(6)縁
「お母さんは、どうして八色にきたんでしょうね」
池を覗き込みながら彼女は言った。水面では楓の葉が揺らめいている。
そろそろ参拝客が来始める頃だ。参道では屋台を並べた連中が首を長くして客の訪れを待っていた。この池の周りも時期にひとで溢れ返るだろう。ひっそりと佇むこの楓には参道を覆うそれとは違った趣がある。鮮やかな真紅の葉。それを映す水鏡。溜息の出る光景だった。
俺とマスターが黙ったままでいると、彼女は胸元のペンダントを手で掬った。
銀のクローバーのペンダント。母親の形見。
「お父さんの話では元々東京に住んでたひとなんでしょう? それが、どうしてわざわざこんな田舎まで。何か理由があったんでしょうか」
その疑問には一種の期待が込められているように思えた。
だがマスターの答えは淡泊なものだった。
「知人や親族はいなかったそうです。赤子を捨てるという後ろ暗いことをするわけですから、なるだけ離れた場所を選んだだけかも知れません」
淡々とそう告げる。しかし想像の範疇ではあったのだろう。秋子さんも大袈裟に落胆はせず、微かに苦笑するだけだった。するとマスターが「ですが」と言葉を翻した。
「彼女があなたをここに連れてきてくれたおかげで私とあなたは家族になれた。慶衣さんや鋼くんと知り合い、成海さんとも友人になれた。そして今日は呉葉姫の巫女として舞う。千年間、脈々と受け継がれてきた伝統をここであなたが担うのです。そこには確かな縁のようなものを感じます」
「縁……」
樹を仰ぎ見た。姫が神社に祀られてから千年を祝して植えられた楓の樹。一つの幹から分かれた枝葉はあらゆる方向へ手を伸ばし、秋を彩っていた。
そのさざめきに耳を傾けていると背後で誰かが砂利を踏んだ。慶衣さんだ。彼女は「よっ」と片手を上げる。秋子さんの前に立ち、呆れ混じりに片眉を上げた。
「あんたさ。昨日ピーピー泣いたらしいじゃん。あたしひとりぼっちなんですうとか言っちゃってさ。何? 悲劇のヒロイン気取り?」
「……!」
彼女は鋭く父親を睨んだ。マスターは素知らぬ顔で「しかし見事な紅葉ですねえ」などと嘯いていた。秋子さんは慶衣さんに向き直ると、ぶすっとして言った。
「泣いてなんかないです」
「うそ。泣いたんでしょ?」
「ピーピーなんか言ってないです!」
むうと頬を膨らませる。慶衣さんは「あっそ」と肩をすくめ、そして静かに片腕を上げた。
何だろう?
見上げていると高い場所で拳が固められ、そして……秋子さんの頭に拳骨が落ちた。
「!?」
ゴツンと鈍い音が響き、衝撃で頭が真下に沈んだ。
「痛った!? 痛った!??」
彼女は殴られた箇所を両手で押さえ目を白黒させた。一方の慶衣さんは振り下ろした手をぶらぶらさせる。
「おはよ。目ぇ覚めた?」
つんとした貌で言った。
「これで許してあげる。でも次に私はひとりだなんて言ったら絶対に許さないかんね」
秋子さんは言葉に詰まったようだ。両目をぱちくりさせていると慶衣さんが「わかった?」と念を押した。それでもしばらくは呆然としていたが、やがて困ったような……それでいてとても嬉しそうな表情で「うん」と頷いてみせた。痛みか。それ以外の理由か。彼女の目は潤み、光を反射していた。
慶衣さんは「よし!」と白い歯を見せ、親友の肩を抱いた。「ところでさ」と頬を寄せる。
「あんた返事はどーすんの? 返事」
秋子さんは涙目のまま訊き返した。
「返事? 何の話ですか」
「とぼけなさんな。昨日成海っちに告白されたんでしょ? 君が好きだーって」
きょとんとする秋子さん。ゆっくりとした動きでこちらに目を向けてくる。そのままフリーズして数秒。徐々に顔が赤く染まり、あわあわと忙しなく口を揺らした。
「ちちち……違うんです。あれは、そういう意味じゃなくて」
「いや、あんたは言われたほうでしょ」
「い、言われたほうですけど、違うんです!」
「え、意味わかんない」
うう、と弱り切った声が漏れる。これほどまでに茹で上がった顔は見たことがない。彼女は別の意味で泣きそうになりながら慶衣さんに向かって唾を飛ばした。
「違いますよね!?」
