第32話 可愛い先生は危険!


「R町にいたころ、私と夫はまだ若くて、二十代後半でした。仕事の不安定な夫は、実家があったR町でお義母さんと同居しながら仕事を探そうとしていた。私も結衣が三歳になっていたから、保育園の送り迎えをお義母さんにお願いして仕事に出ていたの」


「そこにこずえさんが現れたわけだ」


「ええ。こずえさんはいわゆるシングル・マザーで結衣より少し上の娘さんがいたの。ただし、娘さんはご主人が引き取ったのか、滅多に姿を見せなかったわ。私は短大を出て作業療法士の資格を持っていたから、運よく病院で非常勤の職に就けたけど、こずえさんはR町で仕事を探そうと一生懸命だったみたい」


「作業療法士……そうだったのか。美咲さんがマンションで陶芸教室を開いたのは、作業療法で陶芸の経験があったからですね?」


「ええ、そう。あの部屋に置いてある大きな皿も、実は私と義母とで作ったものなんです」


 美咲が光代に視線を向けると、光代は「私は絵を描いただけ」と笑った。


「夫は理学療法士だったけど、ある時、友達に誘われてパソコン向けのゲームを作ったらそれがヒットしたの。結衣が攫われるひと月ほど前の事よ」


 さらわれる、という物騒な言葉に結衣をはじめ、その場の全員が反応した。


「あの日は丘陵全体に薄い雲がかかっていて……いつも結衣と遊んでくれた『みっちゃん』が学校の帰りに寄ってくれた。そして、近所に洒落た家があるから見に行こうと結衣を誘って出て行った」


「美咲さん、ここからは私が話します。……みなさん、あの日、結衣ちゃんが倉橋こずえに誘拐されたのは、すべてこの私の不注意からです。あの日私は、親戚に頼まれて転売前の住居を掃除しに行くことになっていたんです。ちょっと洋風の古い注文住宅だから、見せてあげたら結衣ちゃんがよろこぶと思いました」


「あの、燃えてしまった家ね」


 優名が言った。ひかりは頷くと、続きを語り始めた。


「結衣ちゃんは、がらんとした家の中を予想通り『面白い』と言って走り回りました。私は「まさか外には出ないだろう」と高をくくって、つい目を離してしまいました。

 どれくらいの時間だったでしょう。十分とは離していなかったと思うのですが……それでも、結衣をどこかに連れ出すには十分な時間だったのでしょう。気づくと、彼女の姿は家の中にも、家の周囲にもありませんでした」


「ごめんなさい……私、その時のことを全然、覚えていないんです」


 そんなの、覚えていなくて当然よ、と光代が言った。


「それから私は美咲さんに結衣ちゃんがいなくなったことを告げ、警察にも捜索願いを出しました。結衣ちゃんの捜索は何日も続きましたが、結局、手がかりらしきものは全く出てきませんでした」


「こずえさんはその時、どうしていたんですか?いきなり町から姿を消したとか」


「いいえ。こずえさんはしばらくの間、何食わぬ顔をしてR町に住み続けました。結衣はどこかに軟禁されていたのでしょう。しかし私たちはまさか結衣を誘拐した犯人がそんなに近くにいようなどとは夢にも思いませんでした。警察が雑木林を探したり、用水路を調べたりするたびに、暗澹たる気持ちになっていたのです」


「きっと私、押入れとか物置とか、そういう場所にいたんでしょうね。……でも本当に少しも覚えていないんです」


「それはむしろ幸運だったと思うわ。悪夢に苦しめられなくて済んだんですもの」


「やがて半年ほどして、裏山で女の子の白骨死体が発見されました。たまたまその子と結衣が同じ場所に虫歯があり、私たち夫婦はいっときその死体を結衣だと思いました。でも……どうしても、結衣はどこかで生きている、そういう希望もまた捨てきることができませんでした。


 実はその死体はこずえさんの娘さんの物だったんです。先日の火災の後、こずえさんが警察の取り調べで、娘さんのボーイフレンドを語って山中に連れ出し、首を絞めて殺害したことを自白したそうです」


「なぜ、自分の娘を……?」


「夫に託されてはいたものの、娘さんは父親とも折り合いが悪く、喧嘩をするとよくR町のこずえさんのところまで来ていたそうです。でも、途中から喧嘩になり、最後には娘さんが暴力を振るわれて父親の元に戻る……そんな繰り返しだったそうです」


「なぜ、結衣ちゃんを誘拐したんだろう?」


「どちらかというとおとなしい結衣が、彼女には理想の娘に見えたのだそうです」


「そんな……自分の娘の死体を身代りにして誘拐するなんて、どう考えても普通じゃない」


「私たちは犯人像をもっと恐ろしい、男性のイメージでとらえていました。こずえさんの精神状態が普通かどうかなんて、思ってもみなかったのです」


「死体が発見されたことを機に、私たちはR町を離れました。決して結衣の事をあきらめたわけではありませんでしたが、この町にいるとどうしても自分を責めてしまう。だから思い切って違う町で人生をやり直そうと思ったのです。


 事件から数年たち、夫も私も精神的に疲れ果て、それまでの仕事ができなくなっていました。そんな時、夫の友人がモバイル用にゲームを作ってみないかと声をかけてくれたのです。夫にしてみれば以前、手がけた事のある作業でもあり、それまでの仕事とは内容的にもかけ離れていたので、見る見るうちにのめりこんでいきました」


「それが今のお仕事につながっているわけですね」


「はい。夫は友人と当初、小さなソフト会社を立ち上げたのですが、数年前に携帯電話用の『難パラこねくしょん』というパズルゲームをヒットさせたことでゲーム制作に集中するようになったのです。優名が生まれたのも、ちょうど会社を立ち上げたころでした」


