第15話 スパイスの香りは危険!
パキン、と乾いた音がして、指先から土の感触が消えた。
僕は小さく「あっ」と声を上げた。左手の中には、縁のかけたカップがあった。僕はやすりをかける手を止め、鼻から息を吐き出した。
「あら、秋津先生珍しいわね、やすりがけでやっちゃうなんて」
「本当だね。珍しい」
喜久雄も首を傾げながら同様の感想を口にした。
成形を終え、乾燥させた土は次に素焼きをするのだが、その前に表面をきれいにするためにやすりがけをすることがある。素焼きの終わっていない土は単なる乾燥した泥にすぎないため、力を入れすぎると破損してしまうのだった。
「そりゃあ、秋津さんだって悩みくらいありますよね。お仕事の事とか」
美咲が平坦な口調で言った。僕は思わず身を固くした。美咲にはすでにボディガードをすっぽかした一件が伝わっていることだろう。
こうして美咲と顔を合わせる機会はあるのだから、きちんと説明するのが大人としての義務であろうが、気まずさが先立つあまり僕は美咲にボディガードの件を切り出せずにいた。
「あっ」
別の方向から声が上がった。見ると倉橋こずえが縁の欠けた湯飲みを手に呆然としていた。僕と同様、素焼き前の作品にやすりがけをしていたようだ。
「あら、倉橋さんもやっちゃった」
「こういうのってうつるのかしらね」
「秋津先生が気の毒で、お付き合いしたとかいうことはないのかしら?」
あちこちで好き勝手な感想がささやかれた。こずえはさしてがっかりした様子も見せず、淡々とこぼれた欠片を集めていた。
こずえはともかく、僕には集中力を欠いてるという自覚があった。ボディガードも仕事と言えば仕事だから、美咲の言葉は皮肉と取れなくもない。
本業もプライベートで請け負った仕事も、どちらも片手間になってしまう情けない自分。那須の指摘通りだと思った。
「まあ、今日はのんびりする日、と決めてゆったりと作業するのもいいものだよ」
喜久雄がとりなすように言った。確かに今の自分に必要なのは落ち着きと自信だろう。那須が言うように煩わしいことをいったん、忘れることが調子を取り戻す近道なのだ。
「美咲さん、今日は二時半まででしたよね」
麻友子が言った。美咲は「ええ、お客様がいらっしゃるので。ごめんなさい」と返した。
「お客さまって、もしかして、優名ちゃんの家庭教師?」
麻友子がずけずけと突っ込むと、美咲は嫌がるそぶりも見せず「そうなの」と答えた。
僕はちくりと胸が痛むのを覚えた。自分が遅刻せずにきちんと優名を学校からガードできていれば、美咲が家庭教師を雇うこともなかったかもしれない。
「学生さん?」
「ええ。T大の大学院生で主人の親戚にあたる人よ」
「若いんだあ。男性ですか?」
「残念ながら、女性よ。でも綺麗な子だから男性だったら麻友子さん好みのハンサムだったかもしれない」
遠慮のない質問にも、美咲はサービストークを交えて鷹揚に答えた。
「優名ちゃん、喜ぶでしょうね。お姉さんができて」
「そうね、懐いてくれるといいんだけど。仲良くなれないとお勉強にも影響するから」
僕は美咲の表情が一瞬、曇るのを見逃さなかった。派手好きで悩みなど無縁にも見える美咲だが、やはり優名のこととなると違うのだろう。
当然だが今日はこの場所に優名とミドリの姿はない。優名は学校からまっすぐ帰宅し、家でじっと家庭教師が来るのを待っているのだろうか。ミドリは優名の姿がない塾にどんな気持ちで行っているのだろうか。
「そうだ、秋津先生」
てきぱきと後始末をしていた麻友子がふいに口を開いた。
「この後、もしお時間あったら、うちに来てもらえないかしら。エスニックカフェの内装を考えてるんだけど、絵本作家の目から見たアイディアをいただきたいの」
「はあ……」
ほかの主婦たちがひそひそ声で「ぬけがけよ」とささやくのが聞こえた。
「ええ。ぬけがけよ。だって初めてのお店ですもの。なんだってやるわ」
麻友子のあっけらかんとした物言いに、周囲も苦笑せざるを得なかった。背が高く男性的な顔立ちの麻友子は美咲とはまた違った存在感があった。
掛け時計が二時半を告げ、主婦たちが教室から姿を消し始めた。いつもなら喜久雄と僕は最後まで残って美咲と軽い打ち合わせをしていくのだが、麻友子が「秋津先生、よろしいかしら」と退去を促したため、麻友子とともに一足先に教室を出ることになった。
麻友子がエスニックカフェのために借りている部屋は陶芸教室のすぐ下の階だった。ドアの前まで案内された僕は、思わず足を止めた。隣の角部屋が無性に気になったのだ。
「あ、こちらのお部屋は津久井さんの占い部屋よ。入ってみる?」
「いえ……なんだかすごいなと思って」