「だから、なんであたしに聞くのよ」
成海に聞きなと親指をクイクイさせる。秋子さんは上目遣いでこちらを見やり「違いますよね……?」と唇を動かした。
俺は、頭を傾けて空を見上げた。どこまでも清々しい秋空で、何だか嬉しさが込み上げてきた。にかりと笑って言ってやった。
「さあ、どうだろ?」
頭からぼっと湯気が噴き上がった。彼女は「ななな」と言葉を詰まらせたあと絞め殺さんばかりの勢いで掴みかかってきた。
「何言ってんですか成海さん~~~~!?」
「あっはっはっは」
「笑わないでください~~~~!」
がくがくと頭をシェイクされる。その反応はとても愉快だった。慶衣さんも、マスターも、すっかり安心したようだった。
そのときだった。揺れる視界にあるものが映り込んだ。池のほとり。植樹された楓の根元。今までも見えていなかったわけではないが、まるで意識をしていなかった。そこに刻まれた文字を認識した瞬間、脳に電流が奔った。
「ああ~~~~っ!?」
思わず叫んでしまっていた。秋子さんがびくりと肩を震わせる。その頭に疑問符が浮かびまくっていた。俺が両肩を掴むと、数はさらに倍増する。
「え? え……?」
秋子さんは「そんな、まだ心の準備が」と狼狽を見せた。祈るように手を組み合わせ、ぎゅっと目をつぶった。
「いや、あれを見てよ秋子さん!」
秋子さんは「へ?」と間抜けな声を出した。俺が指差すほうへ目を向ける。だがよく分からなかったらしい。それと俺を交互に見比べる。俺はポケットからスマホを取り出し一枚の画像を表示させた。画面を突きつけたが、やはりピンとこなかったようだ。混乱した様子で画像と俺を見比べた。
「ほら、ここ!」
表示されていたのは秋子さんの母親……ヨハンナさんらしきひとが映った写真だ。茅野に頼んで画像を取り込ませて貰っていたのだ。写真の中央にはカメラに向かってぎこちなく微笑む女性の姿。そして、その背後には……。
「楓だ。あの写真には植樹された楓の木が写ってる」
まだ気付かないらしい。秋子さんは、それがどうしたと言わんばかりの顔をする。俺はもう一度木の根元……植樹の記念碑を指差した。
「でも、それはおかしいんだ。あの木が植樹されたのは平成十二年十一月九日、十四年前だ。秋子さんが捨てられた三年後の秋祭りなんだよ。お母さんの写真に……十七年前に死んだお母さんの写真に、この木が映っているはずがない」
「えと、それって……え?」
「貸してください」
割って入ってきたマスターがスマホを取り上げた。そう言えば彼にはまだ写真を見せていなかった。マスターは割れんばかりにディスプレイを凝視し、声を戦慄かせた。
「誰ですか、これは……?」
眼球を揺らす。亡霊でも見たかのように。
「ヨハンナさんではありません。源三さんに写真を見せて貰ったことがあるのです。こんなひとではなかった。こんな……秋子さんにそっくりなひとでは……しかし」
私にも見せてと慶衣さんが身体を寄せてきた。彼女もまた画面と秋子さんを見比べ「ホントだ」と驚きの声を漏らす。未だ理解が追い付いていない華奢な肩を、俺はもう一度正面から掴んだ。
「生きてるんだ。生きてるんだよ! 秋子さんの本当のお母さんは、死んじゃいないんだ!」
「生きてる? お母さんが?」
「そうだよ! 生きてるんだ!」
だったら……ヨハンナという女性は誰なのか? そもそも写真の女性は本当に秋子さんの母親なのか? 分からない。けど希望はある。それに写真の女性がここに来たのは偶然なんだろうか? 探してるんじゃないか? 秋子さんのことを。
まだ実感が湧かないらしい。秋子さんは放心したように自分の胸を指で差した。
「じゃあ、私は一体誰なんでしょう……?」
俺たちは顔を見合わせた。
浮かぶ答えはみんな同じだったみたいだ。自然と顔が綻んだ。
「さあ、誰でも良いんじゃない?」
秋子さんはきょとりと瞬いた。その口許に徐々に笑みが広がっていく。
やがてさっぱりとした顔で「そうですね」と微笑んだ。
