第17話 イメージチェンジは危険!
電車を降りて五分も歩くと、低層住宅と古い雑居ビルとが身を寄せ合うように軒を連ねている一角に出た。道幅も細く、良くも悪くも古い街並みが丸ごと残っている、そんな街だった。
僕は四つ折りにされた紙片を取り出し、開いて中を見た。麻友子から渡されたミドリがよく来ているという美容院の名称が記されていた。
『美容室 みどり』
冗談かと思うような名前だった。名前の下に記されている番地はすぐに見つかった。増改築を繰り返したと思われる古びた雑居ビルだった。
端から順番にテナントを見ていくと、三軒目に両側からはさまれるようにして『美容室 みどり』があった。
ドアを押し開けると、店の奥にいた初老の女性が振り返った。
「あら、いらっしゃいませ」
きれいな銀髪のその女性が、どうやら店の主人らしかった。
「あのう……すみません、散髪じゃなくて、ミドリという人を探しているんですが」
「みどり?ミドリは私ですけど」
銀髪の女性が言った。やはりここの主人はみどりというのか。
「いえ、そうじゃなくて、僕が捜しているのはミドリっていう小学生くらいの女の子なんです。島谷さんという方から、その子が時々ここへ来るって聞いたもので……」
そういうと僕はミドリの特徴を語り始めた。大きな眼鏡、緑色のジャージ……さすがにぞんざいな口の利き方をする子、とまでは言えなかった。
「ああー。ミィちゃんのことね。今日はまだ、来ていないねえ」
そういうと銀髪の女性はくすくすと笑った。
「ミィちゃんて呼ばれてるんですか」
「えーえ。私は昔からそう呼んでるわよ。ミィちゃんがこんな小さな頃から」
「失礼ですが、あなたもお名前がミドリ……」
「そうです。生まれた時から、ミドリ。
「ミドリ……いえ、ミィちゃんは、この辺で育ったんですか?」
「そうよ。ここから一本道路を隔てた東に古いお宅があってね……いやだわ、うちも古いけど。そこの御嬢さんよ」
「実は、あることで彼女……ミィちゃんを怒らせてしまいまして。謝りたいと思って探しているのですが、なかなか連絡がつかなくて」
「怒らせた?……ミィちゃんを?……それは、よっぽどのことよ、あなた」
美登里は大袈裟に眉を顰めて見せた。
「だってねえ、あの子はよほどのことがない限り、怒るような子じゃないもの。たとえ、失礼なことを言われたとしても、じっと我慢しているような子よ」
そうなのだろうか。確か麻友子も『ミドリが怒るなんて想像できない』というようなことを言っていなかったか。
「いったい何をしたの、あなた」
「ええと、依頼をすっぽかし……いや、まずあの、優名ちゃんという子がいましてですね」
しどろもどろになりながら必死で事の次第を伝えようとする僕に美登里は笑って
「あなたって、真面目な人なのねえ。わかったわ。時間はたっぷりあるから、ミィちゃんと出会った時の話からしていただける?」と言った。
「あのう、出会った場所は、その……路上です」
「ロジョウ?」
僕は万引きの一件から、ボディガードをする羽目になった経緯までをかいつまんで話した。美登里は目を丸くしながら「それはそれは」と言った。
「いい場所で出会ったわねえ」
「いい場所?」
「あの子は人見知りする子だから、そういう切羽詰まった状況の方があらたまるより良かったんじゃないかしら」
「人見知り……ですか」
俊介はミドリの表情や口調を思い返した。どう見てもそんな風には見えなかった。
「ええ。本当にあの子は小さい頃から内気で臆病で、遠慮ばかりしている子だったの。私ね、いつも会うたびに言ってるのよ。『もっと図々しくなりなさい』って」
もうっと図々しく、か。では今までの唐突な依頼とかはそうではなかったのか。
「私にはミィちゃんが怒ってるとは思えないんだけど、あなたの気持ちを伝えておくのは必要かもしれないわね」
「そう思ってここに来たんですが……そう簡単にはいかないみたいですね」
「そうねえ、毎日来てればそのうち会えるわよ、きっと」
「毎日……ですか?」
「ただ電話を待ってるより、健康的だと思うけどな。……そうだ、あなた前髪がちょっとうるさい感じに見えるけど、せっかくだから揃えていかない?」
「前髪、ですか?いやその……理容室には先月行きましたけど」
「だから、女の子に声をかけるんなら、さっぱりしてたほうが印象がいいでしょ?お金は取らないから、安心して」
