強く在れと、告げられる
僕は何処から来て、何故此処に存在するのだろう……。
僕が此処に存在する理由が何処かにあって、それを知っている人がいるのなら――僕はその人へ問いを投げたい。
此処に存在するのが何故、僕なのかと。
† † † † † † † †
少年と少女はエレベーターである
三十分も経たない内に引き返してきたマーリエル達へ、受付の男性は怪訝な表情で視線を向けてきた。
「お早いお帰りですね。何かあり――」
「第一層でゴブリンブレイブを見たわ」
すると男性の表情に電撃が走った。ピリッとした緊張感を顔に宿し、しかし無駄に固まる無様も晒さず、淡々と冷静に応じる。
「了解。モンスター・バースの可能性がありますね。こちらで調査しておきましょう。場合によっては騎士オストーラヴァ中尉にも出動要請があるかもしれませんが、その時は是非お力添えを」
「ええ。隊に戻らない限りいつでも手は空けられるから、用があればいつでも声を掛けて。言うまでもないことだけど、その時は彼の監視を代わる人員を回してちょうだい」
「拝承いたしました。手配しておきます」
受付はすぐにどこかへと連絡を入れはじめた。正に当意即妙である。コールマンは事務仕事にあるまじき迅速なやり取りを、外野のように横から見ているしかない。
マーリエルはコールマンを伴い、元の部屋へさっさと戻った。すると彼女は言う。「善は急げよ。早速鍛えて上げるわ」と。
焦っているのではない、単にマーリエルが遊びのない性格をしているだけだろう。何時かはやらねばならない、ならその
「――"私の名前はアルトリウスです"」
「私の、名前は、アルトリウスです……!」
軋みを上げる腕と腰に、顔が苦悶に歪むのがはっきりと分かった。引き攣る喉から無理矢理に声を絞り出す。
腕を畳み、伸ばし、畳み、伸ばし――コールマンは只管にそれを繰り返していた。飽きるほど視線が上下する。負荷の掛かっている肘が痛い。顎先から珠のような汗が滴り落ち、顔の下の床に小さな水溜まりができていた。
鬱陶しい衣服は最初から剥ぎ取っている。剥き出しとなった上半身にはびっしりと汗が浮かび上がり、くの字に曲げた腕が生まれたての小鹿の脚のように痙攣していた。――それは自身の体重を支える上下運動、腕立て伏せである。
本来なら己の重量を支えるだけの単純な運動も、数をこなせば疲労は蓄積される。その上さらに荷物を体に乗せているともなれば、その負担は倍増どころの話ではない。
コールマンは途切れ途切れに、息も絶え絶えに百回目の腕立て伏せを行う。腕を伸ばし切りもう一度腕を曲げようとして……限界を迎えた。もう無理だ、腕が痙攣して感覚がない。そうして地べたに倒れ込もうとすると、また
回復魔術だ。一気に腕に溜まった疲労が抜ける。全身が溜め込んでいた疲れが溶ける。コールマンは悲鳴を上げたくて堪らなかった。『またか! いい加減に勘弁してくれ!』……そう叫べたらどれだけ楽だったろう。
「"私は現在腕立て伏せを百回実行しました"」
「私は、現在腕立て伏せを、百回、実行しました……ぁ!」
背中に乗っている荷物の正体は、タンクトップにジーンズというラフな格好の少女である。言うまでもなく、マーリエルだ。
マーリエルはコールマンの妙な口調を矯正するのと、肉体を錬成する作業を同時進行でおこなっているのである。目上の人と話す機会があれば、失礼があってはならない。故に敬語を仕込む。誰と話す時でも丁寧語を使えるように。体を鍛えるのも同時にこなせば効率的で、その方法も合理性のみを追求していた。
マーリエルを背中に乗せての腕立て伏せは、最初は二回が限界で早くもダウンしそうになっていたというのに……根を上げそうになる度に、マーリエルは少年を魔術で回復させ、無理矢理に筋力増加プログラムを続行させている。
筋力が身に付く人体のメカニズムを魔術で再現し、短期間で必要な筋力を身に付けさせる手法だ。それによってコールマンは限界を迎える度に回復させられて、マーリエルという重量物を背中に乗せたまま腕立て伏せを延々こなせるようにされているのである。
