富貴在天、俎上之肉 5





 選民の頂点に坐す髑髏鴉は言った。


『我々は新たなステージに進んだ選ばれしニンゲンである。

 だが予を含め、貴兄らは未だ親離れの叶わぬ幼き稚児。如何なる叡智、力を持とうとも、我々を導き掬い上げてくれた御方を父とする幼子に過ぎない。

 子は親を必要とする。雛鳥の如くその大いなる庇護を求める。なぜなら幼子には、親の齎す無償の親愛が須要だからである。

 恥ずかしげもなく縋りつきたい。我々にはまだ、父たる御方が必要なのだ。

 忌々しき邪神の鉾を手にし者に弑され、封じられし父の骸を取り戻せ。彷徨いし父の魂を現世へ回帰せしめよ。

 予の名に於いて教団を設立する。二つの至上命題を果たせし時こそ、魔人根絶に比する大願成就の証となるであろう』


 ――三百年だ。三百年もの月日を、ただ探し、求め、啼いた。


 おお、父よ。御身は今、何処いずこ御座おわすのか。

 教団の名は虚しい。戴くべき御身を欠いた教団のなんと空々しいこと。

 我らの国土を探り、調査し、そして精査の末に下された結論にどれほど絶望しただろう。


 御身は、我らの国のどこにもおられない。


 ではどこへ? 研鑽の末に答えは見えた。

 御方の聖骸は異世界に在るのは最初から解っていた。不明であったのは玉魂の在り処。それは――此処。この冠座カンサスの地だ。それ以外ありえない。

 なぜなら彼の御方は冠座カンサスにご執心であられた。敵対し、干戈を交わした後も邪神めとの蜜月を懐かしんでいたのだ。

 だが………根拠としては弱い。それに訳もなく冠座カンサスに踏み込む事もできなかった。彼の御方は冠座カンサスに我々ニンゲンが立ち入る事を禁じておられる。

 故にこの地に立ち入った後は、速やかに自決せねばならない。無駄に死ぬ事はできぬ、せめて父の玉魂を現世に呼び戻す事だけは成し遂げねばならなかった。


 なんでもする覚悟はある。あの御方さえ戻られるならなんでも捧げる。意地もプライドも全て捨てよう。その覚悟があったから………教団は新人類の定義する、忌むべき〈悪魔〉の手さえ取ったのである。


 見た目だけは美しき、金色の女。あの女の求めた、神々の禁法を抜ける〈異世界渡り〉の術法。新人類が有する秘法の一つを差し出し、対価として得たのだ。父の玉魂の在り処と、それを現世に招く方法を。嘘偽りなど赦されぬ契約を結び、それらを確かに識った。

 五十年に一度、邪神の御子の三柱が一、権能の一つとして祈祷を司る女を、魔人は生贄に捧げる事で邪神の亡霊に拝謁するらしい。その際にあの世とこの世は繋がる。その機に乗じて呼び掛ければ、父は必ず応えてくれるという。なぜならば、父は己の法を破った不届きな子を決して赦さないからだ。罰を与えるためだけに再臨なさる。

 で、あれば。この命を捧げる事に、何を躊躇うものがある? 父の帰還こそ悲願なのだ、玉魂だけでも現世に帰還していただけるなら、如何なる障害も乗り越えられる。


 だから、待った。我々が待ち構えている事も知らずに、愚かな魔人が邪神の御子を連れて冠座カンサスへ訪れるのを。


 待って、待って、待ち続けて。そして―――遂にその時が来た。

 旧時代の巫女の衣装を着込んだ女が一人。同じく旧時代にて侍と称された格好の護衛が二人。聞いていた通りの頭数。

 見て取れる限り、一人は選りすぐりの実力者というほどではないにしろ、片割れはかなりの猛者だ。名付きネームドとして我々が認識するに値する剣士である。

 しかし、どう言い繕った所でたったの二人だ。なんとなれば御子を奪い、こちらで祭祀とやらを行なってもよかった。だが要らぬリスクを負うべきでもない、何事もなく山頂へ赴くのならそれが一番だ。


