」
母親はテーブルから煙草を取ると、火を点した。
そして、博斗達の問いには答えず、まったく違うことを言ってきた。
「あなたが、瀬谷先生なのですね。…由布が、よくあなたのことを、話します」
「由布が? 俺のことを?」
「あなたにお会いして、どうして由布があなたのことを熱心に喋るのか、なんとなくその理由がわかりました」
母親は目を伏せた。
「よく、似ているんです。雰囲気というか、匂いのようなものが…」
「似てる? 誰に?」
「父親…ですね?」
ひかりが代わりに口を挟んだ。
母親は息を漏らしながら唇だけで笑った。
「あの子は、お父さんっ子でしたから。父親のことが忘れられないのですね…」
「どんな酷い暴力にさらされても、ですか。いやむしろそれゆえにいっそう父親の愛を求めたのでしょうか」
ひかりは、凍り付いた母親をじっと見据え、淡々と続けた。
「いつから続いていたのかは分かりませんが、あなたあるいは由布は、父親の暴力にさらされ続けていたのですね。そしてあの子が中学一年の夏、決定的なことが起きた。由布の様子や、その後の父親の動向からすると、生命の危険があるような過ちですね? 母親であるあなたは、由布を護るために、離婚して由布を引き取った」
重い沈黙が部屋を支配した。
博斗は、母親の言葉を待った。
母親は、身を震わせ、やっと口を開いた。
「私も、もう疲れました。私一人の心にしまっておくことにもう、疲れました」
そして、不意に顔を両手で覆うと、鳴咽し始めた。
「私には、母親の資格はないんです。あの子が可哀相でならない、不憫でならないというのに、あの子が憎いんです。あの子には、何の罪もないと、わかっているのに…。あの子が耐えてくれれば、私達の家庭も崩れることはなかったと、そう思うと、ふとあの子が憎らしくなって…」
博斗は胸を締め付けられるような気分の悪さを感じていた。
なんて…悲しいんだろう。
人間ってのは、なんてつらい生き物なんだろう。
博斗とひかりは、テーブルに泣き崩れた母親をおいて、外に出た。
「あの人が、一人で抱えこんでいた重荷が、私達に少しだけでも移されたのであればよいのですが。まだ、あの人は由布を憎むことがあるかもしれませんし、時間がかかることかもしれませんが…それでも、少しずつは、きっと、よくなっていくはずです」
「やっぱり俺は、神様とか運命とか、そういうのは大っ嫌いだ。…許せない。なぜだ? どうしてだ?」
エレベーターが一階に着いた。
二人は重い足取りでマンションを出て、バス停に向かった。
「俺に、何ができるんだ」
博斗は自問した。
「こんな重いものを背負った、あの子に…」
ひかりは黙って博斗の言葉を聞いていた。
「俺なんかに、あの子を助ける権利があるのか? 俺も、一歩間違えれば、あの父親と同じなんだぞ」
博斗は拳を握り締めた。
「ついこの間だって、翠君を叩いた。あれだって、愛とか教育という名を借りた暴力だ」
「では、このまま由布をずっと眠ったままにするのですか?」
「いや、それは違うんだ」
博斗は言下に否定した。
「それは違う。由布には、戻ってきてほしい」
「それならば、博斗さん、あなたが心に持っている汚いところを、すべて由布に明かすしかないのではありませんか? そのうえで由布が、戻ってくるかどうか、自分で決めるはずですから」
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