(4)彼と、彼女の権利

「慶衣さん、少し窓を開けて貰えますか? 空気を入れ替えたいので」

 慶衣さんは取っ手に手をかけた。空いた隙間から賑やかな声が聞こえてくる。外の連中はまだ騒ぎ足りないらしい。コンビニへ中華まんを買いに行くそうだ。とは言え、全体的にはやり切った顔のひとたちが多いのでそのまま解散という流れになりそうだった。

 ひとり片付けを手伝っていた慶衣さんがマスターに遠慮がちな視線を向けた。

「本当に良いの? あと任せて」

 マスターは布巾を手に鷹揚な笑みを浮かべた。

「ええ。今日は仕事ではないのですから。秋子さんと一緒にいてあげてください」

「……ありがと宗助さん。お土産に秋子に何か持たせるからね」

 店の外で秋子さんが「慶衣さん、成海さん、はやくー」と呼び掛けてくる。慶衣さんはハイハイと応じて爪先を向けた。が、ふと気付いて振り返った。

「? どしたの、成海? 秋子待ってるよ」

 俺は、ごめんと片手を上げた。

「実はマスターと明日のことで打ち合わせがあるんだ。片付けを手伝いながら話すから、それが終わったら家に帰るよ。それでいいんだよねマスター?」

 マスターは台を拭く手を止め怪訝そうに見つめてきた。だが俺が目を逸らさないでいると、やがて「ええ」と頷いた。

「そうでしたね。成海さんとは少し話さなければならないことがあるのでした。秋子さんにもそう伝えておいてください」

「そなの?」

 慶衣さんは訝しんだようだ。でも、それ以上は何も言わなかった。「じゃああとはお願いね」と言い残し、扉のベルを鳴らした。


 宴が終わった店内に俺とマスターの二人だけが残った。彼は淡々と食器類を重ねていた。陶器の触れ合う音が不必要に大きく聞こえる。きっと今までが騒がし過ぎたのだ。俺はただ黙って働く手を眺めていた。

「イタリアという国は家族の絆がとても強いそうです」

 不意にマスターがそんなことを言った。

「現代においても数世代がひとつ屋根の下で暮らしていることは珍しくない。家族を中心に物事を考え、家族のためならば何だってする。何にでも成る……。私の養父は、そんな彼らの在り方に感銘を受けイタリア料理を学んだそうです」

 積み重ねた皿の上にナイフを乗せた。こちらに向き穏やかな表情を浮かべる。

「それで、私に話とは?」

「……単刀直入に言うよ。神社の盃を隠したのはマスターだろ?」

 彼は、動揺は見せなかった。ただ少しだけ首を傾けた。

「何を根拠に?」

「とぼけなくていいよ。あのとき盃を隠すことができる人間はマスターしかいなかった」

「外部の人間の仕業でしょう。たまたま境内に入ってきた何者かが目についたものを盗み、後ろめたくなって放置した。私はそう考えていますが」

「だったら誰もいない打ち合わせの時間を狙わなかったのは変だ」

「なら打ち合わせのあとで境内に来たのでしょう」

「無理だよ」

「なぜ?」

 軽く息を吸った。

。俺たち遅刻してきただろ? 待ち合わせの場所を間違えてたんだ。打ち合わせが始まる前からね。俺は正面。秋子さんは東側の坂道。境内の入口は俺たち二人の監視下にあった。保証するよ。境内は密室だ。外から入ってきたひとなんて一人もいなかった」

 いずれのルートを通っても拝殿までは数分程度。俺たちが待機していた八時五十分以前に入ってきたのだとしたら打ち合わせが終わる九時五分までには斎館の近くにいることができたはずだ。だが犯人は無人の時間に何もせず、人が動き始めたあとに犯行に及んでいる。実に不可解な話だ。