千早を羽織った秋子さんが会場に現れたとき広場を囲う参拝客から大きなどよめきが起こった。シャッターを切る音があちこちで響く。彼女は群衆の好奇をしっかりと受け止めるような足取りで広場の中央へ歩み出た。拝殿に向かって膝を折る。儀式の始まりを待つ彼女の周囲で皆が口々に外人だ白人だとざわめいた。彼女は緊張しているようだった。一方でその緊張を楽しんでいる雰囲気も伝わってきた。見物客の一画から「秋子がんばれー」と声援が上がった。誕生会で騒いでいた連中だろう。彼女は笑い返したように見えた。
最初に宮司が祝詞を読み上げ、次に行われたのが楓の葉を会場に撒くことだった。場を清める意味があるらしい。四方八方に、色付いた葉が散らされ白い石畳が真っ赤に染まった。この頃になると見物客らは静まり返り、真紅の絨毯に座する彼女をじっと見守っていた。やがて彼女は張りつめた空気をすっと分け入るように紅葉の葉を踏みしめた。進む先には八足台があり、採り物である扇と鈴が置かれている。彼女は台の前でもう一度膝を着いて二つの礼、二つの拍手を打った。最後にもう一度頭を下げたあと採り物に手を伸ばした。右手に扇、左手に鈴。立ち上がり、それらを持つ腕を大きく広げた。瞬間、場の空気が一変したように感じた。誰もが言葉を忘れ彼女の所作に魅入っていた。左手がしゃらりと鈴を鳴らした。
巫女舞と聞いて、俺はもっと厳かなものを想像していた。たとえば八乙女の舞のようなゆったりとして優雅な舞を。全然違った。彼女は開いた扇を縦横無尽に振い、舞台の真ん中でくるくると廻っていた。右に廻り、左に廻り、また右に廻る。激しく衣装をはためかせながら、それを何度も繰り返す。時に腕を天に翳し、時に鹿のように跳躍した。太鼓と銅拍子のリズムに乗って弧を描くその姿は舞と言うよりダンスに近かった。見る者を楽しませ、自然と笑顔にさせてしまうリズミカルなダンスだ。ほんのさっきまで固唾を呑んでいた見物客の口許にいつの間にか笑みが戻っていた。振り乱した袴で紅い葉が舞い上がったときは「おお」と大きな歓声が上がった。
彼女の舞を眺めていて俺はあることに気が付いた。いや、多くの見物客が気付かずとも見えていたのではないか? それは振り付けに秘密があった。いずれも華麗な動作ではあったが、よくよく観察してみるとそこに欠落が見て取れるのだ。半身で扇を差し伸べる仕草。回転の軌道。視線の位置。全ての振り付けが彼女一人では完成していない。常に相方の存在が意識されている。つまり呉葉風流舞とは本来二人一組で舞うものだ。だが実際に舞っているのは巫女ひとり。人々はそこにもうひとりの姿を見る。欠けた視界を補うように舞い踊るもうひとりの姿を想像する。金色の巫女と、風の色をした少女。彼女たちは視線を交し、リズムに合わせて鈴を鳴らした。遊ぶみたいに舞い踊っていた。やがて二人の回転は速度を速め軌道を狭めながら収束していく。そして最後に大きく飛び跳ねたとき、二つの影が一つに重なった。
太鼓が止み、あとには少女の息遣いだけが残った。俯く彼女の前髪からすっと雫が流れ落ちるのが見えた。彼女は面を上げ、その表情が満足に彩られているのを認めたとき、人々から万雷の拍手が送られた。
神輿に乗せられた秋子さんは行列を引き連れて町を巡った。姫の魂をその身に宿し、生き神となった彼女。……なのだが驚くことに立ち振る舞いが普段と全然変わらなかった。知り合いを見かけると神輿の上から手を振ったり、カメラを向けられると笑顔でピースしたりしていた。威厳も何もあったものではない。いくら何でも自由過ぎないかと苦笑いが出たがマスター曰く「このお祭りはこれでいい」らしい。姫は自由奔放に振る舞って良いのだと。
見物客の誰かがこう呟くのが聞こえた。
「まるで本物の呉葉姫のようだ」
本物の呉葉姫を見たことあるのかよと可笑しくなった。でも不思議と納得してしまった。もしかしたらそうなのかも知れない。彼女は神輿の上で「はいはーい、私が呉葉姫でーす」と大きく手を上げていた。
秋空の下、町の人たちに笑顔を振り撒いた姫の一行は、御旅所を折り返し、無事に神社に帰還した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます