(4)秋子さんがうるさいよ

 机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。右頬で圧迫された手に鈍い痺れを感じていた。気怠さを負いながら息を吸う。その音が思いのほか大きく響いた。小匙程度の気恥ずかしさ。俺はゆっくりと瞼を持ち上げる。そして、ひたと固まった。

 間近に、女性の胸元が見えた。

「成海さん、動かないで……」

 額のすぐ側で声が囁く。秋子さんだ。でも異様に近い。状況がさっぱりわからない。さっぱりわからないが……声と身体の位置関係からして覆い被さるように身を寄せようとしているらしい。胸が、迫ってくる。心臓がどくりと跳ねた。

 何だ。一体、何が起こっているのだ?

「……そのまま、じっとしていてください」

 蛙のように這いつくばったまま呼吸をも止める。指示を従順に履行しようという意志の表れではない。ただ理解が追い付いていなかった。手足も、思考も用を成さない。その隙にも秋子さんは距離を詰めてくる。堪らず汗が噴き出した。感じる熱が誰のものなのかも分からなかった。そして、彼女の身体が揺れ……頭上で何かがひょいと動いた。

「?」

 秋子さんはさっと身体を離した。両手を後ろに回し蟹歩きで移動する。そうしてサササと自席まで戻ると、あとは何事もなかったようにニコニコと笑った。手だけが不自然にテーブルで隠されていた。

「……」

 上半身を起こした。頭のてっぺんを触ってみた。ぐにゃりとした小さなものが髪に引っかかっていた。摘まみ下ろして観察する。カスとしか形容できない代物だった。テーブルの上にざっと目を這わせ、前方へ視線を向けた。

 秋子さんは変わらずニコニコしていたが、その笑顔は引き攣っていた。

「……ねえ、秋子さん」

「なんでしょう? 成海さん」

「俺の頭の上に消しゴム乗せてたでしょ」

「…………」

「どーしてそういうことするかなあ……」

 彼女は、笑みを張り付けたまま、ギギギと顔を脇に逸らした。

「……すごく形の良い頭だなーって思ったら、つい」

 ついじゃねえよ。

 頬の火照りが疲労に変わっていく。ぐったりと肩が落ちた。

「形が良くても人の頭の上に消しゴムを乗せちゃダメだって学校で習いませんでしたか」

「ごめんなさい」

 うむ、素直で宜しい。

 背筋を伸ばして大欠伸を掻いた。妙な体勢で眠っていたせいか首が強張っていた。滲んだ瞳で掛け時計を見やる。時刻は二時過ぎ。四十分近く机を枕にしていたようだ。

 秋子さんは、さり気なく消しゴムをテーブルに戻し、ペンを握り直した。

「でも本当にぐっすり眠ってましたよ。まだ火曜日なのに随分とお疲れですね」

「いや、夏休みだから曜日とか関係ないんだけど」

 だが、眠気に理由がないわけではない。

「昨日面白いネット小説見つけちゃってさ。徹夜で読み耽ってた。寝不足なんだよね」

「インターネットって小説も読めるんですね」

「知らないの?」

「あんまり。電子書籍というやつですか」

「投稿サイトだよ。自分で書いた小説をアップできるんだ」

 すごい自分で、と大袈裟に眉を動かされる。こういうサービスには明るくないらしい。一般常識の類と思っていたが創作に関心がなければそんなものだろうか。スマホで見せてあげることもできる。ただそこまでしようとは思わなかった。

「みすとって名前のひとでさ。長編ホラーを書いてるんだけど……」

 と昨晩の楽しさが脳裏に蘇った。

「キャラクター一人ひとりに主役を張れるぐらい魅力があって、展開も伏線も裏を掻かれるものばかりでさ。文章も上手いし、ひょっとしたらプロが匿名で書いてるのかなって」

 秋子さんは「へえ」と感嘆符を伸ばし「何だか楽しそうですね」と口許を綻ばせた。食い付きが良いと俺も悪い気はしない。身を乗り出してくる秋子さんに、序盤のストーリーを少しだけ教えてあげた。彼女はこちらの身振り一つ一つに頷いたり笑ったりしてくれた、

「成海さんはどんなお話を書くんですか?」

「俺は、伝奇ものかな? 現代が舞台で、そこに怪異が現れて、ある姉妹が特別な力を発揮して解決するっていう……。レベルは断然あっちが上だけどね」

「でも、成海さんが書いたお話、私は読んでみたいです」

「……ありがと。完成したらお披露目するよ」

 そのためにも今は資料を集めなければ。気を取り直して机に向き合う。一冊二冊と本を開いたところで欲しい記述が見つかるわけではない。大切なのは根気だ。仮眠を取ったことで脳も多少はクリアになっていた。これならば昼寝のロスも取り戻すことができるだろう。

 だが、そうスムーズにはいかなかった。さらに二十分ほどたってのことだ。

 隣席の椅子が無造作に引かれた。

「いやー、今日も疲れたわー。最悪だったわー」

「やっちーホントへぼいよなー。なんであんなのできねーの?」

「はあ!? たかちん何言ってんの? いやいやいやいや意味わかんね。できるし。チョーシ悪かっただけだし」

「うそつけ。やっちーができてるとこ見たことねーよ」

「やっちーのことはどうでもいいからさー。今から海に泳ぎに行かね? チョー暇なんすけど」

 三人組の小学生だった。四年生か、五年生と言ったところだろうか。何かのクラブに所属しているらしくお揃いのナップサックを足元に転がしていた。彼らは本を読むでもノートを開くでもなく足を投げ出して駄弁り始める。隣に俺たちがいることなど気にも留めていない声量だった。