 マスターは嘆息した。聞き分けのない子供の相手をしている態度だった。

「分かりました。その線はひとまず置きましょう。ですが境内は準備の人間で入り乱れていました。誰もが平等に斎館に忍び込む機会があったはずです」

「ないね。誰も盗む機会なんてなかった。役割と状況を整理していけばそれは分かるさ」

 準備の従事者は全部三十四名。境内飾り付け八名。幟・祭具準備十名。衣装準備・着付け六名。直会の準備七名。監督・指示に宮司一家三名。

「まずは鋼さん含む境内の飾り付け八名。あのひとたちとは階段ですれ違った。俺がこの目で確認したから間違いない。すれ違ったのは十分過ぎだったから盃がなくなった二十分頃には既に境内にいなかった」

「境内には幟の運搬をしていたひとたちが大勢いました」

「幟・祭具の運搬十名。蔵の中で指示を出していた宮司を含めれば十一名だね。でもマスター、知っての通りあのひとたちは長い丸太を運んでた。。一人欠けたら絶対に誰か気付くんだよ。相方がいなくなるからね」

「……共犯なら? 二人同時にいなくなれば他の組には分からないでしょう」

「基本的には蔵とトラックの往復作業だ。二人もいなくなれば宮司が気付く。それに……荷台で丸太を受け取ってたのはマスターだろ? 丸太をマスターに引き渡したあと斎館のほうへ行ったひとが一人でもいた?」

 マスターは答えなかった。その沈黙が答えだと思った。

 ちなみに参道ですれ違った二人組もいた。時間的に忍び込む余裕はあったかも知れないが彼らが犯人である可能性は極めて低い。あの二人もまた丸太を運搬していた。あんな目立つものを抱えたまま盗みを働くとは思えないし、何より彼らはこんなやり取りをしていた

『社務所ってどこっすか』

『さっき入った建モンだよ』

 直前に入った建物が斎館なら弟分の彼は斎館へ向かったはずだ。二人が斎館と社務所の両方に立ち入っていたのなら、もう少し問答が続いていたはずだ。彼は迷わず社務所へ向かった。そういうことだ。

 マスターの口許から余裕が消えた。

「儀式殿には衣装を用意していた女性たちがいたはずです」

「衣装準備・着付け六名。無理だね。奧さんが言ってたろ? あのときは衣装に破れが見つかって大慌てでチェックをしてた。抜け出せるタイミングじゃなかったはずだ。そうなると残りは直会準備の七名。でも慶衣さんたちは盃がなくなった時刻には既に買い出しに出発しているし俺と秋子さんは遅刻。奥さんは盃の持ち主だから当然除外。嘉時さんもずっとマスターと一緒に行動してたからやっぱり除外。ほら、マスターしかいない」

「アリバイがあるのは私も同じでしょう。打ち合わせが終わってからはずっと嘉時さんと一緒でした。そのとき彼が紙箱の存在を確認しています。二人で幟の運搬を手伝い、斎館に盃を取りに戻った際も、奥さんがずっと私の動きを見ていたと仰っている。私がいつ盃の入った紙箱を持ち出したと言うのですか?」

「別に持ち出す必要なんてないだろ」

 一拍置いて続ける。

「そのまま斎館の中に隠せばいい。最初に言ったじゃないか。のはマスターだって」

「それこそ、どうやって? 斎館のなかにあの大きさの紙箱を綺麗に隠せるスペースがありましたか? 奧さんが様子を見にいらっしゃったのも直後のことです。隠す場所も時間もない。実際、奥さんが屋内を確認されましたが何も見つかりませんでした。その後はずっと貴方たちと一緒でしたね。秋子さんが色々探し回っていたようですが、やはり何も見つからなかったでしょう?」

「ああ見つからなかった。でも、できるさ。。所詮は紙箱なんだ。千切って小さくするなんて簡単な作業だ。盃だって同じだ。取り出して別のものに……たとえばマスターが持ってたナップサックにでも詰め込んでおけば誰も気付かないだろ?」

「待ってください」

 マスターは両の手のひらをこちらに向けた。辛抱強そうに。

「待ってください。おかしいでしょう? 盃はともかく箱はどうするのです? 盃はきちんと箱に入った状態で戻ってきた。私にはバラバラに千切った箱を元にも戻すことなんてできませんよ」

「どうとでもできるだろ。海月堂に行って同じサイズの箱を買うなり貰うなりすればいいんだから。でも俺は元々マスターが持ってたものを使ったんだと考えてるよ。悪いとは思ったけど……さっきトイレに行ったついでに納戸のなかを見させて貰った。前に見た海月堂の箱がなくなってた」

「成海さん、貴方は……」

 彼は、苦々しく口を歪めた。

「忘れ物を取りに戻るって言ったときだろ。盃をここに持ち帰ったのは。ナップサックに入れて持ち帰って納戸の紙箱に移し換える。千切った箱は廃棄。あとは移し換えた紙箱を公園に置いて何食わぬ顔で斎館に戻ってくる」

「……貴方の仰ることが正しいとしましょう。すると私は、宴会に使うだけの盃を隠し、間を置かずして返却したことになる。盃は換えの利くものでなくなったところで準備には何の支障もない。私は何のためにそんな馬鹿馬鹿しい真似をしなければならなかったのです?」

「いや、マスターはきっちり目的のものを盗み取ったのさ。誰も気が付いてないだけだ」

「盃は全て揃っていました」

「盃はね。でもマスターが盗みたかったものはそれじゃない」

 俺は、自分が座っていた席に目を向けた。テーブルは食べ終わった皿でいっぱいになっている。桐ちゃんより茅野のほうが残さず綺麗に平らげているのが少し意外だった。俺の皿と見比べても全然綺麗だ。両親の躾が良いのだろうか。まあ、それはどうでもいい。

 座っていた椅子に近付き、背もたれのバッグに手を伸ばした。

「……小さい頃から、秋子さんには図書館に行くなって言ってたそうだね。魔女の幽霊が出るからって」

 ファスナーを開き、空いた隙間に手を挿し入れた。

「スマホは与えてないし、パソコンも触らせないって聞いた。電子機器に触らせたくないって教育方針は……まあ、一応は理解できる。でも図書館は? 無関心な親はごまんといるだろうけど遠ざけるなんて聞いたことがない。何か都合の悪いものでもあるのかなって思った。図書館。スマホ。パソコン。それらに共通するものは何か?」

 まさか、と呻く声が聞こえた。

「情報さ。マスターはから秋子さんを遠ざけて置きたかったんだろ」

 掴み出したものを、よく見えるように翳した。

。あんたはこいつを隠したかったんだ」

 これはコピーだけどね。そう付け加えたが聞こえたかどうかは分からなかった。

「もちろん、こんなもの大概の人間には価値がない。古臭いだけの紙クズさ。でも新聞である以上は記事が載っている。あんたはそれを見られたくなかった。じゃあ、あのときこの記事を目にする可能性があったのは誰か? 俺か、秋子さん。いや、そもそも誰にも見せたくなかったんだろうけど……取り分け、秋子さんに見せたくなかったんだろ?」

 マスターは俺が持つ記事を凝視している。穴を開けんばかりに。

「多分、打ち合わせの前……秋子さんが俺を迎えに境内を降りた直後ぐらいに、この日付の新聞を見つけたんだ。そしてそのとき盃を隠した。何事もなければ打ち合わせで離れている間に俺たちが帰ってくる可能性が高かったから。盃は一つ一つが個別に包装されていて該当する記事がどこにあるのか探している暇はない。そこで一旦すべての盃をナップサックに隠した。あとでこっそり検めるつもりだったんだろう。マスターにとって想定外だったのは、そのあと奥さんにもう一度中身を確かめさせてくれと頼まれたことだ。奥さんが引き取ってくれれば問題ない。でも、やっぱりこれでとゴーサインが出たら……俺たちの目に触れる可能性がある。だから仕方なく紛失したことにした」

 これが、あまりにも無意味な盗難事件の真相だ。細かな部分は違っているかも知れない。だが当たらずとも遠からずと言ったところだろう。沈黙するマスターの態度がそれを裏付けている。俺はそう捉えた。