 そう思っていた。だのに――あろう事か彼奴らは、どこの誰も知れぬ輩に御子を奪われてしまったではないか。


 なんたる無能。

 なんたる怠惰。

 不倶戴天の怨敵なれど、奉じる御方は異なれど、『神を戴く者』という共通事項を持つ同士として、一定の信はあったというのに。それすらも裏切るとはなんたる腑抜け。

 斯くなる上は、我らで祭祀とやらを執り行うまでだ。

 何、手順は識っている。邪神の眷属より聞き出していた。難しい事ではない、今は湖の畔にいる魔人から御子を奪えば、後は簡単に事は済む。


 教団の崇高なる使命のため、命を捨てて取り掛かろう。









    †  †  †  †  †  †  †  †









 夜空の中心に佇む優しい月。

 たおやかな印象を有する綺麗な真円は、しかし無粋で鋭利な形に損なってしまっていた。

 まるで、大きな手の形をした闇に、毟られたような。獣に貪られ無残な死骸を晒す聖人のような。そんな………哀れな三日月。

 健気にもか細い月光で地上を照らす。湖の表面は薄い膜のような氷を張り、照り返された月明かりが畔の静謐を演出していた。

 そこは、凍りついた湖の直上だけ開けた無音の空間。自然の幻想を象る沈黙の世界。寒さに震えるでもなしに、青年は女の頬へ優しく手を添えて目を閉じている。


「………」


 ややあって、青年は手を離した。女の頭から引き出した物の正体は、一言で言えば記憶の複製品である。魔力によって形成された赤い円盤だ。

 女との意志の疎通がいまいち要領を得ないため、早々に理解を諦めたアーサーが女の許諾の下、事態の全貌を把握するべく記憶の読み込みを行なったのだ。

 女が供出した記憶は祭祀に関するもの。それを自身の脳に移植し読み込んだアーサーは、端正な風貌を心底不快げに顰めてしまう。


 調月扶桑が真人類を束ねた神々の王、その三御子の一人である………それはいい。だからなんだとしか思わないし、有り難みを感じた事のない身としては至極どうでもいい事柄だ。だが、扶桑を生贄にしてしまう事なんて認められる訳がなかった。

 霊山の山頂にある祭壇で、巫女の両の目を刳り貫き、刎ねた首を捧げる………? なんだそれは。元の世界よりも優越した能力と技術を有していながら、何故に古代に蔓延った邪教の儀式じみた真似をしている。神々の王に謁見し、聖なる剣を下賜してもらうため? 一度ならず二度三度と失敗していながら、何故に諦めない。何を信じ崇めるのかなんて個人の自由だが、採算の取れない事業に貴重な資源を投資する神経は理解不能だ。

 無論、アーサーは扶桑を〈資源〉なんて物と同列に扱う気はない。確固とした個人として扱うつもりである。であればこそ、彼が下す結論は極めて冷淡で自己中心的なものだった。


「フソウ、事情は理解した。だが私は、君を死なせてまでカミ様なんぞに会う気はない」

「………どうして?」

「聖なるつるぎとやらを得るために、君が死なないといけないなんて間違っている。………というのはあくまで感情論だ。論理的かはさておき、こちらの事情で言うなら………仮に君を犠牲にして聖剣を得たとしよう、だが私には赤の他人を助ける義理が無い。なら聖剣を手に入れたとしても無駄骨だろう? それこそ君は無駄死にだ。私には私の、何よりも優先しなければならないものがある。聖剣なんてものを手に入れて、赤の他人のために命を懸けて戦うなんてナンセンスだ。だから――」

「――それだと、マリアさん・・・・・も、アレクシアさん・・・・・・・も、死んじゃうよ」


 言葉を遮って出された名前に、アーサーは思わず絶句した。

 まじまじと扶桑の顔を見る。能面の如き無表情だ。そこにはなんの色も浮かんでいない。

 思い出してしまう。六年前、散々世話を焼いてくれた幼馴染の少女と、強烈な印象を叩きつけてきた少女を。今はもう立派な女性に成長しているだろう、遠い思い出の中の人………。

 同時に浮上してくる疑問もあった。彼女は、初対面で名乗ってすらいなかったアルトリウスの名前を知り、アーサーという愛称で呼んできた。あまつさえ、アーサーが知己の間柄にある女の名前まで出したのだ。


「………フソウは、あの二人を知っているのか?」

「うん」

「詳しくは………話してくれないみたいだな」

「うん。話せない・・・・。そういう決まり。破れない」

「………」


 心情的なものではなく、なんらかの縛りによるものなのだろう。アーサーはなんとなく察した。

 〈瞳の御子〉は祈祷の他に、魔眼に纏わるものも司るという。いわば視覚の究極とも言える力の持ち主だ。限定的なのか、制限なんてないのかは分からないが、この世界を覆っているらしい〈神々の禁法〉を無視して未来視も行なえるだろう。

 運命への干渉、世界線の移動、過去や未来の情報閲覧、世界の形の大幅な変動、概念の改竄は全ての神格が大いに制限しているのだ。それをすり抜けられる〈瞳の御子〉の感覚は、過去から未来に至り、現在の境界線が曖昧になっていると思われる。なら………アーサーの事を彼女が識っていても不思議ではない。

 やけに親しげなのは、扶桑がアーサーと知己を結ぶ事を識っていて、更にその先の未来で親交を深める事になるからなのだろう。なら彼女はアーサーが何をどうするのかなんて識っているはずだ。となればこれは無駄な問答という事になる。


 アーサーがそう結論を下そうとしていると、扶桑は見透かしたように首を左右に振った。


「そこまで、万能じゃない。私が視てるのは、断続的なものだけ。だって世界線は、無限に近い。私達の世界線だけに、焦点を絞っても、全部を視てしまう。それを識別して、認識すれば、私の頭がパンクする」

「………ならこれから私が何をするのかを、君は知らないのか?」

「うん。ただ、貴方という男の人の事は、知ってる。とても優しい人。見捨てられない人。諦めの悪い人。かっこいい、ヒーロー」

「………ヒーロー? ハ………君の目には硝子玉が詰まっているらしい。道理でキラキラと綺麗に光るわけだ。その特別な瞳で視るモノは、どんなモノであれさぞかし煌めいているんだろうな」


 扶桑によるアーサー評に、とうのアーサー自身は困惑しながら皮肉を溢す。誰だそれは、と。全くの別人と間違えているとしか思えない。なぜならアーサーは、そんな上等な人間ではなかった。ましてやヒーローだなんて、人違いであったとしても酷い誤解である。

 だが胡乱な気分のまま否定する気にもならなかった。勘違いを正してやる労を割き、時間を浪費するのは馬鹿らしい事だ。

 知りたい事を知れたのである。扶桑を連れての逃走劇、その勝利条件を定められた。扶桑という部品が生贄として機能するのは今日を含めて二日間、すなわち明後日まで逃げ切ればこちらの勝ち。なぜなら祭祀の主目的であるこの世とあの世の接続は、五十年周期で一度しか機会が訪れず、それがこの二日間であるらしいのだ。

 あの世とこの世。生前の物質世界と死後の幽世かくりよ。それが一つの線として重なる周期は限りなく短い。つまり、二日間逃げ切れば、扶桑をふざけた儀式に利用する意味がなくなる。あの侍達にいつ見つかるか不明である以上、遠くへ逃げるに限るだろう。アルドヘルムによる〈契約〉の縛りが効力を失い、あまつさえ真人の域に至っているアーサーの気力すら奪うこの土地に留まる意義はない。立ち去るのに躊躇いはなかった。


 いや――ひとつだけ、やる事がある。


 はたと思い至るものがあって、アーサーは考えを改めた。

 シャロウ。彼女の仇を、まだ討っていない。

 正直あの女の子に対する情はない。仇を討ってくれと言われた訳ではないし、報復を果たす義務があるでもない。

 しかし、軽はずみに誓ったとはいえ、約束は約束だ。途中で投げ出すなんて不義理な真似はしたくない。


 今の自分には、なんのしがらみもない。だから全てが私情だ。シャロウの仇討ちも、扶桑を手前勝手な情で救おうとしているのも、私情。そこに優劣はつけるべきではなく、順番は守らないといけない………いや、マーリエルやアレクシアの名前を出されて迷ったから、変に言い訳を並べただけか? 自分はこんなにも女々しい男だったのか?

 六年前のアーサーなら、迷わなかっただろう。選択肢の取捨選択を即決して、多少の義理は切り捨てたはずだ。シャロウとマーリエル達とでは、自分の中での重みが違う。ましてや扶桑の命まで絡むなら、迷う余地なくシャロウの仇討ちなんて打ち捨てて逃げていたはず。

 そうだ、迷う必要はない。ブレるな。愚かなのはいいが、情けない生き方はしたくない。

 ブルドと名付けられたあの獣は、今のアーサーにとってそこまでの強敵ではない。見つけ次第遊ばずにやれば間違いなく始末してしまえる。問題は、諸事情により魔力の出力を大きく制限している今のアーサーでは、多少時間を食ってしまう事。だが達成確率は十割と言って差し支えない。やると決めたのなら実行すればいい。


 迅速にブルドを殺し、扶桑を連れて逃げる。


 考慮すべきなのは、その後の事だ。

 扶桑を意味不明で怪しげな祭祀から助け出した後は、どのみち真人類側につかないといけない。一人で元の世界に帰る方法を探すのは不可能だろうから、帰り方を探しながらついでにマーリエル達に力を貸す事になる。取るべき方策はそれしかない、はずだ。

 だが………ここで扶桑を逃がすという事は、真人類側に大きな損害を与える事になるのではないか。その事が露見する可能性は高い。ほぼ間違いないだろう。あの朝孝や千景が生きて帰ればアーサーの存在が伝えられ、なんらかの手配がなされる事は充分に考えられる。

 扶桑の存在だって隠し通せるとも思えない。そんな甘い見立てを立てるべきじゃないだろう。よしんば隠し通せたとして、真人類側の戦力にアーサーひとりが加わっても誤差の範囲内に留まる。となればさほど重要視されず状況は何も変わらない。扶桑が視た未来は何も変わらないで、結果的に最悪の展開を招く公算が高いかもしれない。問題点は山積みだ。


「………これが、大人になるという事か?」


 肉体的な成長に伴い、思考する力が成熟し、状況を判断する能力が身に付く事で、向こう見ずに行動する事が難しくなる。大人になるというのがこういう事なら、子供のままでいたいと駄々をこねるダメな大人の気持ちも分かるというものだ。

 とはいえ、大人になったのは体だけである。六年間を空虚に消費しただけの、社会的経験値に乏しい自分が、胸を張って大人であるとは到底言えないだろう。中身は未だに子供のままだ。

 自嘲的な気持ちで呟きながら扶桑を見る。

 相変わらず何を考えているのかさっぱりな、茫洋とした表情だ。捉え所のない雰囲気は、先程アーサーのために死ぬとまで言った事を感じさせない。あたかも自分の生き死にへ、まるで関心がないかのようだ。深刻さがまるで無い。

 彼女の病的なまでに無垢な様を色で言い表すなら、白を通り越して透明といったところだろう。だから、アーサーは決めた。元々そのつもりだったが、彼女を死なせる気にはどうしてもならなかったから。

 何も問題ない、とは言わない。だが昔とは違う、アーサーは強くなった。マーリエルからの借り物の力を振りかざしていた時とは違う。なぜなら今のアーサーは真人に成っているのだ。


 ――いつの間に・・・・・? と、思考にノイズが奔った――


 至った境地は魔道第五位階、士道第六位階だ。しかし、魔術やら剣技やらを誰かしらから習える環境ではなかったから、全て独学で身に着けた。剣技をはじめとする白兵戦技能、魔術もまたそうだ。


 ――本当に・・・


 マーリエルの魔術を参考に、身体強化魔術〈新生nova〉や重力系魔術〈加重〉を習得し、独自の発想で式を編み、無気力ながら時間潰しのため試行錯誤を繰り返して、アーサー固有の魔術を四つ創り上げる事にも成功している。

 一つが〈偽体〉で、もう一つが〈幻術〉だ。千景や朝孝を出し抜く際にその二つを使用した。類似する魔術はあるかもしれないが、この二つは真正の真人にも通用する。残りの二つも十全に機能する事が期待できる。

 扶桑の手を取って、金属樹皮を有する巨木の傍まで寄って行った。鉄棍で根本の付近を軽く殴打し、地面に窪みを作るとそこに扶桑を座らせる。

 されるがまま地べたに座り込んだ女は、透明な眼差しでアーサーを見上げた。そんな彼女の目を見据えて、青年はあくまで優しげに言い含める。


「すぐに戻る」

「………どこに、行くの?」

「君には意味が分からないだろうが、順番は守るものだろう? なに、心配は要らない。君が大人しくしてくれてさえいれば、これは早々見破られる事はないよ」


 言いつつ、魔力炉心内部で編んでいた式を現実世界に投影する。手の中に顕したのは一枚の赤い掛布テクスチャだ。それを扶桑の頭から被せると、たちまち周囲の風景と同化して彼女の姿が見えなくなる。

 アーサーの〈幻術〉の正体がこれだ。光学迷彩である。一定量の魔力を遮断し、気配を断つ事が出来る。また任意の風景に溶け込ませる事も可能だ。アーサーはこれを、常に自身の周囲百メートル以内に、テント状にして展開している。故に遠方からは魔力波長や気配を読み取る事はできない。いわば隠密のための魔術だった。


 とはいえ、これは魔術。術者であるアーサーの目を欺く事はできない。故に〈幻術〉に覆われた扶桑の姿をはっきりと見て取れる。

 意識して彼女へ微笑みかけ、くるりと踵を返す。アーサーが離れてから二時間は〈幻術〉の効力は続く。それまでの間にブルドの痕跡を探し、一度ここに戻ってから〈幻術〉を再行使し、その後ブルドを仕留めてから扶桑を連れてカンサスの樹海から立ち去るつもりだ。

