停滞は赦さない、僕は駆け続ける







 古代ギリシャの詩人ホーメロスに曰く『悪い行ないは長く続かない』という。即ち、『此の世に悪の栄えた試し無し』と説いているのだ。

 しかし政治用語としての悪はともかく、倫理としての悪という観点で言えば、この世界でも元の世界でも、悪は栄えるものなのである。

 正直者は馬鹿を見ると日本では言うらしいが、まさにその通り。故にこそ、栄えるために悪を成す。この世界で人は、敵対者の悪と自身の悪の強大さを競い、敵対者の悪へ打ち勝たんとしているのだ。


 そんな世界で、せめて自分だけは善で在ろうとは――僕には思えない。







  †  †  †  †  †  †  †  †







 ズチャリ、と。ドブネズミを踏み潰したような感触が足の裏から伝ってくる。

 肉の地面を踏み締める度に、まるで腐敗した遺体を踏みつけているかのような冒涜的な感覚を、剥き出しの神経に擦り込まれるかの如く刻み込まれた。

 この地面の感触を不快に感じてしまうのは、胸糞の悪い話を知ってしまったからだ。この世界についての見識を深めようとする学習活動は、決して誤りではないのは分かっている。しかしこの事・・・については余り知りたくはなかったというのが正直なところである。


 僕は眉を顰めて、悍ましい人類の所業を思い返した。


 この生体型ダンジョン――正式名称を“アルベドの褥”は、その構造を“迷宮”と冠されるように複雑怪奇なものだ。


 過去から現在に至るまでに確認された三体の超大型モンスター、ルベド・アルベド・ニグレド。それぞれが百mを優に越す巨躯を誇り、中でもアルベドは全長五百mにも及ぶ規格外の怪物だったという。

 本体は三体とも討伐されたが、その骸は五体に散逸し別個の大怪異として成立した。そうして改めて討伐されたアルベドの胴体が、グラスゴーフの闘技場の元として築かれているのだ。つまるところこのダンジョンの核とは、アルベドの子宮なのである。

 腸の中を闘技場の登録者が闊歩し、数多の魔物を産み出したアルベドの仔を資源として採取する。それがエディンバーフ伯爵領の産業の根幹に置かれたシステムだった。


 ――つまりアルベドは我が仔を守るために、はらわたという名の通路を変動させることで迷宮にしているわけだ。侵入者を迷わせ、弱らせるのが迷宮化の目的……自我もないだろうに、本能だけで体外に産み出せていない子供を守ろうと必死なんだよ。


 そう思えば、僕の心境は複雑なものとなる。良心が痛んだ。我が子を守ろうとする行為は尊く、僕を守るために死んだ母アデラインを思い出させられてしまう。

 だがそれだけだ。

 良心は痛む、知りたくはなかった。――しかし相手は人間ではない。人に仇なす不倶戴天の魔物。僕が戦火より遠い立ち位置にいたら、積極的に斬り捨てることはしないだろうが……生憎と僕は強制されてこの場にいる。

 魔物は殺す。自分が生きるために。何も迷う必要はないのだ、殺して、殺して、ひたすらに殺し尽くして強くなるための糧とする。例え魔物が人間並みの知性を有していようと躊躇うはずもない。


 ――魔物を殺したら『経験値』が入ってレベルアップ。そんなイージーモードで強くなれたらどんなに楽か。


 我ながらつまらない諧謔を漏らし、失笑する。くだらない妄想だ。

 僕は全身甲冑を装備するのをやめ、軽装の鎧兜で身を固めていた。硬い防具で身を守らずとも、防禦の技術が上がったことで動作を阻害する甲冑を無用な物にできたのだ。

 武器も長剣ではなく、短槍をメインに据えている。本音を言えば大剣を主兵装にしたいところだが、その前に他の武具の扱い方を齧っておきたかったから後回しだ。


 ――この一週間で分かったことがある。


 まずこの内臓部第一層には、平凡で平均的な魔物である『ゴブリン』しかいない。通常は、という注釈が付くが。

 そのゴブリンの習性、もしくは癖とも言えるものがあるのを把握できた。人間と同じである。

 不用心に近づけば警戒される。攻撃か、後退かの行動を取るのだ。

 距離を離して魔法で攻撃しようとすると、ゴブリンから襲い掛かってくる。ダンジョンの中は魔物にとって本陣。故に退路はなく、また憎悪の対象である人間がいるのだから交戦は避けられないため、これは他の魔物にも共通しているはずだ。

