第25話 憧れの世界は危険!


「できたわよ」


 雪江が運んできたどんぶりがローテーブルに並んだ。


 結婚直後に購入した小さなテーブルっは、いかにも「ちゃぶ台」という雰囲気だった。


「卵があったらよかったんだけど」


「しょうがないさ。しばらく足を踏み入れてなかったんだから」


 目の前でねぎとほうれん草のみのシンプルなラーメンが湯気を立てていた。鶏がらスープと塩胡椒だけで味を整えたこのラーメンは雪江が小学生のころ、遅く帰宅する両親を待ちきれず、よく作ったものだという。付き合い始めた頃にはよく、二人で食べたものだ。


「いただきます」 雪江は簡素な部屋着に着替えていた。小さなブティックで選んだお気に入りの服だったが、ろくに袖すら通さないまま二年以上の月日が経過していた。


「君の公式プロフィールを知っている人間なら「真妙寺雪江の好物はトマトクリームパスタじゃなかったのか?」と言うだろうな」



「そうね。私としては早くこちらが公式の大好物になってほしいんだけど」


 湯気の向こうで、雪江の顔がほころんだ。こんな表情を見るのは、いつ以来だったろう。


「しばらく休むってことはできないのかい?」


 無神経だと思いつつも、僕は尋ねずにはいられなかった。


「私もできればそうしたい。でも撮影が終わってないし、監督は事情聴取が一段落したらすぐにでも再開したいみたい」


「君は容疑の範囲には入ってないんだろう?」


 雪江は箸を動かす手を止めると、無言で頭を振った。


「残念ながら、容疑者の筆頭よ」


「まさか」


「食べ終わったら、話すわ」


 再び、麺を啜る音が室内を満たした。僕はこの時間がずっと続いてほしいと願った。


 雪江の話には、新聞やテレビの報道では触れられていない、複雑な構図があった。


 事故に遭った女優岩淵加奈は、雪江と以前から折り合いが悪かったのだという。

そして事故があった時、雪江がいたのは事故現場でもテレビの中継場所でもなく、撮影で利用したレストランの前だったという。


「呼び出されたの。メールで加奈さんに」


 雪江が神妙な面持ちで切り出した。加奈からのメールの内容はこうだった。


「朝の分の撮影が終わって、お昼休みに入る前だったわ。突然、『話があるから、朝、打ち合わせに使ったレストランの前に来てほしい。監督には内緒で』って。


 それで私はテレビのリハーサルが始まるまでの待ち時間に、指定された場所に行ったの。メイクもあるし、すぐ終わると思って。そしたらいつまでたっても加奈さんが来なくて、メールをしても電話をかけても返事が来なかった。


 それで仕方ないと思って戻ったの。あとからわかったんだけど、いつの間にか私の時計まで狂わされていたらしいわ。マネージャーに怒られて、ようやくテレビ出演に遅刻していることがわかったの。そして加奈さんが事故に遭ったのはまさに私が呼び出されていた、その時間帯だった」


「つまり誰かが君を陥れようとした、というわけか」


「月並みに言えば、そういうこと。でもメールの内容とか、調べればいずれはわかるはずなのに、本気で私を容疑者にしようとしたとも思えないの」


「まあ、たしかにそうだな。しかしここで問題なのは、メールの内容がどうかという事よりも加奈が事故に遭った時、君の姿を見ている人間がいないっていう事だ」


 僕が言うと雪江は一瞬、沈黙した。


「実は私も、そこが狙いだったのかなって思う。監督や事務所、共演者に対して私の評判を落とそうっていう事なら、私に疑惑がありさえすればいい」


「そうだな。そこは警察が潔白を証明したとしてもダメージが残るところだ」


「実はね、加奈さんが事故に遭った場所の近くに、私の所持品が落ちていたらしいの」


「なんだって?」


「時計の付いたブレスレット。私は時々、食事やお茶の前にはずしてテーブルに置いておくことがあるんだけど、それが知らないうちに誰かに持ち去られていたってわけ」


「あからさまな陰謀じゃないか。わざとらしすぎるくらいだ」


「私もそう思う。しかも、私の携帯から、加奈さんを私の名前で呼び出した形跡があるの」


「それはつまり……君に覚えがないとすれば、やはり何者かが君の携帯を拝借して、勝手に君の名を騙って加奈を呼び出したことになるな」


「それしかありえない。加奈さんの携帯は行方不明になっているそうだから、このままだと私が一番疑わしい人物ってことになるわ」


 俊介はうなった。それから話題は他の関係者と加奈との関係に及んだ。


 転落した女優、岩淵加奈はどうもほかの出演者たちと折り合いがよくなかったらしい。結衣もそうで、新人の癖に監督に演技を褒められていい気になっているとか、色々と難癖をつけられていたらしい。


「どうも岩淵加奈はかなりのトラブルメイカーだったようだな」


「そうみたい。中崎計馬君も、彼女に言い寄って気まずい空気になっていたみたいだし、滝沢莉愛ちゃんは、彼女と子役時代からのライバルだったの。もう敵だらけという感じ。


……考えてみると犯人は加奈さんと私の携帯から、それぞれ偽の呼び出しメールを送ったのよね。目的が加奈さんを殺害することと私を陥れることだとしたら、犯人は私たち二人に憎悪を抱く人物という事になる」


「それかどちらか一方だな。もう一人は、カムフラージュに使われたって可能性もある」


「つまり、私に恨みを持つ人間が、自分を特定されないよう、無関係の岩淵加奈を巻き込んだのか、あるいはその逆か」


「あるとすれば君が利用されたっていう可能性の方じゃないかな。君を陥れるために無関係な加奈を突き落とす馬鹿がいるとは思えない」


「どうかしら。芸能界って、奇妙な世界よ。知れば知るほどよくわからなくなってくる」


「いずれにせよ、容疑のかかっている人間が限られている以上、真相はすぐに解明されるだろう。君のファンにしてみればショックだろうが、無実さえ証明されれば問題はない」


「そうね。でもその時は私たちの中の誰かが真犯人として逮捕されるっていうことだわ」


「こうなった以上、それは避けられないだろうな」


「だから……ね、俊介。私の事はもう心配しないで。絶対。犯人になんかにならないから。あなたはあなたが今、成すべき事をして」


「心配するなと言われても、今の君は孤立無援だろう。僕ができるだけ支えてあげないと」


 雪江は僕の申し出を固辞するように、固く瞳を閉じ、頭を振った。


「そろそろ、わかってくれないかな。私、そんなに弱くない。もし私が何か企んでる人たちの言葉に簡単に流される人間なら、こんな怖い世界で何度も主役をやってないわ」


「……たしかに、そうだな。わかった。でもあんまり心配させないでくれよ」


「うん。疑いが晴れたらちゃんと報告するね。あなたはまず、あの女の子の……あなたの大事なお友達の誤解を解いて」


「ああ。そうする」


             〈第二十六回に続く〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る