それはもはや、ある種の拷問に近い。肉体疲労は取り除かれ、自分でも分かるほど明確に、異常な速度で筋力が身に付いていくのだ。体が自分の物ではなくなっていくような感覚の齟齬がある。見る見る内に筋肉量が増大していくのである。それは鍛練というより、肉体改造という表現の方が実態に近いだろう。
筋力が加速度的につけられる工程は、まともに体を鍛えた経験のないコールマンの精神に消耗を強いている。その上でマーリエルの発する丁寧な語調の言葉をリピートし続けるのである。気が狂いそうだった。
「"私の次の訓練メニューは、次に上体起こしを千回、ロングソードの素振りを千回、槍の素振りを千回、鎧を着たままでの長距離走の後に休憩となります。騎士オストーラヴァ中尉、ご協力感謝いたします"」
「っ!?」
「ほら、復唱して」
女の子を背中に乗せての腕立て伏せなんて、フィクションの世界にしか存在しないと思っていた。しかしそれが現実のものとなっても、マーリエルの臀部の感触を楽しめる余裕なんて欠片もない。
恥も外聞もなく、もう休ませてくれと懇願したかった。それでもマーリエルの課す鬼のような訓練に食らいついているのは、これがコールマンの希望した短期間で必要な体力を錬成するためのものだからだ。自分から頼み込んでおいて泣き言を漏らすのは、彼のプライドが許さない。――そういうことにしておかないと、疲労困憊の少年は何もかもから逃げ出してしまいそうだった。
「わ、私の次の、訓練メニューは、次に、上体起こしを千回……! ロングソードの、素振りを……千回、槍の素振りを、千回、鎧を着たままでの、長距離走……ッ! の、後に、休憩と、しますっ!」
「休憩と
「休憩と、なりますッ! 騎士、オストー、ラヴァ、中尉ッ、ご協力、感謝いたし、ます……!」
「どういたしまして。頑張ってね、アルトリウス」
他人事のように言うマーリエルは、人様の背中の上で何事かに意識を向けているようだ。そのくせ、コールマンの限界を敏感に感じてのけ、片手間で回復させてくるのである。
マーリエルが何をしているのかなんて、気にしている余分は一寸足りとも存在し得ない。興味深げに吐息を溢しているのが聞こえるだけだ。
女性に限らず、およそ全ての善良な人に対して親切な英国紳士、その卵とはいえコールマンの鬱憤は増していく一方だ。逆恨みと分かっていてもヘイトが溜まる。クソ、今に見てろと負けん気を燃やすのが精々ではあるが……。
上体起こしに移行する。俗に言う腹筋運動である。マーリエルはコールマンの背中から降りて、両膝を立て仰向けに寝たコールマンの両足を土の魔術で固定する。土塊が両足を拘束した感覚に、逃げられないぞと告げられたようで、コールマンは内心泣きそうになっていた。そうしてメニューを消化していく少年に、マーリエルは感心したように言った。
「凄いわね」
何がとは聞き返せない。黙々と腹筋運動をするコールマンの眼前で、少女は虚空に出したモニターのグラフを見ながら呟いた。
「魔力量が二乗化しているのが貴方の異質特性かと思っていたけど、それだけじゃないみたいよ。肉体錬成効率も二乗化しているわ。常人の筋力トレーニング効率が十としたら、貴方は百。このままいけば、半月もしない内に立派な戦士になれるわね。肉体的には、という注釈がつくけれど」
ブツブツと異質特性への考察を呟きはじめるマーリエルの言葉を、少年は半分も聞き取れないまま上体を起こし、倒し、起こす。腹筋が灼熱を帯びたように熱い。顔を真っ赤にして、上体を起こせず固まったコールマンに回復魔術が叩き込まれた。
虚脱感に見舞われて、しかし肉体的には全ての疲労が溶けた。ヤケクソぎみに訓練を続行する。
自身の形のいい頤に指をあて、深く思考の海に潜るマーリエルは虚空を見詰めていた。
「……魔力形質、魔力波長、魔力炉心はノーマル。肉体的にも普通の人間。発見された異常は魔力発現不調症のみ。これでどうして魔力量と肉体成長率が二乗化されるの……? 魔力発現不調症が治癒した反動で未知の現象が偶発的に起こった……? いえ、偶然は必然に置き換えられるわ。何か切っ掛けがあったはず……血筋的に言えば普通の村民、過去の英雄なり偉人の遺伝子は継いでいない……強いて言えば、父親が兵士だったことがあるぐらいだけど、平均的な兵士でしかなかった。アルトリウスの血筋に原因がないとしたら、やっぱり突然変異しかないわね。取っ掛かりさえあればその原因も掴めそうなんだけど……魔力量、成長率以外にも何かが二乗化している可能性があるわ。もう少し経過を見て、原因究明の材料にした方がいいかしら」