 即ち後退したのならなんらかの罠がある可能性が高い。後退しないのであれば、その場で戦えばいいだけの話である。


 今、僕の前にはそのゴブリンがいた。一体だ。僕は短槍を両手に、穂先を地面に向けた下段の構えで、小柄なゴブリンににじり寄っていく。


 他にゴブリンは三体いたが、既に仕留めた。その骸から魔石を回収してもいる。残りの一体は逃げようとはせず、すっかり見慣れた憤怒の形相で僕を睨んでいた。……逃げないのであれば、殺すしかない。馬鹿な奴、と無感動に呟いた。

 薄暗い通路の中、足場となる地面が蠢いて、僕の態勢を崩そうとしている。ゴブリンを守ろうとするダンジョンの意思だ。やり辛くはあるが、さほど気にはならない。もう慣れた。

 しかし慣れたとは言っても常に変化し続ける地形で、体軸を揺らさずに一定に保つのは簡単なことじゃない。揺れない地面の上で完璧に態勢を保持できる人を達人と呼ぶ、僕はその達人の域に全く手が届いていないのに、脈動する地面の上で真っ直ぐに立ち続けられるわけがない。故に此処では、どんなに動いても転倒しないでいられれば上等なのだ。


 ゴブリンが目を血走らせ、鋼の剣を手に間合いを見計らっている。僕の短槍の穂先には、彼の仲間の血がこびりついていた。なんとしてもお前だけは殺す、例え刺し違えてでも――そんな強い殺意を感じる。本当に知性が高いからこその感情の強さが彼らにもあった。


 が、僕はそんなものには頓着せず、冷静にゴブリンを見据えた。ゴブリンは緑の体の上に簡素な鎧を纏い、兜も被っている。武器はナマクラだが、殺傷力は充分だ。魔法は使えないはずだが、その身体能力は僕が体を強化しても僅かに劣る程度。油断すれば殺されるのはこちらも同じだ。

 しかし腕の長さ、得物の長さ、体の大きさ、どれも僕の方が上である。慎重さと機を見て動く果断さを忘れなければ、安定して勝てる相手……そしてゴブリンは人体構造が人間に似ている。人体と同じ急所を突けば、場所によっては即死させることも可能だ。


 僕は短槍を下段に構えたまま、ゴブリンを間合いに捉える。瞬間、ゴブリンは姿勢を低くして飛び込んできた。八歳の子供の体格に大人の頭といった姿故に、そうすればこちらが迎撃し辛いのだと理解している動きだ。しかし自分よりも小さな魔物の攻撃を捌くのにも慣れている。何度も似た攻撃をゴブリンからされたことがあるからだ。僕は、短槍を地面に浅く突き立てる。肉の地面故に微かに鮮血が溢れ、地面を削りながらゴブリンを掬い上げるようにして短槍を跳ね上げた。

 ゴブリンは両手で構えた剣で短槍を受け、それを横に逸らしながら踏み込んでくる。僕は慌てず半歩下がり、ゴブリンが足を狙って斬り掛かってくるのを足捌きだけで躱した。剣が空振ると、ゴブリンはそのまま僕の背後に回り込もうとしてくる。その背中に引き寄せた短槍の石突を叩きつけ、ゴブリンを転倒させた。見え透いてるんだ、と内心吐き捨てる。


 生き物の常として、倒されれば起き上がろうとするものだ。倒れたままでは満足な反撃もままならない。ゴブリンが地面を転がりながら立ち上がるのに対して、短槍の石突で背中を殴打しながら振り返っていた僕は、立ち上がり様の隙を獲りゴブリンの下顎と喉の間に穂先を突き込んだ。

 細くやや長めの穂先は頚椎を抉り、喉の中心から小指の先ほどずらした地点に突き刺さる。下に伸ばした腕で短槍を上向きの角度で突き上げたのだ。そこから脳までにあるのは頭蓋骨のみ――刺突に威力があれば貫通させられる。

 脳まで届いた穂先は、人間のそれよりやや小さい脳を刳り貫き運動中枢を破壊する。実際に戦闘を行なってから約三秒、最小の労力で効率的な戦果を得る。ゴブリンは斃れ即死していた。うつ伏せに倒れたゴブリンの腹に足先を入れ、軽く蹴って仰向けにすると、その鎧を剥ぎ取り胸に手刀を突き込む。魔石は大体が胴の中心にあるのだ。


 ――無色石か。


 ピンポン玉サイズである。小物だ。僕は嘆息し、透明な魔石を腰に吊るしている布袋へ詰め込んだ。これで八つ、布袋はそろそろ一杯になる。

 ここまでだ。僕は魔石の発掘を打ち切ることにした。単独で進行するのはよろしくない。荷物持ちがいないと一度に回収できる魔石の数にも限りがあるから、というのもある。しかしそれ以上に、知識の上では知っていても初見の魔物に対しては不慮の事態が有り得るからだ。

 それに、余り長居をすると、迷宮が侵入者を迷わせるべく通路を変動させてしまい、元来た道が分からなくなってしまう。そのような事態は避けねばならなかった。リスクを回避するのは当然のことだろう。……決して一人だから心細いわけではない。


 ゴブリンの骸が溶けて、肉の地面に吸われるようにして消えていく。浴びていた返り血も、蒸気となって蒸発していった。汚れが勝手になくなってくれるのは非常に衛生的でありがたいことである。

 僕は踵を返して元来た道に戻り、酸素カプセルじみた匣に歩み寄った。

 迷宮が匣――“迷宮乗降筐体カステン・ライター”――を取り込もうとしているのか、盛り上がった肉の地面が白い筐体を覆い尽くそうとしていた。僕は嘆息して長剣を抜き、肉の触手を切り払う。一々血を噴き出すのは勘弁願いたいところだ。蒸発すると分かっていても、やはり返り血を浴びて良い気はしない。


 僕は“迷宮乗降筐体カステン・ライター”に入りボタンを押す。するとドアが閉ざされて、上に吸い上げられるような感覚と共に迷宮から闘技場のフロントに移動した。

 元の世界のエレベーターよりも遥かに上昇速度は速いのに、それによる負荷を全く感じないのは魔導文明の方が技術力が優れているからなのかもしれない。ドアが開かれると、見慣れてしまった受付が目に映った。そちらに移動し、僕は布袋を受付に放り投げる。


「無色石五つ、赤色石二つ、水色石一つ。計八百万円相当です。武具防具の使用料を差し引いて、七百五十万円が“コールマン”の手取りとなります。残り九億六千七百万円で登録解除申請が可能となりますので、これからもより良質な資源の発掘をしてくださることをわたくしどもは期待しております」


 受付の男性からの伝達を無視して、自分の部屋に向かう。そうして百十一号室の前まで来ると、部屋の中から微かにピアノの音色が聞こえてきた。

 ドアノブに伸ばしていた手を止める。ベートーヴェンのソナタ、第十四番の“月光”の演奏だ。しかし音色は途切れ途切れで、まだまだ拙い。当たり前だが練習曲としては、難易度が高いのだろう。僕は暫くそれを聴いた後、静かに部屋の中に入っていった。


「……どうだった?」


 ピアノの前に座っていたマリアが、戻ってきた僕に対してそう訊ねてくる。


「まだまだ、といったところかな。要練習だぁね、私も君も」


 マリアのピアノも、僕の武力も。


 枯れている声で話すと意思疎通に難儀するので、マーリンを通して発声している。変声期に入る前の僕の声だ。その僕の返答に少女はニコリともしないで肩を竦める。

 彼女としては予想通りの答えだったのだろう。「アビー、片付け頼むよ」と言って身につけたままだった鎧兜、剣と短槍を人工精霊に転送させる。黒い戦闘服姿に戻るが、タイツじみたその格好にも抵抗がなくなってしまった自分が悲しい。

