(5)非科学的なでたらめです

 幽霊。

 確かにそう言った。図書館の幽霊。秋子さんにも聞こえたらしい。俺たちはどちらともなく視線を交していた。三人の会話は続いている。「今日は何読んでた?」「ジャスミンがどうとかってやつ」「この前は何だっけ?」「忘れた。確か宇宙の本だった」「それより幽霊ってやめね? 俺は透明人間説を推すけど」「やっちーは黙ってろよ」

 幽霊が本を読んでいる……という話題のようだ。幽霊。あれはマスターの作り話だったはず。つまりは無関係だ。誰か利用客を指して幽霊と揶揄しているのだろうか。だが透明人間というのは? 容姿について嘲っているのなら『透明』という単語は出てこないはずだ。見えない容姿を語ることはできない。

 引っかかる。それは秋子さんも同じだったようだ。見るからにうずうずしていた。やがて好奇心を抑え切れなくなったのか三人の輪に首を伸ばした。

「あの、幽霊って何のことですか?」

「なんだ秋子。幽霊のこと知りたいのか?」

 いきなり呼び捨てにされていた。彼女は気にせず頷いた。小学生の一人……と呼ばれていた子が顎をしゃくった。幽霊のところへ案内されるらしい。俺たちは黙ってついていく。と言ってもすぐそこだった。十秒もかからない。一番北側に位置するテーブルスペース。どういう理由かは知らないがここだけは通路の左右に席がなく東側のみ閲覧場所が設けられていた。書棚の影からこっそりと覗いた。一台のテーブルにはノートパソコンを叩く中学生くらいの女の子。もう一台のテーブルには……。

「……幽霊って、あれのこと?」

 神妙な視線の先には、別に何てことのない風景があった。広げられたままの書籍。広げられたままのノート。タブレット。ペンと消しゴム。傍らには黒猫が刺繍された筆箱が転がっている。持ち主は女性だろうか? 大学生か、同じくらいの年齢の。……と想像したのは他でもない。持ち主の姿が見えなかったからだ。持ち主は席を外していた。だが別に珍しいことではない。図書館ではよくある光景だ。

 困惑を隠せずにいると、たかちんが周囲の様子を窺った。そそくさと誰もいないテーブルに近付き開かれたままの本を持ち上げた。表紙を確認し元の位置に戻す。咎める暇もなかった。

「ジャスミンの魔女って本だった」

「……」

「戻ろうぜ」

 たかちんは秋子さんの手を握り引っ張っていく。自席で待つ二人と合流すると、席に着く俺たちに、やはり神妙な面持ちを向けてくる

「……どう思う?」

 テーブルの真ん中には三角の卓上プレートが据え付けられている。斜面には『長時間の離席はご遠慮ください。荷物を回収させていただく場合がございます』の脅し文句。確かあの席にも同じものが置かれていた。

 どう思うって言われても。

「……不用心な人だなあ、って」

「私もそう思いますけど」

 たかちんは「これだから素人は」と呆れ顔で頭を振った。なんだその舐め腐った態度は。

「まあ、そう考えるのも無理はない。俺たちでさえ最初は気付かなかったからな。でもな。あの筆箱を使ってるやつ。いつもここに来てるのに、いつ見ても席にいないんだよ」

「いつも?」

「ああ、いつもだ。気が付いてから三か月近くたつけど一度だって姿を見たことがない。でも席にはいるみたいで覗くたびに読んでる本が増えてたり、ページが変わっていたりする。奇妙な話だろ? 誰かはいるんだ。でも姿が見えない。俺たちはやつの姿を捉えようと監視を試みた。だが正体を突き止めることはできなかった。ふと目を離した隙にやっぱり本が変わっていたり、忽然と荷物が消えていたりする。無念にも作戦を断念せざるを得なかった俺たちは最終的にこう結論付けた。これは間違いなく……」

 たかちんは言葉を溜めた。秋子さんだろう。ごくりと唾を呑む音が聞こえた。たかちんは演出の効果が十分に行き渡ったことを確信してから物々しく言葉を繋いだ。

「幽霊の仕業に違いない、と」

「いや、俺は透明人間説を推す」

「やっちーは黙ってろよ」

 ぴしゃりと発言が封じられる。

 俺はと言えば、抜けた力がふわふわと天井へ浮かんでいくのをぼんやりと眺めてしまっていた。

「お、なんだ男女。その顔は信じてねーな」

「男女ってなんだよ。俺は男だ」

 マジで? と大袈裟に目を剥くたかちん。俺は一層脱力をする。

「そもそも幽霊はタブレット使わないだろ……」

「そんなこと言うなら、幽霊が本を読むかよ」

 いや、だから幽霊じゃないんじゃない?

