少年は思い、父も思う
だけど
何より心が弱くて、冷静でいることが愚かしいと誤解したことが、何よりも度し難い愚かしさで――いずれにしろ、後悔は先に立たない。目を覚ました僕は、とっくに冷静ではなくなっていたのだから。
† † † † † † † †
夢の中で、甲冑の男は見知った人間ではなく、鋼で構成された恐ろしい怪物だった。
血の通わない鋼鉄の怪物が、剣を振りかぶってくる。少年は金縛りに遭ったように身動きができない。
やめろ、やめてくれ。叫ぼうとしても声が出なかった。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……! 泣いても喚いても、怪物は無慈悲にも鋼の剣を振り下ろす。断頭台にかけられた罪人のように、少年はそれを見ているしかなかった。
右肩から先、上腕部に刃が食い込む。それはなんの抵抗もないように皮膚を裂き、肉に切り、骨を断った。切り離された右腕が重力の鎖に引かれ、地面に落ちる。呆気に取られる間抜けな少年に、怪物が突進してきた。体当たりされ、無様に転んだ少年に、怪物は鋼の切っ先を向けて――
「――っ!? う、わぁあああ!?」
跳ね起きた。咄嗟に魔法を放とうとする。殺される、殺されたくない、死にたくない、とにかくその一心だった。
しかし魔力炉心の内部で構築しようとしていた術式は成立しなかった。突如、組み上げられた魔力の結合がほつれたのだ。
「"
インペリウム。その発音が鼓膜を打ち、振動した魔力が脳に届いて、魔力炉心を強制的に停止させたのである。
力ある言葉が少年を――僕を射止める。荒れ狂っていた心の海が、一瞬にして凪いだ。
「"落ち着いて"……もう試合は終わってるのよ」
目の前にいたのは、マリアだった。しかしマリアの頭の位置はずっと下にある。
え、と阿呆のように呟いて、左右を見渡した。
僕がいたのは自分の部屋だった。見慣れてしまった、無機的に何もない部屋……闘技場ではない。敵は、相手は……マイケルはいない。そのことにホッと一息を吐いて、しかし僕は我に返ると咄嗟に右肩に触れた。視線も向ける。
空を切るはずだった左手が――腕に、触れた。右腕に。僕は目を丸くする。呆然とした。
「う、腕が……ある……?」
「くっつけたのよ。優秀な医療班がいるって、前に言ってたわよね? 問題なく動くでしょう。後遺症もないはずよ」
「……」
そんなバカなと腕を動かすと、上下左右に普通に動いた。痛みもない。指先まで意のままに動く。
綺麗に切断されてしまった腕が、こうも簡単にくっついてしまうなんて……。途方もない安堵と、それによる虚脱感で全身から力が抜ける。ベッドの上に立ってしまっている自分に気づき、その場に座り込んだ。
無意識に右肩を抱きながら、僕は俯く。言葉が出てこない。沈黙すると、マリアも黙った。
固い静寂に包まれる。僕はのろのろと首を巡らし、僕の前に立ち続けるマリアを上目遣いで見た。
「……」
「……何?」
「いや……私はあれから……違う、なんだろう……聞きたいのは……」
「試合なら反則で貴方の負けよ」
負け。それも反則で。そう言われても、ショックはなかった。ピンとこなかったのだ。聞きたかったことではあるが、そうでもないような気もする。
勝っても負けても、どうだっていいという気分だった。そんなことよりも、五体満足でここにいられている事実にホッとしている。
首を上げ続ける気力もなく、マリアから視線を切って俯いた。床を眺める。そんな僕に彼女は何を思ったのか、淡々と説明してくれた。
「貴方が右腕を落とされた後、連発した魔法の一発目でマイケルは気絶したわ。二発目で重傷。三発目で瀕死。死ななかったのは幸運ね。そこでアルトリウスも
「……」
「マイケルは全治二週間。一日経った今も意識は戻ってないわ。貴方は貴方で、出血多量の上にマインドダウンなんて起こすものだから、下手したら腕どころじゃなくて死ぬかもしれなかったのよ」
「……そう」
瀕死からでも、たった二週間で完治するのか、とか。僕は一日も眠り続けていたのか、とか。気にすることは沢山あるはずなのに、特に何も聞く気にはなれなかった。
荒れ狂っていた精神状態を、一気に鎮静された反動だろうか? マリアは嘆息し、腰に手を当てた。
「……今、私が使ったのは第五位階魔術よ。名前通り相手を支配する効果があるの。これは主に相手の魔力を封じたり、錯乱してる人に使って落ち着かせたり、その逆にも使えるわ。勿論術式の影響下にある者を意のままに操れたりもする。けど魔術にカテゴライズされてはいるけど、これは抗魔力と意思の強さ次第で誰でも簡単に弾けるわ。沈静化の効果が要らないなら弾いてもいいわよ。それと一つ訊くわ。貴方に支給したデバイスだけど、何かおかしなところは……って、聞いてないみたいね」
「あ……すまない。少し考え事を……」
「すぐにバレる嘘は吐かないで。頭が空っぽになっちゃってるんでしょう? ごめんなさいね、変に暴れられても困るからつい、咄嗟に
「多分なってる。けれど別にいいさ、気にしてはいないよ」
本当に、気にしていない。
「なあ、マリア」
「……貴方に負荷を掛けてしまった手前、訂正するのは気が引けるけど、マーリエルかオストーラヴァって呼んで。前も言ったけど気安すぎるわ」
「ん……そうか。そうだったね……」
「……」
そうだった。彼女は僕の知ってるマリアじゃないんだった。
彼女は"マリア"じゃない。マーリエル・ベレスフォードじゃなくて、マーリエル・オストーラヴァだ。王国軍レーヴェルス空上本部航空第一部隊所属の、魔導騎士中尉。
なんで間違えたんだろう、僕は。深く嘆息する。もどかしそうに少女は、今度は腕組をした。
「言いたいことがあるならはっきりして。途中でだれてないで」
「うん。……マーリエル」
「何?」
「悪いんだけど、さ。暫く……一人にしてくれないかい?」
無性に一人になりたかったのだ。彼女の存在を、どうにも煩わしく感じてしまっている。
言われたマーリエルはジッと僕を見て、やれやれとでも言うように首を左右に振った。
「ダメよ。私は貴方の監視員で、研究要員でもあるんだから」
「……」
「……って本当なら言うところだけど、いいわ。アルトリウスが寝てる間に割と調査は進んだから。だから、そうね……半日空けてあげる。仮想空間のテクスチャも貼らないで暴れたりしないでね。問題があれば鎮圧しに来ないといけないから」
「……」
ついには無反応になった相手に、マーリエルは肩を竦めて踵を返した。
遊びのない性格が滲むような、きびきびとした所作でマーリエルは立ち去っていく。扉が開き、閉められる音がした。
無音。後には何もない。沈黙だけが残されている。そんな静寂の中、僕は右腕を上げ、その掌に視線を落とした。
――上手くやれるはずだった。
作戦は最初の槍の投擲からの雷撃、炎の放射、短槍の刺突、蹴撃まで決めていた通りに嵌まったのだ。こうするだろう、こうするしかないはずだと予測して。
相手が素人だと仮定して、そうでなかったら敗北しかないと割り切って。実際に相手が素人だったから、決めていた通りに動けていれば勝てたはずなのだ。腕を落とされることもなかった。
あそこで敵を蹴り飛ばして間合いを稼いだ後に、残りの魔力を一割だけ残して魔法の駄目押しをする。仮になんとか立ち上がってきたとしても、虫の息だろう。鞘をつけたままの剣で殴打すれば戦闘不能にできたはずだ。
もちろん想定通りに進むとも限らなかった。案外彼には何か隠し球があって、それで虚を突かれないとも言えない。だけどそんなものがあったらもう使っていただろう。使わなかったということは、そんなものはなかったということ。……マーリンの立てた作戦通りにいけたということだ。
勝てた試合だった。勝利に拘っていたわけではない。けれど、あそこまで痛くて怖い思いはしなくて済んだはずなのである。僕が、相手の顔を見てしまったからって……相手がマイケルだったからって、躊躇ったりしなければ。僕が勝てた。勝てたのだ。
「……次も、ある」
日本語で呟く。
そう、これで終わりなんかじゃない。終わってはくれない。無数にあるだろう試合の、実戦の、最初の一つでしかないのだ。
僕はそれに躓いた。戦績が何に影響するのかは知らない。知る必要はない。だけど"次"があるということは、また同じ目に遭う可能性は充分に有り得るということ。いや、もっと酷い目に遭うかもしれない。
それは――嫌だった。絶対に嫌だった。だけどそれは相手にも言えることだろう。誰だって死にたくないし、痛い目を見たくもないし、楽をしていたいはずだ。なら……僕は強くならなければならない。そんな目に遭わなくてもいいように、自分が遭うかもしれない災難を、全部他人に押し付けられるようにならないといけないのだ。