美登里に勧められるまま、僕は椅子に座った。美登里が慣れた手つきで毛先を切り始めた。
「昔はね、男性のお客さんも結構いたのよ。……といってもこの辺の人ばっかりだけど」
美登里の手つきは鮮やかだった。小気味よい
僕が『もういいです』と言いかけた、その時だった。ドアが開く音がして、人の入ってくる気配があった。
「こんにちは」
「あら、ミィちゃん。どうしたの。浮かない顔して」
僕は思わず身を固くした。入って来たのはミドリらしい。
「なんかこの頃、色んなことがわかんなくなってきた」
「そりゃあ、あんたの年で色んなことがわかる方がおかしいわ。……で、何がわかんないの?友達のこと?それとも家族のこと?」
「友達……そう、友達の事」
「ゆう……優名ちゃんだっけ?あの子のこと?」
「うん。その子の事もだし、もっと違う友達じゃないような……ある人の事も」
ミドリはいつもの大人びた口調ではなく、年相応の子供の話し方でぼそぼそと喋った。僕はミドリがどうかこっちを見ませんようにと祈った。
「ある人って?ボーイフレンド?」
美登里が茶化すように言うと。ミドリは「違うっ」と間髪を入れず叫んだ。
「あっ……いや、まあ、友人のようなものだけど。その……私の態度で気を悪くしてるんじゃないかって思うんだ」
「まあ。何かしたの、あなた?……そんなに心配することないわよ。きっとその人もミィちゃんと会って話したいと思ってるわ」
「そうかな」
「そうよ」
ふと、沈黙が横たわった。思わず顔を動かした僕の視野に、緑色の人影が飛び込んできた。ミドリ!……しまった、そう思った瞬間、人影が動いた。
「おばちゃん、わたし、あの、また今度来るねっ!」
視界の隅からミドリらしき影が消え、続いてドアを激しく開け閉てする音が聞こえた。
「ほらほら、まだ動かないで。ちゃんとブラシで綺麗にしてからよ」
美登里はそう言うと、俊介の襟周りをブラシで掃いた。
「はい、おしまい。これでうんと若い子に声をかけても大丈夫よ」
椅子から立ち上がった僕は、出入口の方を見た。もうミドリの姿はなかった。
「どうもありがとうございます。あの、ええと」
「意中の子のところに行くんでしょ?早くいかないと逃げられちゃうわよ」
「すみません、失礼します」
僕は頭を下げると美容室を飛び出した。左右を見まわし、取りあえず駅の方角に向かって駆け出した。数メートル先で、信号が黄色に変わろうとしていた。駆け抜ければ大丈夫だ、そう思った時だった。
「危ないぞ!いい大人が子供みたいにむやみに飛び出すもんじゃない」
後方から鋭い声が飛んだ。思わず足を止め、背後を振り返るとミドリが立っていた。
「ミドリ……」
「大人はもっと思慮深いものと思っていたが……君からはいろんなことを教わるな」
ミドリの眼差しが、眼鏡の奥からまっすぐに俊介を捉えていた。よかった、ミドリは僕から逃げたいと思っていたわけじゃない。
「ミドリ」
「なんだ?」
「約束を破ってすまなかった。優名ちゃんとの待ち合わせに遅刻したのは、僕がボディガードの事を軽く考えていたからだ。失望されても当然だ」
ミドリは顔を上げると、再び僕の顔をまっすぐ見返してきた。気のせいか
「シュンスケ」
「うん?」
「……ずいぶん、さっぱりしたな」
「は?」
「やはり美登里おばさんの腕は一流だ。前髪を揃えただけで別人のように見える」
全身から急激に力が抜けてゆくのがわかった。ミドリ流の照れ隠しかもしれないが、それでも元のように遠慮のない口をきいてもらえることがありがたかった。
「……女の子に声をかけるなら、このくらいさっぱりしろってさ。正解かい?」
「当然だ」
ミドリの口調が柔らかいものになった。眉が下がり、伏し目がちになった。
「あの人のやることに、間違いなどない」
僕は頷いた。固くこわばった関係が一瞬にしてほぐれたのも、美登里の粋なマジックのお蔭だ。
「ミドリ。実はちょっと前に、優名ちゃんと話をした」
「あの日の事について、何か話したのか?」
僕は頷いた。ミドリの表情が、再び厳しいものになった。
「時間はあるか?僕の仕事場で話そう」
込み入った話になることを予感したのだろう、ミドリは「わかった」と即答した。
〈第十八回に続く〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます