(7)私はここにいる
翌週の火曜日、秋子さんを伴い例の席へ向かった。机の上には黒猫の筆箱。ペン。ノート。書籍。タブレット。席には誰も座っていない。テーブルに近寄り本を閉じる。さらにノートを畳み、筆記用具類とまとめて表紙に乗せた。一緒くたにして隣の席へひょいと移す。
「ほい、一人で二台も机を占領されちゃ困るな」
キーボードを叩く手がぴたりと止まった。彼女はディスプレイを静かに閉ざした。
「……何の話ですか?」
ノートパソコンを持ち込んでいた女の子だ。
眼鏡の奥から鋭い眼光で射抜いてくる。利発そうな子だった。感情を滲ませながら、その分量をしっかりと弁えている。理性と呼ぶべきだろう。
女の子は俺を見上げ、それから背後で成り行きを見守っている秋子さんに目を移した。
「あなた八色校の生徒ですよね? ……友達と一緒に歩いてるとこ、よく見かけます」
「え? あ、はい」
「私に何か御用でしょうか? 妙な言いがかりをつけてくるのなら職員の人を呼びますよ?」
はっきりとした態度だった。驚きと狼狽を見込んでいた俺は少々面食らってしまった。ひょっとして間違っているのは俺のほうではないか? 一瞬考えを改めそうになったが、浅く息を継いで気を鎮める。口の端を釣り上げ余裕を演じて見せた。
「とぼけるのはいいけど詰めが甘い。ノートに名前が書いてあるよ。
「え!? うそ」
慌て、手元を覗き込んでくる。俺はさっとノートを取り上げた。にっこりと笑う。
「ウソ」
「……どうやって私の名前を?」
彼女は、今度こそ戸惑ったようだ。僅かではあるが年相応の困惑が見えた。
返答に言葉は必要ない。俺は、肩越しに振り返った。
「……ごめんね、桐ちゃん」
「クロエさん」
質問の答えが、伏し目がちに姿を現した。
「蓋を開けてみれば……まあ、単純な話だったね」
俺たちは1階の応接室に移動していた。真ん中にローテーブルとソファが設けられ四人が対面で座っている。他の部屋同様、古風な洋館を模していて、座っているだけで大層な議論でも交しているような気分になってくる。だが対面の二人は叱りつけられる子供の体だ。魔女とも幽霊とも形容し難い。
秋子さんが、気まずそうに「えーと」と口を開いた。
「結局、二人が協力して、空いた席に人が座っているように見せかけてたってことですか?」
「そういうこと」
「どうしてまた?」
前の二人に尋ねたのだろう。だが彼女たちは居心地悪そうに身じろぎをするだけだった。代わりに俺が答えた。
「わからないかな。秋子さんだって被害に遭ったでしょ?」
ぴんと来ていないようだった。はてと首を捻る。その無自覚さが微笑ましかった。
「あの、騒がしい三人組だよ。たまったもんじゃない。隣の席に居座られるとさ」
「……隣の席を占領して、小学生たちを座らせないようにしていた?」
その通り、と指を向ける。
「幽霊があの席にしか現れないのもそれが理由さ。あの席は通路の反対側にテーブルがない。一席押さえておくだけでプライベートルームを確保できる。そうだろ、朝霧さん」
朝霧は、素直に首を縦に振った。
秋子さんが、もう一つ疑問を投げる。
「だったら黒峰さんは? どうしてそれに協力を?」
「簡単だよ。連中を注意しなくても良くなる」
「注意?」
「正確には苦情に対処しなきゃいけない回数が減る、かな」
黒峰さんに目を向けた。視線を逸らしたのは気弱な性格のせいばかりではないだろう。返事を待たずに話を進める。
「最初は朝霧さんが黒峰さんに訴えたんだろ? あの三人組がうるさいから黙らせてくれって。でも黒峰さんと三人組はあの通りの関係だ。注意をしたところで聞きゃしない。だから二人は協力をして一計を案じることにした」
「……ええ、その通りよ」
魔女が認める。観念したと言い換えてもいい。
「た、高砂くんの言う通り。私は、昔から人と話すが得意じゃなくて……特にああいうふうに大声で喚く子供なんて、どうすればいいのか全然わからないの。注意するのも慣れてないから、桐ちゃんにどうにかしてくれって言われてもどうしたらいいのかわからなくて」
「言い出したのは私のほうです。こうして席を確保して置けば私は静かでいられるし、黒峰さんも無理して注意しなくてもいいからって」
「桐ちゃんは悪くないわ。私がしっかりしていないのがいけないのよ」
黒峰さんが溜息を吐いた。その仕草だけで魔法の一つでも起こせそうだった。無論、気鬱が伝わってくるだけだったが。
「じゃあ、そうやっていつも二席確保してたんですか?」
秋子さんが、あっけらかんと尋ねた。黒峰さんは静かに否定する。
「いつもじゃないわ。あの子たちはスイミングスクールの生徒で決まった曜日にしか図書館には来ないの。夏休みの間は火・木・土の講習が終わったあと。逆に平日は講習が休みのときだけ。三人集まって時間を持て余したときに立ち寄るのが習慣になってたみたいね」