……薄汚い考えだ。我が身可愛さで、苦痛を他者に押し付けようとするなんて。
それでも……と思う。
魔力炉心に魔力を回し、抗魔力を高めた。するとマーリエルの言った通り、
強制的に沈静化されていた精神に揺らぎが戻ってくる。すると自然と顎が震え、歯が鳴った。全身が無様にも震えてくる。死の恐怖がぶり返してきた。
笑った。なんて情けないんだ、僕は。
体を掻き抱く。寒くないのに震えが止まらない。腕を切られた瞬間のことを想起してしまう。あの、恐ろしい形相のマイケルを思い出した。傷はないのに、右腕が痛んだ気がする。
ああ――やっぱり。僕は、怖いのは嫌だ。
なら、やることは決まっている。決まってるんだ。
強くなる。絶対に、強くなる。次の試合までに、あるいは、ダンジョンに投入されるまでに。そして、
「
無理に冷静さを保とうとするばかりでは駄目だ。理性を手放すための狂奔も、時には必要なのだと僕は思った。
† † † † † † † †
――この発掘闘技都市に連れて来られて一ヶ月が経つ。それはつまり、村を焼かれ、妻を殺されてから一ヶ月が過ぎ去ろうとしているということだった。
長いようで短く、短いようで長い時間だ。
おれが過去に兵士として仕え、尽くしていた国からの報いがこれなのだとしたら、命を懸けて戦場に出た過去が虚しいものでしかなくなる。
だが分かっていたことだ。人的資源としてのおれは、無能だった。秀でた能力のないその他大勢の兵士でしかなく、魔族の使った魔術の余波だけで兵士として再起不能になる程度の存在だったのだ。そんなおれに、国や貴族が特別な配慮をするわけもない。
そして村を焼いたことに、国が関与していないのも分かっていた。ただ黙認しているだけで。
――エディンバーフ伯爵領は、王国という人体を稠密に組み上げるに際し重要な役割を果たしている機関だ。魔石の大量発掘と闘技場を利用しての収益を上げ、そして人材の発掘と錬成を休みなくおこない、人材と資源を王国中に発信し続けているのだ。王国を支える屋台骨の一つとすら言える立ち位置に在る。
故にそこでおこなわれる非人道的なおこないは、そのほとんどが容認されていた。何より利益が凄まじいから。国としては見て見ぬふりをするのが正しく、美味しいのだ。
それにユーヴァンリッヒ伯爵家は代々、私情とは掛け離れた人間が当主となっている。今代のユーヴァンリッヒ伯爵アルドヘルムは、その中でもとびっきりに優秀だとおれが兵士だった頃から有名で――奴の挙げた成果は高く評価されていた。奴のやることなら間違いはないと国家中枢から全幅の信頼を置かれるほどに。頭が切れ、無欲で、
だからといって、自分がされたことを許せるわけではない。
例え聖人が相手でも、王国に欠かせない要人でも、仇は仇だ。人類全体のために涙を呑んで恨みを忘れろと言われたとしても、忘れられるものではなかった。
確かにおれの村は限界だった。若者は減り続け、年寄りばかりになり、作物は実らず、辺境故に整備された道があっても商売人は訪れない。魔族の活動圏内に入っていた故に企業の連中も恐れて活動しようとせず、まさに陸の孤島とでも言える状況だった。
そんな村におれ達がいたのは、元が魔族に占領されていた土地だったからだ。どういう原理なのかはお偉い学者先生ではないおれには分からないが……魔族が発する魔力波長は人類のみならず大多数の生物に有害なのだ。
それは大地を汚染し、多くの生命が枯れる死の国にする。故に魔族は厄介なのである。奴等に占領された土地は、奴等にとって住み善い土地になるのだ。それはこの地上を地獄に塗り替えられているに等しい。
故に人類は取り戻した土地に浸透した魔力を、長い年月をかけて中和しなければならない。
その手段は、人類を含む魔族の発する毒の波長を中和する魔力波長を持つ存在を、その土地に根付かせ生活させることだ。魔族の波長を、人類の波長で塗り替えるために。
無論、村に置かれた第一世代、第二世代の人間の多くは死ぬ。優秀な魔導師すら、長期に亘って魔族の地に居座れば命の危険があるのだ。平凡な人がそこに住んで安楽に過ごせる道理はない。
多くの人間が死ぬ。実際、そうして死んだ親を持つ年寄りを何人も知っていた。そうした先祖代々の骸の上にあの村は成り立っていたのだ。傷病兵として軍を退役させられたおれは、そんな土地に回されたのである。戦えないならせめて、こういう形で貢献しろと。過酷な大地で暮らすことを命じられていた。
それが、
「――ふん。意味など知らん」
思考を打ち切る。無意味な想像だ。
なんであってもあの村はおれの家だった。人間が住むのに適したものではない、過酷な土地だったとしても。
あそこには友がいて、妻がいて、我が子がいた。村を焼かれて残ったのは、僅かな友と、我が子だけ。おれは父親として自分の子供の安否を気に掛けているが、してやれることなど何もなかった。
辛いだろうに。怖いだろうに。最も心細いのは、目の前で母を殺され、顔見知りから引き離され、一人きりでいるだろう息子だろう。おれはそんな我が子を慰めてやれない。守ってやれない。内心に忸怩たる思いを抱えながら、おれは訓練に励んでいた。
何もしないで漠然と時が過ぎ去るのを待つのを不毛だ。やることが何もないまま、漫然と日々を過ごせはしない。座していれば死あるのみ。この世に残された、たった一人の家族……息子を残して死ぬわけにはいかないのだ。
闘技場での試合は、あくまで錬成目的でしかない。訓練だ。本番はダンジョンでの魔石発掘で、そのためにはモンスターを殺す必要がある。おれは噂程度しか知らないが、このダンジョンのモンスターは凶悪だ。他所で確認されているモンスターよりも、かなり厄介な能力を持っているという。兵士であった頃のおれでも死にかねない。ブランクと障害を受けた今のおれでは、怠けていれば決していい結果にはならないだろう。
兵士としての現役時代と比べると加齢もあり、どうしても身体面で劣ってしまっている。退役の原因となった魔族の広域拡散呪詛によって、左半身の動作阻害が残っているせいで全力で走れもせず、そして左腕も一定以上の力が出なくなっていた。
余波でそれだ。まともに受けた人間は植物状態で、そうなった兵士が今頃どうなっているかをおれは知らない。まだ運が良かった方なのだろう、おれは。なんにしろ鍛え直さなければならないのは明白である。右半身しか戦闘で使えないのは大きなハンデだが、やはり何もしないという選択肢は有り得ない。
片手で扱えるショートソードと、左手で取り回せる軽量のラウンドシールドを武器に選ぶ。どうせ素早く動けないのだから鎧は全身を固めるものにして、後は使用できる魔法の練度を高めることにした。
魔道の分野で無能なおれが使える魔法は一つしかない。身体強化魔法"
訓練は難航した。
まともに踏ん張れない左足。盾で攻撃を受けるのにも難儀する左腕。敵の攻撃を受け流す精密な動作も難しい。防禦を疎かにする奴は無能を通り越して自殺志願の気狂いだと、昔に世話になった新兵錬成将校が言っていたのを覚えている。手を抜けはしないが、如何ともし難かった。
昔は大剣を使っていたから、ショートソードの習熟にも苦労させられる。元々武器の重量や衝撃力を操れないおれは、どんな武器でも身体強化魔法で力任せに振り回すしかなかったから、結局は軽い剣撃しか繰り出せないのは同じだ。しかし武器のリーチの長さ、立ち回り方にある差異が調子を乱している。
つくづく、おれは兵士に向いていなかったのだと痛感する。肉体関係の分野では何をしても要領よくやれない。
子供の頃は音楽家に憧れていた。せめてそちらに才能があったなら救いだ。憧れていただけで、そちらの分野に関わることもできなかったから才能の有無も知らないが。
訓練は行き詰まっていた。なんとか形にはできたが、それだけでしかない。やはり現役時代ほどには動けなかった。
頭をガリガリと掻く。訓練漬けの毎日では気も滅入るというものだ。どうにも閉塞感が拭えない。
人工精霊の端末におれは言った。日に一回は要請していることを、駄目元で言う。すると予想外の反応があっておれは目を見開いた。
『――ユーサー。特別に通信の許可が降りました』
「な……に?」
一瞬、なんと言われたのか分からなかった。
許可が……降りた? まさか、本当に。おれは呆気に取られ、次いで勢いよく立ち上がると人工精霊の百五号室担当端末に向けて掴み掛かる勢いで叫んだ。
「つ、通信の許可が降りた? 今まで『外部との連絡は一切禁じられている』の一点張りだったのにか? いや、それはいい! 話せるんだな!? アーサーと……おれの息子と話させてくれるんだな!?」
『はい。百十一号室担当端末に要請は済んであります。"コールマン"は応答待ちです。通信を繋げますか?』
「繋げてくれ! ……早くっ!」
『了解しました。通信可能時間は三十分となります』
目の前にホログラムのウィンドウが開かれる。半径三十㎝程度のモニターが。そこに映し出された顔に、おれは涙腺が緩むのを感じた。
「あ、アーサー……」
『……やあ、父さん。その……久し振り。一ヶ月ぶりだぁね』
「ふ……はは。なんだ、その喋り方は。まだやめていなかったのか? ああ、いいんだ。無事だったんだな……」
懐かしそうに、家族に向ける安心感を秘めてこちらを見る視線に、おれは大きく安堵の吐息を吐き出した。
癖のある金髪に、幼さの残る顔立ち。しかし、アーサーの奴の顔つきが変わっているのにはすぐに気づいた。
余程鍛えているのだろう。顔つきの精悍さが増し、肩幅もやや広くなっている。素朴な瞳だったのが、理性と知性の滲む光を湛えていた。まるでよく似ているだけの別人だ。貴族の令息と言っても通じるかもしれない。しかしおれには分かった。奴は間違いなくこのおれの子供だ。血を分けた我が子を見間違えるものか。
いざアーサーを目の前にすると、なんと声を掛けるべきか悩みそうになってしまう。しかしおれは、まず訊かねばならないことがあるのにすぐ思い至った。
「アーサー、体調は崩していないか? 無理をしたりはしていないな? 何かあっても無理だけはするな、命は一つしかないんだからな」
『父さんこそ。私はいたって健康そのもので、訓練の方も順調さね。それより……父さんの声を、やっと聞けた……それが、なんというか……』
「ああ……そうだな。その先は言わなくていい、お前も口にするのは恥ずかしいだろう? おれだっていざ聞かされそうになると恥ずかしい」
『は、はは……』
「……」
アーサーが照れたように笑っている。
穏やかな……一ヶ月前までは普通にあった空気を思い出して、不覚にも目頭が熱くなった。
息子は反抗期で、それに悩まされていたが、どうやらこの一ヶ月でそれがなくなってしまったようだ。それが嬉しくもあり、悩ましくもある。親として、反抗期の子供と正面から接し合える期間をなくしたのだから。
息子を守れるように、強くならなければと、強く思う。この世に残された、たった一人の家族を。戦災孤児だったおれが手にした宝物を……その最後の一つを、絶対に守らなくてならない。
『失礼。ちょっといいかしら』
――不意に、アーサーの横から一人の少女が割り込んできた。
それにおれは、不愉快になる。なんだこの小娘は、と。息子との僅かな時間の会話に入ってくるなと思う。
眉を顰め、しかしふと気づく。
なんだ? アーサーも一人部屋じゃないのか? なんだって、この小娘が一緒にいるのだ。
「……誰だ?」
『私はマーリエル・オストーラヴァ。任務として貴方の息子の監視要員として配置されてるわ』
「マーリエル・オストーラヴァだと!?」
告げられたその名前に、目を見開いて驚愕する。
知っていた。その名前を。知らないはずがない。このエディンバーフ領にいる人間が、その存在を知らないわけがないのだ。
思わずマーリエルの隣にいるアーサーを見る。アーサーも知っているはずだ。なのに何故、そんな何事もない表情を……。
いや、そうか。分かっていても、気にしていないのか。マーリエルは関係ないと。大人になったものだなと嬉しく感じるが、同時に寂しくもある。その成長をすぐ近くで見ていたかった。
「……失礼しました。おれはユーサー。王国軍の元軍曹です」
マーリエルは中尉という階級に就いている。元軍属として、階級が上の者への応対をする。そうでなければ平静を装えない相手だ。
少女は淡々と告げる。おれにとっては面白くない話をするために。
『通信の許可を出すように要請したのは私よ。貴方に聞きたいことがあったのが一点、アルトリウスにも気を許してる人との会話は必要だと思ったのが二点。理由はそんなものね』
「……そうですか。で、おれに聞きたいことというのは?」
『アーサーのことよ。といっても、ささやかなことだからそんなに時間は取らないわ。だから安心していいわよ』
アーサーのこと? 視線を向けると、息子は微妙に困ったような表情をしていた。目を逸らして、瞼を少し落としている。何か隠し事をしたい時にアーサーがよくする表情だ。
……何か隠したいことがあるのか? なんとなくそう察して、そういうことならなるべく誤魔化そうと決める。今のおれの立場と心情からして、都市側の人間に忠実な態度で臨む気はない。
