第21話 異国のソースは危険!

「ごめんなさいねえ、メニューが少なくってえ」


 香ばしい匂いを上げるタンドリーチキンの皿を運びながら麻友子が言った。


「これだけ充満すると、何の匂いだかわからないわね。私は行ったことないけどインドってこんな感じかしら」


 美咲が言うと、麻友子は「私も行ったこと、ないわよ」と笑いながら返した。


「向こうは家庭ごとにスパイスの味が違うっていうし、三食カレー系も珍しくないっていうから、もう町の空気自体がこんな感じなんじゃない?」


「こんな感じで続けてたら、このお部屋もエスニック系の方しか住めなくなるわね」


「まずはお店が続くかどうかね。……あっ、ミドリちゃん、そのソースボートはこっちにおいてくれる?」


 俊介はミドリがかいがいしく立ち働くのを新鮮な気持ちで眺めていた。いつもは緑色のジャージ姿だが、今日はさすがにまずいと思ったのかジャンパースカートだった。麻友子とは相性がいいのか、表情こそいつもの無表情だがどことなく立ち振る舞いが軽やかに見えた。


「それにしてもよく集めましたね、このタペストリーとか、人形とか」


 こずえが感心したように言った。僕は壁の時計を見た。針は二時四十分を示している。『のがスゴ』は三時半からだった。はたして結衣はうまく映ることができるだろうか。


 そろそろテーブルが満杯になろうかという頃、チャイムの音がした。


「こんにちはー」


 入ってきたのは津久井聖子だった。今日はエスニックを意識したのか、サリー風の赤いワンピースだった。


「隣だっていうだけで、私までお呼ばれしちゃっていいのかしら」


「ええ、どうぞどうぞ。もしおいしかったら常連になってくださいな」


 麻友子は屈託なく言うと、聖子に席を勧めた。やがて、今日のメインであるカレー料理が運ばれてきた。金属製のプレートにターメリックライスとカレーの器が乗せられている。カレーの器は小ぶりのものが三つで、トマトベースのチキンカレー、豆類のカレー、そしてタイ風のグリーンカレーだった。


「さあ、準備ができたわ。あとは……」


 麻友子が美咲をちらりと見た。美咲さんのところだけですね、とこずえが後を引き取った。宿題が終わり次第、優名とひかりが合流することになっていた。


「そういえば、結衣ちゃんは今日はどうして来られないんですか?デートとか?」


 麻友子が尋ねると、こずえは「それがですね」訝しげに首を捻った。


「なんだかお友達と大事な約束があるとかで、早々と家を出て行ったんですよ」


「そうなんだ。やっぱりデートかしら」


 麻友子がからかうと、こずえは「そうなんですかねえ」と納得がいかない表情をした。


 麻友子が全員分のラッシーを注ぎ終えると、チャイムが鳴った。


「はーい、どうぞ」


 麻友子の返答の後、ドアが開いて二人連れの来客が姿を現した。優名とひかりだった。


「いらっしゃい、お二人さん。宿題はちゃんとやった?」


「やりましたよ、うふふ。私なんか呼ばれちゃっていいのかしら」


 答えたのはひかりだった。今日は麻のワンピースという簡素ないでたちだった。


「それじゃあ、パーティーを始めましょうか。ミドリちゃん、席について」


 ミドリが席に着くと、音楽が中南米のフォルクローレから、ガムランを思わせるアジア風の楽曲に変わった。


「メインはカレー料理ですけど、辛さとか、注文がおありでしたらいつでもおっしゃって」


 ミドリと優名は会食が始まるや否や早速チキンに齧りついた。僕の席は、ミドリと聖子に挟まれる形になった。聖子はチキンをほぐしながら「いい香りね。スパイスに漬け込んだのかしら」と言った。この反応なら、臭いの問題も早々にクリアできるかもしれない。


「おいしーい」


 ひかりが歓声を上げた。今日は髪を束ねており、化粧も薄い。なのに、ひかりの華やかさは際立っていた。


「よくアジア系のお店に行くんですけど、辛さと旨みのバランスが絶妙ですね」


「そう?あんまり本格的にして、とっつきにくいと思われても困るから……って、実際にその国で食べた事なんかない物ばかりなんですけど」


 麻友子は屈託なく笑った。確かに妙に本格的な味にされるよりは、親しみやすい味のほうがいい。僕も学生の頃は物珍しさもあってあちこちの国の料理を食べ歩いたものだが、香辛料の中には日本人にはなじみのない物も多いのだ。