角部屋のドアには金属製のプレートが掲げられており、『占いの館 マダムオフィーリア』と文字がレリーフされていた。醸し出されるオカルティックな空気に、僕はただひたすら圧倒されるしかなかった。
「美咲さん以外にも、結構、占いに行ってる奥様達がいるらしいわよ」
麻友子が悪戯っぽく笑うと、自分の部屋に入っていった。
先生、どうぞと中から促され、僕は反射的に左右を見まわした。別段、やましいことをしているわけでも何でもないのだが、何せ狭い世界だ。事情を知らない人に目撃でもされようものなら、どんな無責任な尾ひれがつくやらわかったものではない。
フロアは廊下の突当りまで人っ子一人いない。そう確認して部屋に入ろうとしたその時だった。階段を上がってきた人影が、横顔をわずかにのぞかせた。慌てて僕は玄関に体を滑り込ませた。わずかな隙間が残るようにドアをゆっくり引くと、しばらくしてドアの前を人影が横切るのが見えた。ややあって、隣のドアが開閉する音が聞こえた。
結衣?占いをしにきたのだろうか。
僕は視線を室内に戻した。促されるままリビングに足を踏み入れると、かすかにスパイスの香りがした。
「先生、どうかしたんですの?表情が暗いわ」
「いや、あの……本格的なんでびっくりして」
半分は本音だった。リビングを改造した「店内」は、透かし彫りの入った木製のパーティションや縦長のタペストリーで仕切られ、外光もカーテンではなくアジアリゾート風の簾でさえぎられていた。
「実は私、ネットでエスニック雑貨の輸入もしてるんですけど、気に入ったものをバラバラに買っちゃうんであんまり売れないの。それでしょうがないからお店のディスプレイにしようと思って」
そう言いつつ目線で示した先には、世界各地の民芸品が統一されぬまま配されていた。
ガネーシャ、ガルーダといったインド近辺のものから、アボリジニのお面、ペルーあたりの土産物と思しき木彫りの蛇……沖縄のキジムナーまであった。
「たしかにバラバラですね。創作料理ならそれもいいかと思いますが……バランスはあんまり良くないかな。入り口から入ってまっすぐ見える場所に、何かお店を象徴するものを一つ置いたほうが安定感が出ますよ」
「なるほど、確かにそうね。何を置いたらいいかしら……木彫りのガネーシャとかラーマヤーナのタペストリーだとカレー専門店みたいだし……」
「無国籍感のある人形か何かがいいでしょうね。神様とかよりも」
「そうね。じゃあアフリカの物か何かで探してみるわ」
これは隣の占いよりはるかに怪しい感じになりそうだ、と僕は思った。
「秋津先生、せっかくですからチャイでも召し上がっていきません?」
「はあ、チャイくらいでしたら……」
僕は勧められるままにテーブルに着いた。民芸品のような不安定な形のテーブルだ。
「確かに隣の部屋でお仕事をされてると思うと、食べ物の匂いも考えてしまいますね」
「そうなのよ。向こうだってお香やらアロマキャンドルやらをやってるのよ。うちだけ言われても困るわよねえ」
僕は沈黙した。エスニック料理店にお香の匂いが流れてもさして影響はないだろうが、神秘的な占いの最中にカレーの匂いが漂ってくるというのはいかがなものであろうか。
「そうそう、ここだけの話なんだけど、陶芸教室とかサロンに来ている奥さんたち、結構、人には言えない悩みを持っているみたい。私が知っている顔だけでも、占いの館から出てくるところを何人か見てるもの」
「そりゃあ、誰だって悩みくらいはあるでしょう」
僕はチャイを啜りながら冗談めかして言った。シナモンが程よく聞いていて、うまい。
「そうだけど、ほら、色々と噂を耳にするものだから……。美咲さんが外で大学生くらいの若い男の人とお茶を飲んでいたとか……」
どうも話が怪しげな方向に流れ始めた。麻友子はさっぱりした性格ではあるようだが、その一方でかなりの噂好きでもあるようだった。
「あと、結衣ちゃんが……」
言いかけて麻友子が口を噤んだ。表情にしまったという後悔の色が現れていた。
「結衣ちゃんがどうかしたんですか」
「あ、えっと……誰が言ってたかちょっと忘れちゃったんだけど、結衣ちゃんが男性の車に同乗してるところを見たとか、一緒にブティックに入っていくところを見たとかっていう話があって……」
「車ってことは成人の男性ですか?」
「そうみたい。倉橋さんとこは三人家族だし、叔父さんがいるって話も聞いたことないから、色々と想像をたくましくする人がいるんですよね」
「つまり結衣ちゃんとその男性が怪しい関係にあると?」
「私にはわからない。ただ、ある人が言うには、その男性が竜邦学園の近くに住んでるカメラマンだかフリーライターだかに似ているっていうんですよね。どうもその人、女の子の写真を撮るのが趣味らしくて、いい評判を聞かないんです」