ある時を境にぴたりと口を噤み、マーリエルは鋭い視線でコールマンの観察に注力することにしたようだ。
折を見て回復魔術を飛ばしてくる。それは黄色の霧となってコールマンの体に浸透していく。魔術、魔法は術者の魔力形質によって色こそ変わるが、効果自体は変化がないらしい。
腹筋運動を終え、今度は壁に立て掛けていた長剣を手に取る。鞘をつけたまま、その場で剣を晴眼に構えて振りはじめた。いつか見たジャパニーズアニメ、その剣士のキャラクターが素振りをしていたものの猿真似だ。
「……腰を落として」
ふ、とマーリエルが口を挟む。助言らしい。言われるまま腰を落として中腰になると、彼女は呆れたように嘆息した。
「落としすぎよ。もう少し上げて。まだ。……そう、それぐらいね。あと腕は内に閉じて。腕の力だけで振ってはダメよ。腰から背中、背中から肩、肩から上腕、上腕から肘、肘から手首、手首から指。そこに至るまでの筋肉の動きを常に意識しなさい。基本がそこ。剣に限らず、全ての近接武器の基礎よ」
基礎、基本というが、それを実際におこなうのには難儀する。言うは易し、という奴だ。
たった二十回の素振りで腕が痛くなった。腕立て伏せの時とは違う筋肉を使っているのだと自分でも分かる。背中まで熱くなってきていた。息を乱しはじめたコールマンにまた回復魔術が掛けられた。
「いい? 手にする武器ばかりに意識を向けてはいけないわ。まずは己の肉体を自在に動かせるようになること。一剣同身、武器の主足らんとするならまずは己自身の主となりなさい」
「それならまず、格闘技でも身に付けた方がいいんじゃあない……ですか?」
取って付けたような敬語に、マーリエルは一瞬ぴたりと止まった。
数瞬の沈黙。少女の陶器のように白い顔に赤みが差す。
「マーリエル?」
「……ええ、そうね。それがベストよ。体術の手解きは後でしてあげるわ」
「そう、ですか」
こほん、と咳払いをしての一言だ。腑に落ちない反応である。まさかうっかり忘れていたというわけではあるまい。
「……長距離走は無し。代わりに体術の基礎をやるわ。その後に休憩としましょう」
「あ、ああ……」
「そこは
はい、と応える。これはボケていたなとコールマンは悟った。
そういえばマリアも、微妙に抜けてるところがあったと思い出し微妙な気分にさせられた。
† † † † † † † †
「は、ははは……」
乾いた笑いが溢れ落ちる。
剣の素振り、槍の素振り、そして体術の基礎と称しての、マーリエルに延々と投げられて受け身を取らされ続けた一時間。少年はその後、気を失った。
肉体的には全く疲労はない。しかし気力は完全に萎えていた。極度の疲労状態から、幾度も全快させられた反動だろう。コールマンは四時間余り眠り続けたことになる。
目を覚ました少年に、マーリエルは労るように告げた。お風呂沸かしてあるから入ってきたら? と。
心の洗濯は必須だった。返事をするだけの気力もなく、言われるがままふらふらと浴室に向かい、服を脱いで風呂で気力を回復させようと寛いだ。体を洗い、頭を洗い、湯船に浸かり……そうしてある程度回復すると湯船から上がり、タオルで水気を拭い取った。
そうしてふと、脱衣室で姿見が目に映った。そこに映っていた自身の姿に、コールマンは思わず笑い出してしまったのだ。
「なんだ、これ……」
自分ではないような自分が、そこに立っている。
腹部の筋肉が薄らと盛り上がり、割れている。胸部の胸板も引き締まり、肩から肘までの上腕、肘から指先まで筋肉で筋張っていた。
背中、腰、太股、脹ら脛……全身に隈無く筋肉がつきはじめている。トレーニングの成果だろう。しかしそれにしては早すぎる、まだ一日目なのだ。にも拘らず、ここまで様変わりしてしまった自分の体が、コールマンからすれば無性に可笑しくて可笑しくて……笑えない。