 ゆーじんが「でもなあ」と腕組みをした。

「おかしなのはそれだけじゃないぜ? あいつが現れてから俺たちの荷物が勝手に動いてたこともあったよな? 席を空けてる間に」

「そーそー、開いてた本のページが変わってたりとか」

「確か、ノートに変な落書きがされてたこともあった」

「俺も俺も。テストの点が悪くなった」

「やっちー、それ関係ねー」

 三人は口々に恐怖体験を披露し始める。曰く壁のモナリザが微笑んだ。曰く便器の水が勝手に流れた。光あれと叫んだたらライトが点灯した等々。俺は既にアホらしさにげんなりとしていたのだが、秋子さんはしきりに「え、うそ……?」「やだ、怖いです」などと真面目腐って反応していた。面白いな、このひと。

 俺は、呆れつつも訊いてみた。

「ちなみに監視を諦めたのは何で?」

「いや、まあ、いくら見てても出てこなかったら。なんか飽きてきちゃって」

 まあ、そんなところだろう。

 予想通りの答えには満足もない。テーブルに肩肘を突き、どうやって話を切り上げようかと秋子さんを見やる。叱りつけた勢いはどこへやら。彼女はすっかり小学生の仲間だった。手持無沙汰に周囲を見やった。

 そして、ふと視界の端に動く影を捉えた。

「あ、クロエだ」

 発したのは俺ではない。ゆーじんだ。

 声につられ、全員の顔が一斉に動く。注意を攫ったのは書架に手を伸ばした一人の女性だった。クロエと呼ばれた彼女はびくりと髪を揺らし、肩越しに振り返った。ぼそりと唇の先が動いた。

「ゆ、……ゆーじんくん。こんにちは」

 若い女のひとだった。まだ二十代のどこかだろう。背が高く、すらりとした立ち姿は鶴や鷺を思わせる。そして、それらの鳥を人が仰ぎ見るように、一見して他者の目を惹きつける何かがあった。それは顔の造作かも知れないし、雰囲気のようなものかも知れない。ただひとつだけ明らかな理由があった。色だ。彼女は頭から爪先まで真っ黒だった。羽のように優美な長髪も、その下で張り付いているブラウスも、尖った靴も、スカートも。何から何まで黒ずくめ。それが古めかしい洋館に佇む様は、まるで……。 

「魔女だ」

 心に浮かんだ単語を、やっちーが声に変換する。

「魔女のクロエだ」

「クロエだ。おー、元気かー」

 たかちんたちが馴れ馴れしく話しかける。一方の相手からは親しさは返って来なかった。クロエ女史は明らかに狼狽えた様子で「呼び捨てにしないで」と抗議の声を上げた。だが訴える声は弱々しかった。彼女の手元には本の積み重ねられたカートがあった。胸元にはピン止めされたネームプレート。黒峰黒江くろみねくろえ。どうやらここの職員らしい。

 たかちんら三人は保母に集まる園児のように彼女を取り囲んだ。

「クロエー。今日も幽霊出たんだぜ」

「幽霊? あなたたちまたそんなこと言って……」

「クロエが黒魔術で召喚したんだろー? いい加減に白状しろよ」

「し、してません。何ですか。黒魔術って」

「嘘つけー。ネクロノミコンを使って呼び出したんだろー。地下室に鶏の血で描いた魔法陣があるの知ってるんだぜー」

「人聞きの悪いこと言わないでくださいっ」

 随分と慕われている。……と言うより舐められている。完全に格下のそれだ。だが無理もない。黒峰女史は小学生の一言一言にびくびくおどおどと縮こまっていた。本来であれば無作法を注意する立場だろうに、そんな強かさは微塵もない。

 子供は、自分より弱いと認識した相手にはどこまでも強者として振る舞える。相手を慮る心など備えていないし、備えていないからこそ子供なのだ。

 お気の毒にと同情していると、秋子さんが「あのう」と控えめに手を上げた。

「この子たちが言ってる幽霊って……?」

 彼女の外見に気後れでも感じたのか、黒峰女史はまたしてもびくりと肩を震わせた。そして、命乞いでもするかのように胸の前で手を合わせた。

「……荷物を置いて席を離れるひとは、どこにでもいます。この子たちが面白がって、騒ぎ立てているだけです」

 たかちんが「んだよー」と口を尖らせる。

「クロエー。お前まで信じてくれないのかよー」

「いるわけないでしょう。幽霊なんて。非科学的なでたらめです」

「だから透明人間だって」

「おい、やっちー」

 黒峰女史は、おずおずといった様子で俺たちに向き直った。まともに話せるのは俺たちだけと踏んだのかも知れない。ただ両脚はいつでも逃げられるように非常階段の方へ向けられていた。非常階段て。

「あ……あなたたちも、高校生、でしょう? 小学生と一緒に騒がないでください。他のお客様の迷惑になりますので。どうか、なにとぞ、おしずかに」

 注意されてしまった。注意する側だったのに。ただ注意するほうの黒江さんがあまりにも哀れな小動物だったので、むしろ申し訳ない気持ちが溢れてきた。すんませんと頭を下げた。

 素直に聞き入れる俺たちに、彼女は生の歓びを噛み締めるかのような安堵を浮かべた。しかし、その平穏も束の間だった。小さな肉食獣に唸り声を上げられ再び尻尾をくるりと巻いた。そうして弄ばれ続けて十数分。疲れ果てた彼女はカートに引きずられるようにして一階に戻った。たかちんらと言えば、その後も騒いだり黙ったりを繰り返していたが、一時間もしないうちにどこかへ消えた。館外へ遊びに出かけたのだろう。

 俺は一息を吐いた。

「やーっと静かになった」

「ですね。でも……」

 秋子さんが、決まり悪げにつぶやいた。

「何だか悪いことしちゃいました……」

 上目遣いに俺を見る。その瞳を見つめ返し、自身の言葉を振り返った。確かに、他人事のように言ってしまったかも知れない。微かに羞恥を覚え、頬を掻いた。

「まあね。あいつらの話に乗っかった俺も悪かったよ」

 そうして互いに苦笑を浮かべる。

 秋子さんは、そろりと背後を窺った。

「でも、ホントは何なんでしょうね、幽霊って」

 俺は、ペンを走らせながら答えた。

「何でもないよ。席を離れてるだけさ」

 でも……と腑に落ちていない秋子さん。ペン先に目を落としたまま疑問に答える。

「あの席はさ、他の場所と違って死角になってる」

「四角?」

「死角」

 顔を上げ、通路側に目を向けた。

「この席と違って通路の反対側に席がないだろ? 横切るときしか見えないってことさ。だから、たまたま中を覗いて座ってるひとがいなかったら、そして、そんなことが二度三度と続いたら……って話だろ? 今、席を見たらちゃんと誰かがペンを走らせてるさ」

「監視したけど姿が見えなかったとも言ってましたよ?」

「途中で飽きて辞めたくらいだ。最初からまともに見てやしないよ。そもそも、おかしいでしょ? 監視するまでもなく、あの席の隣にはひとがいるんだから」

「じゃあ、席を離れたときに荷物が動かされたというのは?」

「荷物の配置なんか誰もいちいち覚えちゃいない。記憶違い、もしくは動いてないのに動いたと言って騒ぎ立てて喜んでただけ。あの職員さんが言ってたとおりだよ」

「なるほど、成海さんに言われたらそんな気がしてきますね」

 秋子さんは素直に納得してくれる。俺も悪い気はしない。ただ俺の解説云々より単にこのひとが素直過ぎるからだろう。小学生の話でさえ真に受けてしまう。素直さは美徳だが不安を掻き立てられる面もある。

 もっとも今回に限っては自説が間違っているとも思わなかった。所詮は子供のお遊びだ。騒ぐほどのことではないだろう。再び資料に意識を戻した。

 そうしてまた三十分ほどたってのことだ。

「あれ?」

 背後で秋子さんがぽつりと漏らした。休憩がてらに席を立ち、書棚を眺めていたらしい。一冊の本を手に取りじっと表紙を睨んでいた。俺は、どうしたのかと尋ねてみた。

「これ、さっき幽霊さんが読んでた本です」

 表紙の面をこちらに向ける。『ジャスミンの魔女 南フランスの女性と呪術』

 口元に手を当たる。意味するところを考える。そして記憶を手繰り寄せる。

「……誰か返しに来た?」

「…………いいえ、誰も見てません」

 沈黙が落ちる。

 秋子さんは、半分笑うみたいに頬を引き攣らせた。

「透明人間?」

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