(5)過ごした時間

 概要はこうだ。十一月九日の午後十時頃、大藍橋の袂で一台の車が炎上しているところを通りかかった住民が発見。警察と消防に連絡を入れた。駆けつけた消防隊員が鎮火にあたり火はすぐに消し止められたが焼け焦げた車の中から一人の遺体を発見。車内に残されていた持ち物などからドイツ国籍のヨハンナ・ホーネックさんと判明。目撃者はなく事故現場の状況などからハンドル操作を誤り欄干に衝突したものと見られる。

「……よく分からないのは、その後のことだ」

 文字の羅列から目を離した。

「秋子さんの母親がこのドイツ人なら身元は分かっているだろ? 旦那さんか、国元の家族に連絡が行って……誰か引き取ってくれるとしたものじゃないの?」

「ええ、通常はそうなるでしょうね。ただヨハンナさんには結婚歴も、出産記録もなかったのですよ」

「それって」

 マスターはこくりと頷いた。

「秋子さんは私生児です。父親も、いつどこで生まれたのかも分かりません」

 私生児。聞き慣れない言葉が嫌に強く耳に残った。彼は静かに続けた。

「事故現場が御旅所からそう離れてはいなかったこと。八色では珍しい外国人であったこと。赤ん坊を連れた姿が目撃されていたこと。車内に育児用品が積まれていたこと。そうした状況から彼女が母親であろうことは裏付けるものがない限り身元不明の棄児として、以前お話しした通り日本人としての国籍が与えられます。恐らくは」

 続きを口にすべきか迷ったようだ。言葉を区切った。だが、

「……恐らくは、望まれて生まれた子供ではなかったのでしょう」

 結局はそう結んだ。言葉の重みに耐えかねたようだった。そして後は知っての通りだと言った。秋子さんは乳児院に預けられた。哀れに想ったマスターは養女として彼女を引き取ることに決めた。二十歳そこそこの青年が、子育ての勝手も分からないまま、身を粉にして父親を演じた。両親に助けられ、周囲の人間に助けられ、娘として大切に育て上げた。

「しかし、母親ことだけはどうしても伝えられなかった……」

 虚空を見上げ、くたびれた声を吐き出した。

「血が繋がっていないことは早い時期から明かしていました。見た目が違うのだからその説明は避けられない。ですが母親に関しては何か事情があったのだろうとしか伝えませんでした。ええ、欺瞞ですよ。しかし……どうして言えます? あなたは父親も分からない子供で母から疎まれて捨てられたのかも知れないなどと。あの子は未だに両親と再会できる日を夢に見ているのです」

 恐らくその判断には……彼自身の境遇も大いに影響していたのだろう。以前マスターは教えてくれた。自分もまた親に捨てられた孤児であると。いつか両親と再会できる日を心の支えにしていたと。そして、現実を知ったと。

「あなたは私が彼女の自由を奪っていると言った。でも誤解しないでください。私は何もあの子をお人形のようにいつまでも手元に置いておきたくて母親のことを黙っていたのではありません。私は本当にただ……あの子に傷付いて欲しくなかったのです」

 沈黙が落ちた。静寂が耳に痛かった。

 音を立てること憚られも、慎重に息を継いだ、そのときだった。

 背後でチリンとベルが鳴った。

「秋子さん」

 秋子さんが、何気ない調子で店のなかに入ってきた。安っぽいコンビニ袋を提げ、本当にただ家に帰ってきたみたいに。だが換気のために開いた窓と、一言も発しない彼女の顔を見たとき、それの意味するところを察した。彼女はパーティーの残骸を見回した。食べかけのケーキが残った小皿。壁に掲げられた横断幕。『HAPPY BIRTHDAY』

 最後に首を傾けた。

「うそ、ですよね? お父さん」

 幼子のように問いかける。ともすれば遠慮がちとも取れる口調で。

 マスターは、気まずげに俯くだけで何の答えも用意できなかった。

「成海さんも」

 胸元のペンダントを握り、訊いてくる。

「うそですよね? お母さんがもう死んでるだなんて」

 彼女は口の両端を持ち上げていた。そんな表情をすれば、何もかも上手くいくと信じているかのように。嘘という言葉にすがれば、自分の聞いた全てが本当でなくなると信じているかのように。

 でも彼女の期待に応えられるほど、俺も、マスターも、狡猾ではなかった。

 やがて口許から笑みが消えた。コンビニの袋が力なく落ちる。

 グラスが粉々に砕け散ったような、途轍もない喪失感に襲われた。

「聞いてくれ、秋子さん」

 堪らずそう切り出した。彼女は何の反応も示さなかった。幽霊のような足取りで俺の前を通り過ぎた。床に散らばった紙テープを無造作に踏みつけ、ふらふらと階段へ吸い寄せられていく。追いかけ、その手首を掴んだ。