 彼は疲労を見せつけるように深々と嘆息した。

「……成海さん。これが最後の質問です。貴方は何がしたくて私にそれを突きつけるのです?」

 口調こそ変わらなかった。でもマスターの声にはそれまでと違う感情が滲み出していた。威嚇するように質問を重ねた。

「それを暴くことに何の意味が? 探偵気取りで得意顔をするためですか? 自分は答えに辿り着いたと見せびらかしたいのですか? その浅はかな行動によって、あの子が傷付くとは考えないのですか?」

 迫ってくる。追い込むように。

「貴方に、それをする権利があるのですか?」

 責め立てられ、一瞬怯んだ。だが……。

 俺は、拳を強く握り締めた。

「……ガキだからって馬鹿にしないでくれ。俺にだってわかるよ。秋子さんが傷付くことぐらい。でも」

 紙を持つ手を振るった。

「こんなの可哀想だろ!? マスターこそ何の権利があって秋子さんに本当のことを言わないんだよ!? 本当のことを何も知らせないまま、ありもしない幻想を追いかけさせるような……そんな生き方をあのひとにさせるつもりなのかよ!?」

「……私は、あの子の親です」

「親が子供を好き勝手にしていい権利なんてないっ!」

 叫び、睨み返した。

 彼もまた無言のまま見据えてくる。

 そのとき脳裏を過ぎったのは呉葉姫の伝説だった。開けてはいけない玉手箱を開けたばかりに波に呑まれてしまった哀れな少女。彼女は知らなかったのだろうか? 箱の中に何が封印されていたのか。

 瞼の裏側で思い描き、そして開いた。

「……マスター。俺さ、やっぱり作家になるって決めたよ」

 彼は困惑したようだ。眉間に皺を寄せた。

「結構なことです。それが特別なことだとも思いませんが、それで貴方が満足されるのなら」

「違う。そうじゃない」

 頭を振って否定する。

「特別だとか……他人に認めて貰いたいとか、そんなことはどうでもいい。人に追い詰められて生き方を決めるような真似はもうやめた。

 あのひとのために、物語を綴ってみたいと、そう思えたから。

「秋子さんだって同じだ。あのひとが何を選ぶのかは、あのひと自身が決めれば良い。本当のことを知って、それでも幻想にすがる生き方を選ぶのなら、それでもいいんだ。でも……。こんなのは選ぶ自由すら奪ってる」

 薄っぺらな紙が、手の中でくしゃりと音を立てた。

「俺たちは何かに成る必要なんてない。それでも、選ぶ権利は常にあるんだ」

 そして何より……信じたかった。秋子さんのことを。

 毎日を楽しんでいられる彼女の心を。

 秋子さんの、楽しい日常を。

 俺は。

 マスターは……観念したように瞳を閉ざした。そしてもう一度深く溜息を吐き、手近の椅子に身体を沈めた。うなだれ、膝の間で指を組んだ。

 俺は、手元の紙を見下ろした。マスターが隠したかった新聞記事。そのコピー。日付は推測できた。秋子さんが近いものを見つけたから。

『これなんか私の誕生日の二日前ですよ』

 誕生日。実際は彼女が拾われた日だ。関連があるならその前後だと思った。祭りの準備が終わったあと図書館へ出向いて当時の記事を見せて貰った。三日分の地元紙の隅から隅まで目を通したが関係がありそうな記事はこれしかなかった。

 平成九年十一月十日。十七年前の秋子さんの誕生日。その翌日の夕刊。

「鋼さんが話していた怪談ってさ。この事故が噂の元になってるんじゃないの」

「……そんなことまで気が付いていたのですか」

「マスターの反応が、不自然だったから」

 マスターは鋼さんに八色の悪評を広めるなと苦言を言っていた。一方で自分は図書館の幽霊話で秋子さんを怖がらせたりしている。矛盾だ。それは大橋の怪談を広められることが彼にとって都合が悪かったからだ。

「ええ、貴方の仰る通りです」

 床に目を落としたまま、認めた。

「あの子の母親は既に亡くなっています。十七年前の、あの夜に」

 八色町県道で交通事故。ドイツ人女性が死亡。

 記事の見出しには、そう書かれていた。

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