 僕は夫婦の根性に舌を巻いた。『難パラコネクション』は僕も触れたことがあった。数名で協力し合ってクリアするゲームで『君の脳波は合っているか?』というコピーで相当売れたはずである。ただ、うまくクリアできないグループが、誰かの波長が合わなかったためだといさかいになったりしがちだという話も耳にしていた。


「優名が生まれた時、すでに事件から四年が経っていましたが、どうしても名前に『ゆう』という響きを入れたくて、どことなく似た名前にしたのです。やはり諦めきれていなかったのでしょうね」


「しかしまさか優名ちゃんが入学した学校に、誘拐された娘がいるとは思いもしなかったでしょうね」


「ええ、もちろん。優名を竜邦に入れたのも、最初はただ単にステイタスのためでしたから……でも、こずえさんがあのマンションにいることを知り、私たち夫婦は決心しました。必ず、こずえさんの手から結衣を取り戻して見せると」


「名前や見た目で気づかれはしなかったのですか」


「私もそれは気になったのですが、私も夫も、生活が変化したせいか昔の友人が見ても別人かと思うくらいに変化を遂げていたのです。苗字はわけあってR町にいた当時は夫と別姓を名乗っていましたから、気づかれることはありませんでした。


 恐れたのは、優名と結衣ちゃんがお友達になってしまう事でした。何かの拍子に結衣ちゃんが昔の事を思い出せば、結衣を取り戻す前にこずえさんに怪しまれてしまうかもしれない」


「そして実際にそうなったわけですよね」


「はい。ですから、私たちの計画は急ぐ必要がありました」


「それにしても、結衣ちゃんがずっと探していた『みっちゃん』がまさか優名ちゃんの家庭教師となって身近にいたとはね」


「私、高校までは普通の男の子だったんです。もちろん、他の男の子たちとどこか違うなっていうのは、それこそ結衣ちゃんと遊んでいたころから気づいていたんですけどね」


「陶芸教室に来ている奥様達から、私は何度か『外で若い男性と会っている』と噂されたことがありました。その若い男性と言うのは、実は男性の姿の時の光利君だったんです」


「美咲さんと会う時にはどうしてもそうなってしまうんです。あの頃の自分の姿に……」


「これで、光代さんに安心して手術を受けてもらうことができますね」


 僕が言うと、光代は「ええ、まあ」と微笑み返した。


「でもミドリちゃんの観察力には本当にびっくりしたわ。ミドリちゃんがいなかったら、今頃私、毒草食べてひっくり返っていたかも」


「本当にミドリには驚かされることばかりです。何しろ出会いが……」


「私の万引き事件」


 優名が思いがけぬ言葉を口にし、全員がぎょっとした表情になった。


「そう……だったのよね。私が優名を竜邦に縛り付けたいばかりにきついことを言ったから……ごめんなさいね、優名。それに秋津さん、ミドリちゃん、優名が犯罪者になるのを防いでくれてありがとう」


「優名ちゃんは商品を盗みたかったわけじゃないから、きっと返しに行ったと思いますよ」


「シュンスケの言う通りだ」


「でもあの時のミドリちゃん、本当に怖かった」


「怖い?私が?……ふうむ。わかった。覚えておこう」


 ミドリのとぼけた反応が、周囲の爆笑を誘った。笑いの中、ふいにミドリが考え込むような顔つきになったかと思うと、おもむろに口を開いた。


「シュンスケ。君が優名のボディガードを始めた日、私たちをつけていた車があったろう?あの時はてっきり狩野だと思っていたが、私はあれはこずえさんだったと思うのだ」


「こずえさん?一体、何のために?」


「優名が結衣の妹かもしれないと気付き始めた彼女は、もっとよく優名を観察したくなったのではないかな。ふとした表情が結衣に似ていないか、とか」


「なるほど。そういう可能性もあるわけか」


 僕は考え込んだ。同じマンションの中で、実に多くの思いが渦巻いていたのだ。

「でも結局、狩野って人は何でもなかったわけよね。結衣ちゃんが『みっちゃん』に似てるなんて言ってたけど、やっぱり結衣ちゃん、狩野に気があったんじゃないの?」


「あのう……狩野さんと私が……少し前の私が似ているっていうのは、可能性としてなくはないんです」


 いきなり、ひかりが口を開いた。皆の視線がひかりに集中した。


「光代さんならご存知ですよね?」


 話を振られた光代は、困惑気な表情を浮かべつつ、頷いた。


「ええ。狩野さんはね、光利君の又従兄にあたるのよ。つまり親戚なわけ」


 ええっ、と声が方々から漏れた。ひかりは照れくさそうに頭を掻くと、「ですから、まあ……結衣ちゃんの感じたようなことがあっても、おかしくはないわけです」


「そうだったんですか。……まったくどこで誰と誰が繋がっているやらわからないな」


「いや、少なくとも私はこの中の誰とも兄弟ではない」


 不意にミドリが言い、室内は爆笑の渦に包まれた。


 結衣は皆の話を聞きながら、ヨモギ餅をつまんでいた。結衣はおいそれと話に加わるわけにはいかないのだろう。

 これからこずえがどうなるかもわからず、優名を始めとする樫山家の人々とどのように接してゆくかも、一人では決められない。まして、先日の撮影現場での事件もまだ解決していないのだ。その背には大きすぎる荷が乗っているはずだった。


「どうしたの?皆さん。全然、お餅が減ってないじゃない。お話はこれからもできるんだから、今日はどんどん召し上がって」


 いやだ、おいしいから太っちゃうわとひかりが言い、テーブルが笑いの渦に包まれた。


              〈第三十三回に続く〉

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