 だが、〈幻術〉の掛布に覆われた扶桑の顔色が、突如鬼気迫るものに変わる。扶桑が手を伸ばして、鎧の下に着込んでいるサー・コートの裾を掴んだ。アーサーは無体に振り払いはせず、苦笑しながら横目に彼女を一瞥する。


「なんだ? 何か不安でも――ん、フソウ………?」

ダメ・・動かないで・・・・・


 御子の目が再び虹色に煌めいている。しかしその瞳には、明確な怯えが秘められていた。

 囁きは小さく。自分の傍に片膝をついたアーサーが、顔を覗き込んで来るなり口に手の平を押し当ててきた。


 その瞬間だった。


 何かが………天高き位相から、見下ろしてくる、視線を感じ取る。


 落下してくる天体の如き重い目線。全身の肌が粟立つ。脳裏に去来するのは、一対の黄金瞳のイメージ。金縛りに遭ったように動けなくなった。動いてはいけない気がした。

 まるで空が落ちてきたかのような、暴力的なまでの存在感がこの体に圧しかかって来ているかのようだ。

 それは規格の規模が異なる上位者の視線。物理的な圧力すら伴うそれに、アーサーの体が地面にめり込み、奈落の底まで墜ちていくかのようで。噴出する冷や汗で総身が、滝に打たれたかのように濡れていく。


 五体の隅々まで切り刻まれ、中身を覗かれているかのようだ。逃げ場のない断崖で、草食動物が天敵の肉食動物に睨みつけられた状況に似ている。

 指先一つ、ぴくりとも動かせられない。

 何秒、何分、何時間もそうして沈黙し、停止していた気がした。

 唐突に訪れた極限の戦慄で、永遠に等しい一瞬が過ぎ去っていく。

 なんの脈絡もなく突然飛来した重圧の目。それはやはり、向けられた時と同じようにいきなり消え去った。


「――今のは?」


 いつまでそうしていたのか、まるで分からない。本能的な絶望感による金縛りが解けて、カラカラに乾いた口の中に唾液を満たし、ゆっくりと扶桑に問いかける。

 声は震えていた。体も、また。だが恥ずかしいとも思わない。圧倒的という表現すら生ぬるい、桁外れの力の差を感じたのだ。それはまだ真人でもなかった頃のアーサーが、発掘闘技都市でアレクシアやマーリエルから感じていたものよりも、遥かに上回る格の違い。

 怯えすら芽生えない。どうしようもないモノへ人が懐くのは諦念だ。何をしたって意味がないと感じてしまった。だから、自分でも意外なほど冷静に、何かを知っているらしい扶桑へ問いを投げられたのだ。


 瞳の御子は、薄く笑む。


魔神・・。魔族達の信奉する、神。魔王・・とも言われる、バケモノ――その魂が、貴方を見つけた」

「………なんだ、それは? なんだって私を………?」

「それは、分からない。魔王はとっくの昔に死んでるけど………あの世とこの世の境が、特に曖昧になる時期だから、貴方の存在に気付いちゃったんだと思う。私達の神様が、特別深く愛してる貴方に」

「………すまないが、君が何を言っているのかさっぱりだ。ゆっくり説明してもらいたい所だが………悠長にお喋りしている場合でもないらしい」


 アーサーは震える膝を叩いて、立ち上がる。

 扶桑の言うところの魔王様は、随分と余計なちょっかいを掛けてくれたらしい。

 二人の侍の元から逃走してから、常時自身の百メートル範囲を包んでいた〈幻術〉のベールを、根こそぎ剥ぎ取っていってしまったのだ。

 おかげ様でアーサーと扶桑の気配が感知されてしまった。乾いた笑みを口元に刷き、空元気に類した気迫を込めて奮起して嘯く。


「――どうやらお客様がお越しのようだ」


 招かれざる客という奴である。

 手元に残っている唯一の武装、灰色の鉄棍を握り締め扶桑を背中に庇い、凍りついた湖の畔にやってきた集団と対峙する。

 樹海の巨木、その隙間を縫うようにして、続々と駆けつけてくる人影。それは総数二十を数えた。


 アーサーは首に巻いている魔力抑制のチョーカーに意識を傾けつつ、げんなりとしながら呟いた。


「コガラが言っていた団体さんか………嫌になるね、まったく」






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