「ははあ、狩野とかいう人物ですね」
「ご存知でしたの?」
「ええまあ、優名ちゃんから、そういう人がいて、竜邦の生徒が何人か声をかけられたという話は耳にしました」
「だって結衣ちゃんが一緒にいたっていう男性がもしその人だったら、……ねえ。ただの知り合じゃないかもって思う人がいても不思議はないですよね」
「その話は、倉橋さんはご存じなんでしょうか」
僕が尋ねると、麻友子はぶるぶるっと勢いよく頭を振った。
「知ってるわけないじゃないですか。……だってあの……こう言っちゃなんですけど、倉橋さんっておっとりしてるっていうか、真面目なお嬢さんって感じでしょ。変な噂を真に受けて家庭がおかしくなったりしたら困るじゃないですか」
「ううむ、なるほど。でもその噂がもし、まんざら嘘でもないってことになったら放っておけない気もしますが」
「それはそうでしょうけど、そこは踏み込めないところなのよねえ。何か事件でも起きたら別でしょうけど」
「事件が起きたら遅いですよ。……優名ちゃんかミドリに、それとなく聞いてもらったほうがいいかもしれません」
「ああ、ミドリちゃん。あの子、面白い子よねえ」
麻友子が強張っていた表情を緩めた。陶芸教室に優名と出入りしているうちに顔なじみになったのかもしれない。
「まあちょっと変わった子ですよね」
「そうねえ。でも好きだわ、あの子。裏表がない感じで」
「僕はどうやら嫌われてしまったようですけれどね」
「あらあー、どうして?そんな、人を簡単に嫌うような子じゃないと思うけど」
「僕がいけないんです。約束を破ってしまったというか……」
僕は遅刻の顛末を麻友子に洗いざらい、ぶちまけた。
「よくないわねえ。優名ちゃんにはきちんと謝った?」
「謝りたいんですけど、なかなか連絡がつかなくて……。お母さんからも特に何も言われていないので」
僕はコンビニで顔を合わせた時の優名の表情を思い返した。幾分気まずそうではあったが、怒っているようには見えなかった。
「そうかあ。でももしかしたら、優名ちゃんも勝手に塾を休んだりして、あなたと顔を合わせづらいのかもしれないわね」
「だったらいいんですけど……ミドリとも連絡がつかないし、やっぱり嫌われたのかなと」
「そんなことないとおもうけどなあ。……そうだ、ミドリちゃんに会えそうな場所を一か所、知ってるわ。行ってみたらどうかしら」
「そんな所があるんですか」
「ええ。義母が昔から利用している美容院が、ミドリちゃんの家の近所らしくて時々、遊びに来るみたいなの。私も義母と一緒に行ったときに見かけた事があるわ」
「そういえば、僕はミドリの家も何も知らないんですよ」
「じゃあ、余計に行ってみたらいいんじゃない?住所を書いてあげる」
そう言うと麻友子は紙片に美容室の名称と所在地を書き、僕に手渡した。
「ありがとうございます」
「ちゃんと仲直りするのよ。……もっとも私はミドリちゃん、怒ってないような気がするんだけど」
僕は空になったチャイと腕時計とを見比べた。もう三十分以上経過している。そろそろ、潮時だろう。
「それじゃ、そろそろお暇させていただきます」
「あらごめんなさい、無理にお誘いしておいておかまいもできませんで」
「いえ、とんでもない。オープンが楽しみです。では、失礼します」
僕がそそくさと靴を履き、ドアを開けたその時だった。すぐ真横でドアの開く気配があり、僕は反射的にドアを閉めた。
「どうなさったの?」
「あ、いえ……占いの部屋からどなたか出てきたみたいで……」
僕が告げると、麻友子はさもおかしそうにけたけた笑い始めた。
「先生、小心ねえ。鉢合わせくらい、どうってことないでしょ。先生がうちにいらっしゃることは陶芸教室の皆さんにあらかじめ言ってあるんだし」
「ええ、まあ、そうですが……そろそろいいかな?」
僕は恐る恐る、ドアを開けた。廊下に人影はなかった。まだくすくす笑っている麻友子に改めて暇を告げ、僕は部屋を後にした。
その時、ふと僕の脳裏にいましがた麻友子が口にしたばかりの一言が甦った。
結衣ちゃんが男性の車に同乗してるところを見たとか、一緒にブティックに入っていくところをみたとか……
本当だろうか。結衣が占いの部屋に入っていったのは、麻友子の耳にした噂と何か関係があるのだろうか。僕の中で占いの館への興味がにわかに高まった。
いったん部屋を離れかけたものの、好奇心には勝てなかった。僕はくるりと踵を返すと、占いの館のチャイムを鳴らした。
〈第十六回に続く〉
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