改造されてる、と思った。トレーニングの成果だとは思えなかった。こんな短期間で、目に見える形で成果が出るなんて不自然極まる。元々自分の体ではなく、別世界の自分の体だと理解していたが、それでも自分がこうまで様変わりしてしまったのには衝撃を受けた。
男として、逞しい体に憧れがあるにはあったが。つい先刻までの体と今の体へ生じたギャップに震えてしまいそうだった。
「……」
黒い全身タイツ、魔導十一式バトル・スーツを着込み。魔導九式アーミー・ブーツを履く。そうして脱衣室から出た。
もう今日は寝よう。時間はまだ午後の七時だが心が疲れきっていた。
「――なんですって? それはまだ先の予定のはずよね。なんでまた、そんな急に……ダンクワース侯が? ……ああ、"鏃の御子"の……」
「……? どうかしたのかい?」
椅子に腰掛けていたマーリエルが耳に手を当て、難しい顔をしているのを見掛けて声を掛ける。うっかり丁寧語が抜けてしまったコールマンがそうやって訊ねると、マーリエルはバツが悪そうに顔を背けた。
その反応に首をかしげる。まあいいか、と内心呟き。そろそろ寝る旨を伝える前にベッドに腰掛けると、不意に気になって少女を一瞥した。
「そういえばマーリエル、君は帰らないのかい?」
「……敬語」
「あ……別にいいじゃあないか。……いいじゃないですか。それより、私はそろそろ寝……ます。さっさと帰りやがってください」
「帰ってください、ね。悪いけど、私はこの部屋に住むから」
え? と思わず反駁してしまう。しかし考えてみたら当然と言えば当然なのかもしれない。
「それは、私を監視するため?」
「ええ。私、一応貴方の監視員だから。私がどう思っていようと、貴方が魔族ではないという確証はないもの。我慢して」
「……そうですか。……ですが、私は寝ます。灯りを消しますので、ご了承ください」
「いいわよ。けど口調がおかしいわね……いっそのこと貴方が寝てる間にインプットしておこうかしら……」
「やめるんだ」
そう真剣な顔して怖いことを言うもんじゃない。おちおち寝てもいられなくなる。嘆息してベッドに潜り込むと、マーリエルがアビーに言って灯りを消してくれた。
目を閉じる。いったい何時になったらこんな世界から解放されるのか考えてみようとして、それを考えたら気がさらに滅入るのは分かっていたから思考を放棄する。
何も考えず、頭を空にして寝よう。そう思う。が――どうも見られている気がしてなかなか寝付けない。
寝返りを打ってマーリエルに背中を向けるも、まだ見られている感じがした。
「……ねえ、アルトリウス」
不意に暗闇の中で鈴の鳴るような声がした。コールマンは寝ているふりをして無視しようとするも、彼女は構わず言葉を続けた。
「明日、試合があるわ」
「……?」
「貴方がやるの」
「――なんだって?」
思わず聞き返して、飛び起きた。驚いてマーリエルを見ると、暗いせいで表情の窺えない少女は言う。
「悪いけど、拒否権はないわ。頑張ってね」
「頑張って、って……そんな、なんでいきなり!? 私がここに来てまだ四日も経っていない! そんな素人をいきなり試合に出す!? 何故だ!?」
「ダンクワース候の思し召しよ。繰り返すけど、拒否権はない。……今日はもう寝て、鋭気を養った方がいいわ。お休みなさい」
「待て、待ってくれ、そんな……!」
言い募ろうとするも、急に眠気が襲ってきた。魔力の反応を感じる。
魔術か、と悟るも抗えない。理不尽だ! なんで僕がこんな目に、と心の中で叫んだ。しかしそれを口に出すことはできないまま、コールマンの意識が落ちていく。
理不尽――不条理。そんな言葉に、マーリエルが返してきた言葉が耳に残った。
「アルトリウス。人の世は、例え泰平の世であっても理不尽なものよ。個人の主張はそう簡単には通らない。覆したいのなら……強く、在りなさい」
強くなれ、ではなく。強く
その言葉の真意の在処を、今のコールマンは見つけられない。
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