「でも、私的にはもっと辛くても平気ですけど……」


「あら、じゃあ、チリペッパーをひかりさんだけ多くしてあげようかしら」


「うふふ、いいですよ。私、辛い物の食べ過ぎで声が出なくなったこともありますから」


 それで声がちょっとハスキーなのかな、と僕は思った。聖子は置いてある民芸品風の人形が珍しいのか、時折手を休めてはしげしげと眺めていた。


「あっ、やべっ」


 ふいに優名が声を上げた。美咲が「やべっ、なんて言っちゃ駄目でしょ」とたしなめた。見ると、カレーのソースがスカートに飛び散っていた。優名はおしぼりを素早くスカートの生地に押し当てた。


「これ、お気に入りなのになあ」


「だから、カレーとかの日にお気に入りなんか着るもんじゃないって言ったでしょ」


「だって、着たかったんだもん」


 美咲と優名がやりあっているうちに、ミドリがナプキンでテーブルに散ったソースを手早く拭き始めた。


「ミドリちゃん、自分のカレーが袖についてるよ」


 ひかりが言った。見ると指摘通り、グリーンと黄色の汁が袖についていた。


「うわっ、ひどいな。血しぶきみたいだ」


「ミドリちゃん、大げさねえ」


 半べそを書いている優名とは対照的に、ミドリは冷静だった。血しぶきとはミドリらしいなと僕は苦笑した。


 主婦たちが夫の話やら子供の話やらを尽きることなく交わしている間に、子供たちはタンドリーチキンとカレー料理をあっさりと平らげてしまっていた。麻友子はプレートを下げながら、「このぶんだと予定より早くデザートになっちゃうわね」と笑った。


 カレー料理に代わってテーブルを支配したのは、フォーのスープと、生春巻きだった。


 ひかりは「あっさり系もうれしいな。もうちょっと辛くてもいいけど」と言った。


「おいしいけど、春巻きは揚げたほうが好きだな」と優名が小声で感想を漏らした。


 ミドリが「こっちの皮は米だからな。サラダみたいなものだ」と淡々と返した。


 僕は時計を見た。三時二十分だ。まもなく『のがスゴ』の始まる時間だ。


「シュンスケ、早く食べないと大事な用事に間に合わないぞ」


 不意にミドリが言った。見計らったような見事なタイミングだった。


「あら、秋津さん、この後予定があるんですか?」


 麻友子が戸惑ったように訊いた。僕は顔の前で手を振って見せた。


「いえ、あの、別に予定はないんです。ミドリが言ってるのはテレビの事です」


「テレビ?ご覧になりたい番組があるの?だったら、家で見ていきません?」


「何の番組?」 


 美咲が真っ先に食いついた。午後のテレビ番組に関しては、僕よりも主婦たちのほうがよほど専門家だ。


「あの、『のがすな……』」


「ああ、『のがスゴ』。……そうだ、今日はほら、真妙寺雪江が出るのよ、たしか」


 美咲が声のトーンを上げて言った。麻友子とひかりも、目を輝かせた。


「そうだ、確か『わたしたちのエンドレスロード』のロケがあるから、役者さんたちが来てるのよね。生出演もあるって新聞に書いてあった」


 どうやら真妙寺雪江の名は、こちらが思っている以上に効果があったらしい。


「見よう、見よう」


 麻友子はそういうと、部屋の隅に吊り下げられていたタペストリーをまくり上げた。タペストリーの下から大型のテレビが現れ、麻友子はいそいそと電源を入れた。


「あ、やってるやってる」


 画面上に公園の一角と思われる開けた場所が映り、アナウンサーらしい若い女性がマイクを手にカメラに笑いかけていた。


「さあ、この後は皆さんお待ちかね、真妙寺雪江さんの登場です!」


 ピースサインをする観客たちをカメラが舐め、画面がCMに切り替わった。


「さあ、もうすぐだわ。音楽消さなくちゃ」


 麻友子がそういうと、キッチンに消えた。室内がアジアの怪しい雰囲気から一気にごく普通のマンションの一室へと様変わりした。


「ところで秋津さん、わざわざ家に帰って見るほど、真妙寺雪江のファンなんですか?」


 ひかりが興味津々、と言った面持ちで聞いてきた。僕は苦笑しながらうなずいた。


「ええ、まあ。ロケを見に行くほどではないですけど、テレビだったら見たいかなって」


「結構、エキストラの募集とかしてたんですよね。私も応募すればよかったかなあ」


 ひかりが言うと、優名が「すればよかったのに」と真顔で言った。こずえを見ると、相変わらず澄ましたままだった。この後、結衣が映ったらどのような反応を示すだろうか。


「あー、始まった始まった。うわあ、見たことある俳優さんがいるう。……あ、あれっ?」


 麻友子が頓狂な声を上げ、その場の全員がつられるように画面を注視した。


「今、端っこに結衣ちゃんが映らなかった?」


「まさか」


 美咲が笑い飛ばそうとして、そのまま押し黙った。画面の中では女性アナウンサーが映画の説明をしているところだった。背後には観客が映っているだけだったが、画面の端の方に出演を待っているらしい人影が見え隠れしていた。


『ええ、今日は『わたしたちのエンドレスロード』に出演者されている方々にお越し願いました。どうぞ』


 アナウンサーの紹介に続いて画面端から数名の役者が姿を現した。その中に、結衣の姿があった。


『ええと、まずは主役を演じる中崎計馬なかざきけいま君と、ヒロインを演じる真妙寺……えっ?まだお見えになってませんか?」


 アナウンサーがにわかに動揺し始めた。どうやら雪江が到着していないらしい。


『すみません、ちょっと移動が遅れているようで、真妙寺さんがまだお見えになっていないようです。お待ちになっていらっしゃったみなさん、すみません生放送なので取りあえず、紹介を始めさせていただきます』


 観客から「えーっ」という落胆の声が上がるのをマイクが律儀にも拾っていた。アナウンサーの過剰なほどの笑顔と、雪江以外の出演者の微妙な表情がトラブルの深刻さを物語っていた。


「どうしちゃったのかしら。真妙寺雪江が出てなかったら意味ないわよねえ」


 麻友子が言うと、美咲も「そうよねえ」と同意した。僕は落胆と同時に不安にも似た気持ちがこみ上げてくるのを覚えていた。


「えー、では次に真妙寺雪江さん演ずる真奈実の妹、冬香役の滝沢莉愛りあちゃんと、そのお友達の春香ちゃん役で一般公募デビューした倉橋結衣ちゃんです」


 画面の中央に、二人の少女が並んで登場した。一方は目鼻立ちのくっきりしたいかにもアイドルと言った風貌の少女。もう一方はメイクこそしているがまぎれもなく結衣だった。


「結衣ちゃん?本当に?」


 麻友子がひときわ高い声を上げた。美咲も声こそ出さなかったが画面に釘づけになっている。こずえに至っては身を乗り出し、驚愕の表情を浮かべたまま凍り付いていた。


「結衣……どうして?あれほど言ったのに」


「こずえさん、ご存じなかったんですか?」


 麻友子の問いにこずえは黙って頭を振った。僕はこずえが気の毒になった。


『結衣さんは今回が女優初体験という事で、いかがですか?』


『エキストラは以前、何度かやらせていただいたことがあるんですが、一言以上セリフのある役は初めてなので緊張しています』


 結衣の初々しい受け答えに、僕は思わず口元がほころぶのを意識した。が、こずえにしてみればほほえましいどころの話ではないだろう。今のところ結衣の計画は予定通り進んでいるが、番組が終わった後、どのように座を収めるかまでは打ち合わせていない。


『こんな風に見どころ一杯の『エンドレスロード』ですが、残念ながらまだ真妙寺さんがご到着されていないということで、放送時間があと五分しかないんです。すみません』


 女性アナウンサーはまるで不祥事を起こした企業の経営陣のように深々と頭を下げた。


「あーあ、せっかく真妙寺雪江を見ようと思ったのになあ。秋津さん、残念でしたね」


 雰囲気を和らげようとしてか、麻友子がおどけるような口調で言った。


「いやあ、生放送だっていうし、こういうこともあるんじゃないですかね」


 僕は平静を装って言った。正直なところ、気にならないでもなかった。雪江は仕事をすっぽかすような女優ではない。一体、なにがあったのだろう。


「結衣……認めないわよ」


 こずえが低い声で吐き出した一言で、座が静まりかえった。


「あの……こずえさん、映ってしまったものはしょうがないと思いますし、お家でゆっくり話し合ったらいいじゃないですか」


 美咲がとりなし、その言葉にこずえははっと我に返った。


「すみません、動揺してしまって」


「もしかしたら真妙寺雪江、時間内に間に合うかもしれないし、もう少し点けておきましょうか。デザート、持ってきますね」


 麻友子が努めて明るく言い、優名が「デザート、待ってました」と叫んだ。優名の一言で強張った空気はいくらか薄まり、室内はかろうじて元の和やかな雰囲気を取り戻した。


 まあ、いいか、と僕はそれ以上憂慮するのをやめた。結衣と母親の関係は当人同士で解決するしかない。それよりも雪江がどうなったかということの方が気になった。


「お待たせー。今日はこれで終わりですけど、好評だったらまたさせていただきますね」


 デザートの写真を撮りながら麻友子がにこやかに言った。かすかにぎこちなさの残るテーブルで、優名とミドリだけが一心不乱にデザートを口に運んでいた。


            〈第二十二回に続く〉

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