(6)幽霊なんて、いるわけない

「ちょっと待って、本当に誰も見てないの?」

「見てません。私の正面ですよ? 誰か来たら気付きます」

 それはそうだ。俺も同じだ。背後で人に立たれたら他意はなくとも居心地が悪い。あれからそんな居心地の悪さを感じたか? 答えはノーだ。

 秋子さんは、少しばかり考えたあと『ジャスミンの魔女』を手にしたまま北側へ足を向けた。俺も後ろに続く。くだんの席を二人で覗いてみた。

「……誰もいません。でも、別の本になっています」

 筆箱もノートも同じもの。しかし本だけが別のものに変わっていた。図鑑や事典の類だろうか。手元にある『ジャスミンの魔女』とは明らかにサイズが違っている。たかちんを真似してタイトルを確認する勇気はなかった。目視できる範囲で内容を推測しようと目を細めてみる。と隣の席でノーパソを叩いていた女の子にじろりと睨まれてしまった。俺たちは慌てて顔を引っ込めた。

 覗くたびに本が変わる。たかちんが言っていた通りだ。いや、それはいい。問題は、いつ本を書棚に戻したのかだ。真っ先にある可能性が頭に浮かんだ。それを口にする。

「二冊あるんじゃないの?」

 秋子さんは、肯定も否定もしなかった。代わりにこう返してきた。

「調べてみましょう」

 方法は簡単だ。一階に端末機が置いてある。タッチパネルをポチポチと押せば結果が表示されるまで一分とかからない。そして、その通りにやってみた。

「……一冊だけですよ」

「シリーズもので、別のナンバーと見間違えたとか」

「違います。この本は、この一冊だけです」

 つまり、書棚に収められていた本は間違いなく幽霊が読んでいたものということになる。だが返しにきたところは二人とも見ていない。いや、

「職員さん……クロエさんってひとが来てたよね。あのひとが戻したんじゃないの?」

 あのときは騒ぐ小学生に気を取られて彼女の行動までは意識していなかった。だがカートを突いていた、ということは本を戻しに来ていたということだ。

 秋子さんは、うーんと身体を左右に揺らした。

「でも、職員さんがカートで戻しにくるのは返却された本だけでしょう? 幽霊さんは館内で本を読むのに、貸出と返却の手続きを済ませたことになりませんか?」

「いや、以前に借りていたものを今日返却したのかも知れない。それならカートに入っていてもおかしくはないよ」

「……いえ、それも変ですよ」

 と視線を転じる。示された先にあったのはカウンターの横にあるブックトラックだ。雑多に書籍が突っ込まれ、最上部にはこう掲示されていた。『午後に返却された本』

「そうか。あのあと返却された本なら、あそこに収められてなきゃ確かに変だ」

 よく見れば『午後』の部分だけパネルの取り外しができるようになっている。恐らく『午前』と『午後』が切り替えられるのだろう。つまり黒峰女史が戻しに来たのは午前に返却された本。時間が遡ることになってしまう。

「だったら、クロエさんを呼び止めて戻しとくように頼んだんじゃ?」

「すぐそこですよ? 自分で戻せばいいじゃないですか」

 ……そうなんだよな。歩いたところで十秒もかからない。頼むほうが面倒だ。

 百歩譲って彼女に本を返しておくよう頼んだとしよう。しかし一方で幽霊は新しく本を持ち出してきている。ならば新しく本を取ってくるついでに返却しようとするのが普通ではないか? 人に頼む必要などどこにもない。

 本を返却したのは黒江さんではない。だが他に返しに来た人もいない。いや、そもそも前提を疑うべきなのだろうか? 俺と秋子さんが見落としていただけで、誰かが……。

 自問したところで確信はさほど揺らがなかった。浮かぶのはむしろ、ふわふわと漂う煙の塊。白い尾をたなびかせるそれは、螺旋を描きながら飛び回り、書架の前で女性の姿を形作る。音もなく。臭いもなく。見ることすら叶わない。ただ細く歪な指の先にはしっかりと書籍が絡めとられている……。