「秋子さんっ」

 彼女は身体を反転させた。糸の切れた人形みたいに。

 その瞳から……真夏の海みたいに透き通った瞳から、ふるふると感情が溢れていた。

 口許にはまた、歪な笑みが浮かんでいた。

「成海さん、わた……し」

 声が哀れに擦れていた。

「わ、わた……し、ひとりで……ひ、ひと……ひとりで、おとうさん、お、おかあさん、死んでて、私、要らない子で……成海さん、わたし」

 厭々をするように頭を振った。その動きに金色の髪が翻弄された。

「わたし、ひとりなんです。私には、誰もいないんです。お母さんは私を捨てた。世界で、たったひとりなんです。私だけが……」

 白い肌を、涙が伝った。

「私だけが、みんなと違う!」

 手が振り払われた。スカートを翻して階段を駆け上がる。俺はすぐさま後を追った。昇り切ると土間があって、続く廊下に靴が脱ぎ捨てられていた。足音は居間を過ぎ奥の部屋へ遠ざかっていく。バタンと勢いよく扉が閉ざされた。俺は部屋の前へ急いだ。木製の扉に『あきこ』と書かれたプレートが吊るされている。ドアノブを握ったが固い感触しか返ってこない。無駄だと諦めドアを叩いた。

「秋子さん!」

 返事はない。繰り返したが同じだった。俺は、無機質な硬さに拳を押し当てた。

 柔らかな彼女の手の感触を思い出すと胸が張り裂けそうだった。

「ごめん、秋子さん。こんな形で伝えるつもりじゃなかった。もっと秋子さんが受け止められるように……いや、伝えられることは一緒だけど……でも、もっと違う形で伝えたかった。ごめんよ。こんな突然。でも……でもさ」

 声を張り上げた。

「らしくないよ。秋子さん。こんなの全然秋子さんらしくない」

 反応はない。でも構わなかった。届くと信じた。

「秋子さん言ったよね? 毎日が楽しいって。みんながいるこの町のことが大好きだって。自分が何者かなんてどうでもいいって! 俺が……この町を好きだって言ったこと、絶対に忘れないって」

 胸元を掴んだ。その奥に刻み込んだ、温かなものを掴んだ。

「俺だってそうさ。忘れないよ。秋子さんが言ってくれたことを絶対に忘れない。俺と一緒にいることが楽しいって言ってくれたこと、絶対に忘れたりなんかしない。それにさ覚えてる? 秋子さんといるときは楽だって言ったこと。俺を姉ちゃんの弟として見なかったからって。でも……違うんだ。楽だったんじゃない。本当は、俺も同じだった」

 伝えたいことは同じだった。

「楽しかった! この町に来て君と一緒に過ごした時間は本当に楽しかった! そのことは、俺も絶対に忘れたりなんかしない!」

 あの日、秋子さんが俺の手を握ってくれたから。

 いつも楽しそうに笑っていてくれたから。

 君がいたから。

 俺は、俺でいいと、そう思えるようになったんだ。

「君が好きだ。みんなだってそうだ。マスターも。慶衣さんも。鋼さんも。茅野も。桐ちゃんも。今日来てくれた騒がしいやつらに、黒江さん。じいちゃんだって……。みんな君の笑ってる顔が大好きなんだ。だから独りだなんて、孤独だなんて、そんな寂しいことは言わないでくれよ」

 目元をこすり、笑ってみせた。

「笑ってくれよ秋子さん。秋子さんは秋子さんだろ? 明るくて、楽しくて、ちょっと食い意地が張ってる秋子さんだろ? 君が自分を見失っても俺がそれを知ってる。ちゃんと君のことを知ってるから」

 だから……。

 願った。祈るよりも、ずっと強く。

 言葉が扉に染み込むには充分過ぎる時間がたった。やがてカチリと音が響き、控えめにドアが引かれた。僅かに開いた戸の隙間から彼女は半眼で睨んできた。

「……食い意地は余計です」

 沈黙。

 真面目腐った顔で見つめ合う。そして数秒。互いにぷっと吹き出した。

 堪え切れなかった。くつくつと肩を震わせ両腕で腹を抱えた。確かにあんまりな一言だ。我ながら何を言ってるんだと涙が溢れてきた。彼女は、ひとしきり笑ったあと「あーおかしい」と目元を拭った。その余韻を残したまま言った。

「はい。私は私です」

 それは満面の笑みとはいかなかったけれど確かに俺の知る秋子さんの笑顔だった。

 そして彼女はまた「ふふ」っと肩を揺らした。

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