マーリエルが質問してきた。
『まず一つ。アルトリウスにこんな喋り方を仕込んだのは貴方なの?』
「は……? ……ああ、はい。おれです。おれが没個性だったもので、息子には何か個性をつけてやろうかと」
質問の意味が分からない。一ヶ月前、アーサーは突然今のような口調に変わっていた。おれは関わっていなかったことだ。
特に隠すことでもないが、とりあえず欺瞞の情報を伝える。困らせてやれ、という子供じみた思いがあった。マーリエルは首を傾げる。変なことをするのね、と。
『二つ。アルトリウスに何か高度な教育でも施したりした? 彼はなんだか、頭の回転が早いのよね』
「……いえ。特には。しかし母に似て、屁理屈を捏ねるのだけは得意でした」
おれの証言に、アーサーは柳眉を逆立てて不満を露にする。そんな表情に苦笑したくなるもグッと堪えた。
『最後よ。アルトリウスがヴァイオリンを弾けるのは、どうしてか知ってるかしら?』
「――」
アーサーが、ヴァイオリンを? そんな馬鹿な。息子が、弦楽器を弾けるなんて有り得ない。そんな教育はしていない。
動揺を押し隠す。隠し切れたかは知らない。アーサーを見た。息子は不意の質問に驚いて、おれに縋るような目を向けてきた。
……そんな顔をするな。分かった、話を合わせてやる。大方、この一ヶ月間に楽器にでも興味を持って少し練習したのだろう。
真面目に戦闘訓練をしなかったから、監視役としてマーリエルが来たのかもしれない。それにしては大物過ぎるが、それしか考えられることはなかった。
「はい。昔、村に流れの商隊が来ましてね。その一人がヴァイオリンを齧ったことがあるらしく、幼かったアーサーがよく懐いてくれたのが嬉しかったのか教えてくれたらしいですよ」
『へぇ。……その人の名前は?』
「さあ、なんとも。なにぶん昔のことでしてね、それっきりだったので覚えておりません」
『そう。ならいいわ。聞きたいことは以上よ。邪魔をして悪かったわね』
本当に邪魔だったが。まあ、最後にいいことを聞けたのでよしとしよう。
しかし……そうか。アーサーがヴァイオリンを。血は争えない、血は水よりも濃いと言うが……息子も音楽に関心を持ってくれたのか。それが無性に嬉しかった。
おれはマーリエルがモニター内から離れたのを見計らって、それとなくアーサーに言った。
「アーサー。……久し振りに、おれもヴァイオリンの音が聴きたくなった。おれも子供の頃は音楽家に憧れていてな……聴かせてくれないか?」
『……父さん。ありがとう』
「ん、何に対するお礼だ? いいから聴かせてくれ。それでチャラにしよう。なんのことか知らんがな」
誤魔化してやったことへの礼だろう。きちんとありがとうと言えるようになっていたらしい。
おれがそう言うと、アーサーは苦笑してヴァイオリンを取り出した。
構える姿が堂に入っている。凄いな、と思った。随分と昔に見た音楽家のそれにも負けていない気がする。あくまで気がするだけだが。
『リクエストは何かあるかい?』
「そうだな……聴いた感想を言ってみたいから、短い曲で頼む」
『分かったよ』
頷いて、アーサーは思案した。どの曲にするか考えているのだろう。逆に言えば悩めるだけのレパートリーがあるということでもある。あの馬鹿……顔つきと体つきから誤解していたが、ろくに訓練していないな。
演奏が終わったら説教してやらないといけない。そう思いつつアーサーがヴァイオリンの弓を弦に当てるのを見る。
そして、アーサーが演奏をはじめた。
軽やかな旋律が流れる。息子の抱える心情が伝わってくるような、懐かしさと安心感が伝播してくるような――そんな感じが、して。
おれは不覚にも、いつの間にかそれに聞き入っていた。
つ、と目から熱いものが溢れ落ちる。
才能を見た。昔、おれが夢見たものへの才能を、息子が持っているのを知った。
胸が熱くなる。心が震えた。息子は目を閉じてヴァイオリンを弾くのに没頭している。その姿をおれは、ずっと見続けていたいと思って――
――ああ。お前、生まれる世界を間違えたなぁ。
息子が平和な世界に生まれていたら、きっと一流の……天才的なヴァイオリニストになれただろうと思い。心の底から、その才能が惜しくて堪らなくなった。
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