 考えていることは同じだろう。秋子さんは緊張に声を震わせた。

「まさか、本当に幽霊の仕業なんじゃないでしょうか……」

 俺は、まさかと笑ってみせた。

「魔女の幽霊はマスターの作り話でしょ? マリー・フラマンもフランスで大往生したって」

「海外出張でこっちまで飛んで来てるかも知れないじゃないですか!?」

「それもう別の霊を疑ったほうが良くない!?」

 秋子さんは、蒼ざめた表情で戦慄いた。「それに」と声を潜ませる。

「……成海さん。あの机を見たとき、何か違和感を覚えませんでしたか?」

「違和感? どんな?」

「私もよくわかりません。何かが欠けているような、人間味がないような……。とにかく、変な感じがしたんです」

 変な感じ。そう曖昧に言われても困ってしまう。しかし当の秋子さんが一番困惑しているようだ。胸の前で祈るように指を絡ませる。その姿が何だかほっそりとして見えた。俺は、苦く笑った。

「いないよ。幽霊なんて、いるわけがない」

「でもでも、成海さん~」

 なおも訴えかけてくる秋子さん。ずいと迫られた分だけ身を引き、胸中で繰り返す。

 幽霊なんているわけがない。必ず、見落としや紛れがあったはずだ。

 気付けば二人で同じものを眺めていた。カウンターの奧。新聞紙を整理する黒峰女史の姿があった。

「……職員さんに聞いてみます?」

「いや、一旦戻ろう」

 自席へ戻る際もう一度幽霊の席を覗いてみた。やはり誰もいなかった。だが一旦そう認識してしまったからだろうか。筆箱に刺繍された黒猫の柄が、何だか不気味な存在感を放っているように見えた。

 違和感。言われてみれば確かにそうだ。どこか違和感がある。何だろう。何が変なんだ?

 色褪せた書籍。真っ黒なタブレット。黒々と文字の這うノートに、筆記用具類。当たり前のものしかない。当たり前のものが揃っているはずだ。なのに、何かが足りない。

 正体を見出せぬままその場を後にした。それから各々の課題を再開したが集中できる理由もなかった。六時前まで漫然と時間を潰し、閉館のアナウンスを待たずに席を立った。帰り際、三度席を覗いてみた。机の上には何もなかった。最初から何も存在していなかったみたいに。

 夕方と呼ぶには明る過ぎる空に、月が浮かんでいた。ぽっかりとして、頼りなかった。秋子さんは、別れ際まで魔女です幽霊ですとやかましかった。


 翌日も俺たちは図書館に足を運んだ。勉強が目的だったがやはり幽霊の件が気になった。だが、例の席に幽霊の姿はなく、老人が一人本を読んでいるだけだった。何だか肩透かしを食らった気分だった。昨日とは別の席に陣取り、大人しく課題をこなす。途中、秋子さんがぽつりとつぶやいた。

「おかしいですね」

 俺は「何が?」と訊き返した。

「幽霊さん、あの子たちはいつも現れるって言ってたのに」

 そう言えば、と顎の先にペンを当てた。そもそも今日はあの三人組の姿もなかった。

「今日はお休みの日なんでしょうか?」

 小ぶりな頭が不思議そうに傾いていた。

 翌々日の木曜日は再びたかちんら三人が姿を見せていた。席が離れていたので話をすることはなかったが相変わらず黒峰女史をからかっていたようだ。その日は幽霊も現れていて、こっそり席を覗くと二日前とは別の本が開かれていた。隣にはノートパソコンの女子中学生。またじろりと睨まれてしまった。

 その次の金曜、そして土曜・日曜も館内を観察した。

 あの席に座っているのは誰なのか。どうやって書棚に本を戻したのか。

 何となくその正体が分かったような気がした。

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