「そう言えばお揃いのナップサック持ってましたね」
そしてこうも言っていた。「夏休みに入ってから一回も外で泳いでいない」と。つまり屋内で泳ぐ機会はあったということだ。掲示板を確認すると講習場所は町内の温水プールだった。
「週三日やって来る子供らの騒音対策に余分な席を確保していたこと。それが当の子供たちの興味を引いてしまったこと。それが幽霊騒ぎの真相だったんだ」
「なら、いつの間にか本が返却されていたのは……」
「協力者の黒峰さんが置いてた本を戻しただけ。長時間の離席が他の職員の目に止まれば荷物を回収される可能性があるからね。本の交換や配置換えでちゃんと誰かが使ってるように見せかけてたのさ。その交換のタイミングが運悪く俺たちの目に止まったんだ」
なるほどと納得の表情を見せる秋子さん。一方、朝霧には解せない部分があったようだ。怪訝そうな顔で切り出した。
「でも、それって全部状況証拠ですよね? あの席をずっと監視してたわけでもないのに、どうしてフェイクだって確信できたんですか?」
俺は、にやりと笑ってやった。
「あの席には不自然なところがあったからね。気付いてなかった?」
朝霧は眉をひそめた。黒峰さんも似たような反応を見せる。
秋子さんは唇の下に指を添え、うーんと唸った。
「……私だったらノートを開きっ放しにして席は離れませんね」
「そうだね。そこも違和感がある。普通、席を離れるときはノートは閉じるもんだ。見られてまずくない中身だとしてもね。勉強は知識を内側に閉じ込める作業だ。自分の内側を勝手に覗かれたくはない、というのは普遍的な心理だと思う」
「面白いこと言いますね」
「でも俺が言いたいのはもっと単純で根本的な不足だよ。あの席には図書館に来るために必要な道具が決定的に欠けていた。思い出してみて。俺と秋子さんだってちゃんと持ってきてるよ?」
秋子さんは、少しばかり頭を抱えた。メトロノームみたいに身体を揺らし「筆箱、ペン、ノート……付箋? 電卓?」と指折りに道具を数え始める。しばらくそうして左右に振れていたが、やがて「あ!」と声を上げた。
「カバンがないです!」
俺は、頷いた。
「そう、図書館に勉強道具を持ってくるときはカバンに入れて持ってくる。そりゃ筆箱とノートを裸で持ってくることだってできるよ。でも、普通はそうはしない」
しまったと口を押さえたのは黒峰さんだ。朝霧はすかさず反論する。
「貴重品を持っていれば、席を離れるときだって持ち歩くでしょう?」
「だったらその中にタブレットが入っていないのは不自然だ。あれこそ個人情報の塊だろ?」
朝霧がぐっと言葉を詰まらせた。
「つまりは架空の第三者を演出することに頭がいっぱいで運搬の過程にまでは気が回らなかったんだ。ここにあるものを持ち運ぶだけなら、自分のバッグ一つで事足りるからね」
朝霧はなおも何か言い返そうと息を吸った。だが反論が思い浮かばなかったらしい。口を開いたり閉じたりしたあと、がっくりとうなだれた。
黒峰さんが、首を左右に振った。
「筆記用具類を私が用意しました。タブレットも個人的に使っていた型落ちのもので、データは全て消去しています。ノートは私的な研究用のもの。本は書き止める時々の内容に合ったものを選んでいたの」
「至れり尽くせりだね。どうしてそこまで?」
朝霧に快適な環境を提供してあげたところで根本的な問題の解決にはならない。彼女の不満はなくなるにしても他の利用客から同様の苦情が寄せられることは目に見えているからだ。対処療法にしては手間がかかり過ぎている。
黒峰さんは朝霧を窺った。朝霧は口を真横に結んでいたが、ややあってぽつりと答えた。
「……クロエさんが私を応援してくれているからです」
応援ですか、と秋子さん。
朝霧は足元に目をやった。視線の先にはノートパソコンがあった。
「私、小説を書いてるんです」
今度は俺がオウム返しをする番だった。
小説。
朝霧がちらりと俺を見た。だが何かを読み取るまでは至らなかったらしい。無表情に話を続けた。
「つまらない私の、数少ない楽しみです。元々は自分の部屋で書いていました。でも、ここ何か月かは家の隣がうるさくて集中できる環境にないんです。だからわざわざ図書館まで来てるのに、そこでもあんな小学生に騒がれて……腹が立って仕方がありませんでした」
朝霧の貌が自嘲に歪んだ。
「私は、学校ではそれこそ幽霊のような存在です。いてもいなくても誰も気にしません。誰も私を気にかけない。だから私に迷惑をかけていることにも誰も気付いてくれないんです。もちろん、はっきりと口に出さない私も悪いとは分かっています。でも中々、思う通りにはできません。私は書いた作品をネットで公開しています。皆さん、私の作品を読んで面白いって言ってくれるんです。私が私に成れるのは小説を書いているときだけで……だから、そんな私の時間を、誰にも邪魔されたくなかったんです」
そう言って彼女は目を伏せた。
俺は、不思議な気分に囚われていた。
気付けば、違う誰かが目の前にいた。細い肩。うなだれる頭。形が良いと評したのは、何も彼女が初めてではない。手を伸ばし、撫でてあげたい衝動に駆られた。
握る手に、力を込めた。
できるわけがない。その想いが、冷静な言葉を吐かせた。
「……理解はできるよ。でもマナー違反だな」
意識が、現実に引き戻された。眼前には、しゅんとする少女の姿。
彼女の腿に、庇うように手が添えられた。
「私も、桐ちゃんの気持ちはわかるの。私も同じだった。いても、いなくても誰も気にしなくて、だからこの子は応援してあげたくて……でも、図書館の職員として、問題よね。これは」
後ろめたい気持ちはずっとあったのだろう。黙認してくれとは言わなかった。代わりに俺たちに何かを求めているようだった。自分で幕を引きたくないという気持ちも、それはそれで理解できる。
意を汲み、軽く息を吸った。そのとき、
「じゃあ、桐さん。私のうちを貸しましょうか?」
こともなげに秋子さんが言った。二人は「え?」と声を揃えた。
彼女は、得意顔で胸を反らした。
「家が喫茶店なんです。知りませんか? 水宮の海沿いにある」
「確か『風祭』ですよね? 知ってます。あなたの家なんですか」
「ええ、お昼時以外はそんなにひとも来ませんし、静かなものですよ。自慢ですがコーヒーがすごく美味しいです」
返答に窮したのだろう。朝霧が瞳を揺らした。
と秋子さんは失言に気付いたように「あっ」と口許に手を当てた。
「コーヒーだけじゃないですよ? ティラミスもマカロンも美味しくて、あとあとチョコバナナサンデーなんかもやってます。自分の店のメニューなんですけど私これが大好きでよく自腹で食べてて最近はお小遣いがほとんどそれに消えてなくなるのでお父さんがもうあなたの小遣いはお金じゃなくて生クリームでいいんじゃないでしょうかって溜息吐いてるんですけど正直私もそれでいいんじゃないかなって」
「秋子さん、話が逸れてる」
秋子さんは、こほんと咳払いをした。笑みを作る。
「もちろん何も頼まなくたって大歓迎です。どうでしょう? 嫌じゃなければですけど」
朝霧は、黒峰さんを窺った。黒峰さんもまた判断に迷っているようだった。
しかし、やがて言うべきことが決まったらしい。微笑とも苦笑とも付かない表情を浮かべた。
「お言葉に甘えたら? いいお話だと思う」
「黒江さん」
「それに」
今度は、はっきりと微笑みかけた。
「いつまでも、あなたを幽霊のままにしておくわけにはいかないもの」
朝霧は、下唇をぎゅっと噛んだ。込み上げる何かを堪えるように。
しばらく、そうして目を伏せていたが、やがてすくと背筋を伸ばした。
秋子さんを正面から見つめ、深々と頭を下げた。
「是非ともよろしくお願いします」
俺たちは互いの顔を見た。秋子さんは照れ臭そうに笑った。俺も、口許が緩むのを自覚していた。朝霧は、今一度黒峰さんに向き直り、世話になった礼を言った。
「いいのよ。私はあなたのファンなんだもの」
少女の頭を、柔らかな手つきで撫でつける。朝霧は猫のように目を細めた。
「また新作が書けたら読ませてね、桐ちゃん。……ううん、みすと先生?」
「へ?」
俺は、間抜けに口を開いた。
こうして、朝霧桐は喫茶『風祭』に通うようになった。心地良い海の風景と、深みのあるブレンド。そして親切なマスターの笑顔に彼女は大変満足しているという。
窓辺の席で軽快にキーを叩く彼女を横目に秋子さんがぽつりと漏らした。
「……結局あの子たちが言ってたことって何だったんでしょうね」
「あの三人組?」
「ほら、本が動いたり、荷物が動いたりって……」
虚空で指をくるくると回す。
俺は、揺れる指先を眺めながら、気のない返事をした。
「それは、あいつらが勝手に騒いで喜んでただけだって」
「ええ、でも、ノートに変な落書きをされたことがあるって言ってましたよね? それも、気のせいなんでしょうか?」
「それは」
……何なのだろう?
朝霧に訊いてみたが心当たりはないらしい。黒峰さんも同じだった。気になった俺は、後日三人組にその落書きを見せて貰った。漢字の練習帳らしいそのノートには流暢な綴りでこう記されていた。
『Je suis ici』
私はここにいる。
見てはいけないものを見てしまった気がしたので、この話は誰にもしていない。
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