「今から泳ぎに行くとか、ゆーじんマゾかよ」

「いやーでもさ、海に行くのは別腹じゃね? 俺今年まだ一回も外で泳いでねー」

「えー、俺やだ。もう疲れた。ゆーじん一人で泳いで来いよ」

「えー、マジかよお前らー」

 当たり前だが、やかましい。

 お喋りをしていたのは俺たちも同じだが五十歩百歩と譲る気も起きない。すぐ隣にひとがいるのに、この声はないだろう。

 ペンでこつこつとテーブルを叩く。当然ながら反応はない。廊下を挟んだ反対側を見た。窓際の席で一人の男性がこちらを窺っていた。そして、その目が子供たちだけでなく俺にも何かを訴えかけているように見えた。気のせいかも知れない。だが心中では間違いなく思っているはずだ。

(注意しろ、ってことか)

 でも、結構勇気が要るんだよなあ。

 たとえ相手が小学生でも。普段からひとに注意することに慣れていないから。

 どうしようかと躊躇っていた矢先、秋子さんが勢いよく立ち上がった。腰で椅子を押し退け、バンとテーブルに両手を突いた。

「静かになさい、ここは図書館ですよ!?」

「いや、秋子さんがうるさいよ」

 一喝された三人はしんと静まり返る。そろりと互いに顔を見合わせ、そして、

「うっせーブス!」

「ガイジン!」

「Yankee go home!」

「なんですってええええぇ!?」

「だからうるさいって……」

 溜息が出た。それはもう深いところから。いきり立つ秋子さんをドウドウと鎮め小学生らに向き直った。「あー」と軽めに発声してみる。口の渇きを自覚したが何とか噛まずに喋れそうだった。一人ひとりに目を向ける。顔の造りに興味はない。注意がこちらに向いていることだけを確認し、囁く程度の小声で言った。

「あのさ、俺たちは見ての通り勉強してるんだよ。こっちのお姉さんは夏休みの宿題。俺もテストがあって今月中に資料を漁らなきゃいけない。ここで君たちに大きな声を出されると集中できなくて」

 浅く、息を吸う。

「期限に間に合わないかも知れない。それはとても困るんだ。君たちに勉強しろとは言わないけど周りの迷惑を考えてもう少しだけ小さな声で話してくれると助かるんだけどな?」

 三人は朗読を読み聞かされるみたいに耳を立てていた。そうして再び顔を見合わせる。反論が来るかと身構えたが「わかりましたー」と不服そうな声だけが返ってきた。あとは「やっちーのせいで怒られちまっただろ」「俺のせいかよー」と責任を擦り付け合うささめきが聞こえてきた。咎めるほどの声量ではなかった。

 秋子さんは、こちらを見て「はあ」と毒気を抜かれたような顔をした。身を乗り出し、顔を寄せてくる。

「成海さん、子供あやすの上手いですね……」

「怒鳴るだけが能じゃないってことだよ」

 叱責が有効なのは明確な上下関係が了解されているときだけだ。関係性がニュートラルだと理不尽な仕打ちと捉えられ反発を受ける可能性がある。一方的に行動を封じるのではない。一つひとつ理由を説明したほうが、むしろ子供には理解して貰えるものなのだ。

「そういうの、誰に教えて貰ったんです?」

「教えて貰ったって言うか……母さんがそういうひとだから」

「お母さん、ですか」

 うんと頷き、苦笑を自覚する。

「俺や、姉ちゃんを叱るときにさ、必ずこれこれこうだからって理由を説明するんだよ。理詰めで攻められると黙るしかなかった」

 秋子さんは、ふうんと何かに納得する。

 どこか嬉しそうだった。ささやかなクイズの正解が分かったような。

「成海さんの性格、お母さん譲りなのかもですね」

 なんかいいですね、と胸元のペンダントに触れた。

 反応に困ってしまった。秋子さんが質問を重ねた。

「夏休みは一緒に過ごしたりしないんですか。家族で旅行に出かけたりとか」

「母さん、一緒に暮らしてないんだ」

「……別居、なされてるんですか?」

「いや、夫婦仲が悪いわけじゃないよ。ただ大事な仕事があってね。姉ちゃんと一緒に東京で働いてる。うちには父さんしかいない。父さんは父さんで俺の相手をしてる暇なんてなくて……。だから、俺はこっちに来たんだ」

 それからも秋子さんは母親についていくつか質問をしてきた。他愛のない内容だった。俺も他愛なく答え、数分後には何を話したのか忘れてしまった。注意した俺たちのほうがよく喋ってるなと、そんなことを考えた。

 いつの間にか会話も途切れ三十分ほどは静かに作業に取り組めていた。小学生三人も本や雑誌を適当に開き、時には雑談も交わしていたようだが、うるさいと注意するほどではなかった。しかし、段々とそれも飽きてきたらしい。徐々に会話の量が増え、気付けばまた元の声量に戻っていた。俺がちらりと横目で見ると一旦は鎮まるのだが、放っておくと数分後にはボリュームが上がっている。

 もう一度はっきり注意すべきか。辟易していたところ三人のうち二人が席を立った。何ともなしに眺めていると一分もせずに戻ってきて今度は急に大人しくなる。無言になったのではない。何やらひそひそ話をしていた。気になり、聞き耳を立てた。奇妙な言葉が聞こえてきた。

『今日もいるぜ、図書館の幽霊』

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