 汚れはなくとも汗は掻いた。だからそのままシャワールームに入り汗を洗い流した。

 僕は頭をタオルで拭きながらリビングに戻る。その足で机に向かうと、そのまま椅子に腰掛けてまたアビーに頼んだ。訓練、実戦、座学。そればかりの無味乾燥とした日々に、心が乾きそうではあるけど。必要なことだ、と思う。努力は好きでも嫌いでもないが、必要とあらば積み上げるのは苦にならない。

 万年筆とノート、歴史の教科書をアビーに転送してもらい、勉強をする。マリアはまたピアノの鍵盤に指を這わせ、ゆっくりと“月光”の反復練習をはじめた。


「成果を教えて」

『ゴブリン八体さね。命を懸けているにしては、些か不本意ではあるよ』

「そ。……口調、戻ってるわよ」

『む』


 指摘されて閉口する。

 雛鳥の刷り込みみたいなものなのか、元の世界の友人コウジロウから習った日本語が中々抜けない。しかし、それはいいのだ。自分の中で切り替えていけばいい。

 僕は今現在、マリアから日本語での普通の話し方というものを習っている最中だ。これが意外と難しい。一度擦り込まれたものに上書きするのは難儀するものだから。


「一人でゴブリンを八体狩れるなら、そろそろ次のステップに行っていいと思うわよ」


 こともなげにマリアはそう言う。僕は教科書に目を落としながら、口調を意識して慎重に言葉を選ぶ。


『私としては、そうしてもいいとは思う。でも流石に一人だとリスクがデカイ。やっぱり、ディビットを連れていきたいんだ』


 今回、ディビットとマリアを連れずに迷宮に挑んだのは、マリアから一人で行けと言われたからだ。彼女の指示に全面的に従うつもりはないが、それも必要な経験だと思い単独でのダンジョンアタックに挑戦したまでである。

 しかしマリアは言った。ぎこちなさの抜けない演奏を続けて。


「やめておいた方が良いわ」

『なぜ?』

「彼、無能だもの」

『……』

「無能なだけなら、まだ良いのだけど。無能な上に馬鹿で、感情的で、計画性と努力が足りないのはいただけないわ。人付き合いに口出しするのは余計なお世話かもしれないけど、友達は選んだほうが良いわよ」

『……』


 この世界の自分はどうだか知らないが、僕自身は別にディビットを友人だとは思っていなかった。だがら別にムッとすることはない。ないが……本当に余計なお世話だ。

 マリアはディビットを嫌っているようだったから、わざと遠ざけるようにしているのかとも邪推してしまうが……マリアはそんな人間ではないと思う。本心から言っているのだろう。

 だが僕の反応が不服げに見えたのか、マリアはピアノから指を離し、視線をこちらに向けてくる。


「貴方は私に、強くしてくれと頼んだ。そして私はそれを了承し、最大効率でアーサーが強くなるために協力している。いい? 強くなりたいなら、同じぐらい向上心の強い人としか付き合っちゃ駄目なの。なんでか分かる?」

『……徒党を組めば、仲間の歩みに合わせないといけないから?』

「そうよ。そうでないと仲間内で軋轢が生じるわ。力量不足の仲間なんて足手まといにしかならない。そんなお荷物を抱えたまま強くなれるほど、貴方は規格外なのかしら」

『……』

「“天稟増幅グロウス・ブーステッド”があっても、今のアーサーは掃いて捨てるほどいる程度の力しかないのよ。分際を弁えないと駄目。己を知り、敵を知らないと何事も成せない。この場合の敵は、無能な味方も含まれるわ」


 反論しようかと思ったが、僕は口を噤んだ。マリアは軍人であり、その道のプロでもある。彼女がそう言うのなら、それが正しいのだろう。

 それに僕の中ではディビットは、マリアに意見してまで仲間にしておきたいと思えるほど重い存在ではない。彼女の言の通り足手まといになるのだとしたら、切り捨ててしまっても構わないというのが正直なところである。

 ディビットはそれなりに訓練し、それなりに戦おうとしているが……才能は平凡、強くなろうとする意志も弱く、現在の状況を打破するための能力にも欠けていた。


「内臓部第二層に進むのに仲間が欲しいなら受付に言いなさい。申請したらパーティーメンバーを斡旋してくれるはずよ」

『……そうする。直接話に行った方が良いのかい?』

「アビーにでも命令すればいいわ」

『分かった。そういうわけだから、頼むよアビー』


 『了解致しました』と、ふわふわと漂っていたアビーが応答する。


「それから……今回は私の庇護なしでダンジョンに行ってもらったけど、何か思うことはあった?」


 なんだか筆を握っていられるモチベーションをなくしてしまったので、嘆息してノートと教科書を閉じる。万年筆を机の上に放って、僕はマリアの質問の意図を推し量る。

 思うことがあったかと言われれば、ある。あるが、取り立てて口にするべき問題を感じたわけでもない。


『そうだね。特にない、というのが正直なところさ。強いて言えば一人で行った場合、得られる魔石が少なくなってしまうから荷物持ちが欲しいと思ったぐらいかな』

「ふぅん……? ならいいけど……」

『……?』


 歯の間にものが挟まったような反応に眉を顰める。

 怪訝そうな僕の目に、マリアは視線を逸らした。そうすると会話が途切れるが、いつも仲良くお喋りをしているわけではない。

 マリアがピアノの練習を再開する。僕は席を立ち、壁に立てかけていたヴァイオリンを手に取った。

 父は今際の際に、続けてくれと言った。ヴァイオリンを。或いは音楽を。なら――まあ、やってもいい。時間の無駄だろうが、せめて父の最期の言葉だけは守ろうと思う。


 マリアの演奏に合わせ、ヴァイオリンを弾く。なだらかな旋律が奏でられるのに、心が凪いでいくのが分かった。


「ね、アーサー」

『なに?』


 何事かを思い出したように、マリアは言った。どこか気まずげで、申し訳なさそうではあるのに、常と変わらない淡々とした調子で。


「私、もう貴方とダンジョンに行くことはないから」

『……保護者を降りるってことかな』


 反駁は、我ながら平静に保てた。

 しかしその裏で、動揺が全くなかったと言えば嘘になる。僕はできるだけ冷静さを取り繕い見栄を保った。それしかできることがない。


「ええ。別の仕事を私に任せたいって、伯爵閣下のお達しよ。元々義理でアーサーに付き合って上げていたけど、仕事を優先させてもらうわ。悪く思わないでね」

『鍛錬にも、付き合ってくれないのか』

「カリキュラムは組んでアビーに伝えておくわ。それから時間が空いたら顔を出すぐらいはしてあげる。ごめんなさい」

『……別にいいさ。マリアがいなくなるのは寂しくはあるけど、一人では何もできないと思われたくないからね。たまにピアノの面倒を見に来てくれたら、今度は別の曲を教えてあげるよ』


 彼女は確か、半年間の長期休暇中だったはずだ。それが僕の異質特性の研究と、魔族か否かの監視の任務に就けられたというのに、その上さらに別の仕事を回されるなんて……とんだブラック企業である。僕ならそんな企業は御免被る。未成年なのによくやるよ、と口の中で囁いた。とても真似できない。する気もない。

 しかし、マリアがいなくなるのは……正直困る。僕の安全を担保してくれる存在が傍から離れるのなら、これまで以上に慎重にならないといけない。確かにディビットを守りながら戦えるだけの力がない以上、彼と行動を共にするリスクは犯すべきではないだろう。


 だがその一方で、気は楽になる。如何に友人だとはいえ異性なのだから、四六時中マリアと一緒だったせいで気が磨り減る思いだったから。一人の時間ができるのは、個人的に大助かりではある。悪いことばかりでもない。そう自分に言い聞かせた。


「……じゃあ、私は行くわ。またね、アーサー」

『ああ、また』


 一曲を弾き終わると、マリアはピアノから離れてひらりと手を振ってきた。手荷物はない。必要な物はいつもアビーに転送して貰っていたからだ。僕はさっぱりとした足取りで去っていくマリアに言葉を掛けることもなく、軽く手を振るだけに留めた。

 ぱたん、とドアが閉まる。本当に呆気なく、唐突に去っていったマリアに思うところがないでもないが、そんなものだろうと割り切る。どんな仕事を振られたのか訊くだけ訊けばよかったなと、愚にもつかない空言を胸中で弄ぶだけである。


 マリアがいなくなった途端、伽藍と部屋が広くなったような気がして一抹の寂しさのようなものを感じなくもなかったが。ひとまず僕は、ヴァイオリンを仕舞うと椅子に座る。鍛錬を積む気にはならず、他にすることもないから座学に励もうと思ったのだ。

 しかしどうにも気分が乗らない。万年筆の頭でこめかみを掻いて席を離れる。再び開いたばかりの教科書に万年筆を放り、僕はベッドの上に倒れ込んだ。細長い吐息をゆっくりと口から吐き出し天井を見上げる。


 何かしよう。剣、槍、グレイヴの訓練。体の錬成。或いは迷宮内に発生する魔物について、机上の知識を学習するか。ディビットか、他の知り合いと連絡を取り合うという選択肢もある。

 が、それらをしようとする意欲は、まるっと抜け落ちてしまった。


『マーリン』

『なんだい、マイ・マスター?』


 ポツリと、デバイスに呼びかける。

 マリアがいなくなった途端、打てば響く返事が返ってきた。彼女がいると一言も話さない相棒の、男とも女とも取れる声に僕は問いを投げる。


『……私が士道、魔道の概念位階に至るのに後どれほど掛かる?』


 頑張れば努力は実を結ぶ――なんて夢は見ていない。だが求めているのは力だ。この糞のような現実の中、生き残れる力の水準はそこだと思っている。なら夢は見ずとも、努力が実を結ぶ保証を欲するのは当然の心理であるはずだ。

 本音を言えば概念位階に達するまで、迷宮の内臓部第二層に進みたくはない。しかし効率よくゴブリンを狩れるようにはなったが、自分が明確に強くなっているという実感がなかった。今の自分が内臓部第二層に挑戦してもいいのか、不安なのだ。マーリンはそんな僕を揶揄する。


『なんだいマスター。あの娘がいなくなった途端、急に弱気になったね』

『……』


 眉を顰める。その指摘は僕の自尊心をいたく傷つけた。

 しかめっ面になるのを堪え切れない。マーリンは快活に笑いながら、僕が何か反論を口にする前に告げてくる。


『ああ、概念位階に到れるのはいつ頃になるかだったね。順当に言えば、何ヶ月か先になるんじゃない?』

『……』

『ピンからキリまでいる天才って人種の……多分足元には及ぶ程度の成長速度だ。才能如何で、生涯を掛けても辿り着けない人間もいるんだから気落ちすることはないよ』

『……私は早く強くなりたい。けど……焦るだけ無駄、か』


 “天稟増幅グロウス・ブーステッド”があっても、天才の足元に及ぶ程度の才覚だと言われて皮肉めいた気持ちになる。元の才能を二乗化してやっとそれなら、素の自分は無能も良いところではないか。

 はぁ、と鉛色の息を吐く。強くなるのに近道なんてないと分かってはいても、今のような生活を続けないといけないのだと思うと気も滅入るというもの。僕はベッドに体が沈む感覚に身を任せて目を閉じた。とにかく金を稼ぎ、登録解除申請とやらの権利を手に入れねばならないと思った。何をするにしても、今の環境はよろしくない。手に入る情報が何もないのでは、何も成せないのと同じだ。ダンクワースを殺すには強くなるのは最低条件で、あらゆる行動に制限が掛けられている現在の環境は劣悪と言える。


 少し仮眠を取ろう。そしてその後にまた迷宮に行き、ゴブリンを狩ろうと思う。今度は魔法も使い、全力でやれば自分がどれほどのものなのか、最弱の魔物を相手に確かめようと考えた。

 眠る時、頭の中は空になる。次第に意識は遠退いて、微睡みの裡に落ちていった。そんな僕に――アビーが報告してくる。


『“コールマン”の申請が受理されました。現在一般公募枠から二名の登録者のご紹介が可能となっております』

「ん……」

小人族ドワーフのエイリーク、人間族ヒューマンのアレクシス・ヴイッテンバッハ。以上二名にパーティー結成の申請を致しますか?』

「ああ……」


 半分寝ていて、曖昧に返す。ほとんど無意識の返答だったが――それは、僕にとって最良の出会いの一つを手繰り寄せる。

 無知なまま。無力なまま。僕は、鮮烈な紅蓮の佳人と出会うのだ。





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