「じゃあねーっ! また明日!」

他の部員達が、手を振って去っていった。

夏休み中は、剣道部は朝練だけである。


友人と別れ校門から出た由布は、一人、陽光学園から少し行ったところにあるバス停に向かった。


天高く昇った太陽が道路を焦がし、ゆらゆらと陽炎が見える。木にとまった蝉がさかんに鳴いている。どこを見ても夏の景色だ。


(わたしは、夏が憎い)

また、声がする。

これは、最近何度も聞かされている。

「わたし」は、夏が憎いらしい。


どうして?


尋ねても、もう一人のわたしはやはり答えてくれない。


バス停には、先客がいた。

この時間帯のこのバス停に学生以外に人がいることは珍しい。

ポロシャツとズボン。サンダル。なんのことはない、近所のおじさんだろう。


男は、向こうを向いていたが、由布の気配を感じたか、ゆっくり振り返った。

ぐっと老けこんだようだったが、由布のよく知っている顔だった。

「待ってたぞ由布。会いたかった」


「お父…さん?」


「どうした、由布? 父さんの顔を忘れたのか?」

由布は首を横に振った。


「由布…随分きれいになったな…。父さんに、もっとよく見せてくれないか」

父親はごつごつした手で、ぎこちなく由布の頬に手を伸ばし、黒いつややかな髪をすくいあげた。


「由布…父さんがお前にどんなに会いたかったか、わかってくれるか?」


また、声が聞こえた。

(わたしは、会いたくなかった)


嘘。

あなたは嘘をついている。

わたしは、お父さんに会いたかった。


お父さんが、また帰ってきてくれれば、また、お母さんと、お父さんと、わたしと、三人で暮らせるもの。


(嘘? 嘘をついているのは誰?)

(自分に嘘をついているのは、あなた)

(忘れているだけ)


由布は首を振った。

忘れる? わたしが、何を、忘れているの?

もう一人のわたしは、何を知っているの?


「お父さん…どうして、突然いなくなったりしたのですか?」


父親は手を止め、由布を見た。

「わたし、お父さんがいなくなったときのこと、何も覚えていないんです」

「何も、覚えていない?」

「はい」


「母さんは、どうしている?」


思い出せない記憶をたどっていた由布は、はっとして目を父親にむけたが、またすぐに伏せた。

「お母さんは…ときどきつらくあたります」


「そうか…」


どこかでコンコンというリズミカルな金槌の音がする。そして、チュイーンという電気ノコギリの音。

…新しい家が建てられている。顔も名前も知らない一家が、これから新しい家に住むのだろうか。


「由布…父さんと一緒に暮らさないか?」

由布は、はっと顔を上げた。


「わたしは…」

由布は口を開きかけたが、また声が聞こえて、つぐんだ。


(そんなことをしては駄目)

駄目? どうして?


わたしにも、幸せになる権利はある。

お母さんは、お父さんを追い出したんだもの。

わたしの家を、壊したんだもの。


(違う。そうじゃない。わたしが忘れているだけ)


由布は胸元を押さえた。ずきずきと鋭い痛みがする。

普段は決して外から見えないところにずっとある、大きな赤い痣から。

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