第6話 Astaire
(1)前日
腕時計を見た。
時刻は九時五分。もうそろそろ六分か。待ち合わせの時刻はとうに過ぎてしまった。
背後では境内に続く階段が見えなくなるまで連なっている。スマホを取り出し画面に触れようとしたところで、そうだったと気が付いた。彼女は携帯を持っていないのだ。ジャージのポケットに筐体を突っ込み、朝の空気を取り込んだ。口のなかがひんやりとする。動きやすい格好という指定があったので厚着は控えたのだが、もう一枚ぐらい羽織って来ても良かったかも知れない。石畳に座ってじっとしていると多少の肌寒さを覚える。長袖をさすった。
海辺から続く参道には人っ子ひとり見当たらない。もう全員集合しているのだろう。まあ、俺が遅れたところで文句は出まい。所詮は外野に過ぎない。大した労働力にもならないし、そもそも顔を覚えられていない。でも彼女たちはどうだろう。いたずらに遅れるようなひとではないはずだが。寝坊しそうな彼女はともかく、少なくともマスターは。
改めて参道に目を向ける。左右に並ぶ楓の木はすっかり秋色に染め上げられていた。海まで続く石畳。目の覚めるような紅。見事だった。待ち惚けを食わされてもちっとも平気でいられるのは眼前の光景があるからだろう。幾万枚の扇の葉が深紅の天蓋を作り出している。その鮮やかさはあるものを連想させた。
血だ。鮮血の色。
しかし不快ではなかった。それどころか安らぐような懐かしさを感じた。以前にもこんな光景を見た記憶がある。子供の頃。いや、それよりも前……。
「あれ? お前、成海か?」
意識が現実に引き戻された。振り返ると段ボールを抱えた数名の男がぞろぞろと石段から降りて来ていた。そのなかに見知った顔が一人。
「鋼さん」
坊主頭に声をかけた。向こうも「久しぶり」と応じてくる。九月に会ったときから全然変わっていない。だが向こうはそうは思わなかったようだ。面白げに片眉を上げた。
「髪切ったのか? 随分さっぱりしたな」
短くなった頭を撫でた。
「うん。いい加減、鬱陶しかったから」
「おう、前以上に男らしくなったぜ」
親指を立てて白い歯を溢す。その反応に自然と口許が緩んだ。
彼と一緒にいるのは全部で七名。段の途中にめいめい散らばっていた。抱えた荷を下ろし箱のなかに手を突っ込んでいる。縦に折り畳まれたぼんぼりだった。階段の両端に飾り付けるのだろう。彼もまた足元に荷を下ろした。
「もう点呼も終わってんぞ。お前だけだぜ。いなかったの」
「秋子さんは?」
「そう言や秋子もいなかったな。でも境内でばたばたしてんのは見たよ。宗助さんも来てる」
「神社の入口で待ち合わせのはずだったんだけど」
「東口じゃねえの? こっちにゃ来てないと思うぞ」
松林のある公園、そこへ下る坂道を思い出した。
東口で待ち合わせなんて言ってたっけ?
記憶を手繰ろうとしたが、やめた。秋子さんのことだ。盛大に場所を間違えていたとしても驚きはしない。鋼さんは「待ち合わせですれ違いとか昭和のドラマかよ」と笑った。昭和のドラマを観たことがないのでその喩えはよく分からなかった。何にせよ境内へ上がるのが正解らしい。礼を言って階段に足をかけた。後方で「今の子誰?」と話す声が聞こえた。「クソジジイんとこの」「ああ、お孫さん? 鋼、お前顔面負けてんじゃん」「は? 俺の顔面は常に完全勝利なんだが?」「いや、勝ってる部品一個もねーよ」 何だか可笑しなやり取りだった。
少し上がったところで背後から再び声をかけられた。
「成海―、今晩のこと聞いてんよなー?」
「うん、六時からだよね?」
「早めに来いよ。積もる話もあるってもんだろ?」
俺は「そうだね」と笑い返した。顔を上げ、またひとつ段を上がった。繰り返して何百歩。ようやく入口の鳥居が見えた。最後にもう一度後ろを振り返った。
海原が見えた。空は高く、大気は澄み渡っていた。雲はどこまでも流れていきそうだ。遠くに聞こえる波の音に耳を澄ましていると景色に白い影が見えた。心地よい潮風に乗って羽ばたいた翼は、頭の上で穏やかに鳴くと社のほうへ飛び去って行った。誘われるように境内の鳥居をくぐった。
呉葉神社の秋祭り。正式な名称は呉葉風流祭りというらしい。千年続く歴史ある神事で、祭神である呉葉姫が村の人たちに福を授けたという縁起を儀式化したものだそうだ。
神事はまず姫の魂を御神体から巫女の身体へ移すことから始まる。巫女として選ばれた少女が採り物を手に舞い踊ることで姫の魂を降臨させるための
そして、姫役として主役を飾るのが、
「成海さ~んっ」
境内の奧から慌ただしく走ってきた少女、秋子さんだ。
彼女は、駆けつけるなり膝に手を突き、ぜえはあと息を整えた。
「ごめんなさい。私、待ち合わせ場所ちゃんと伝えてなくて。待ったんじゃないですか!?」
「十五分ぐらいかな? 鋼さんが境内にいるって」
「五十分には坂の下に降りてたんです。でも、いつまで経っても誰も来ないからおかしいなって……。私、東口って言ってませんでしたよね!? 言ってませんでしたよね!?」
「うん、神社の入口としか聞いてなかったね」
「わ~、すみませ~んっ」
面を上げ、すがりつくように手を伸ばしてくる。そこで、ぴたりと動きを止めた。海色の瞳がぱちぱちと瞬く。知らない誰かを目にしたみたいに。
もしかして今頃気が付いたのだろうか?
相変わらずだなと口許が綻んだ。
「久しぶり、秋子さん。文化祭のとき以来だね」
気を落ち着かせようとしたのか、彼女は一旦瞳を閉ざした。身体の前で手を重ね、すくと背筋を伸ばした。
「はい、あのときはお世話になりました。大変でしたね」
「うん、大変だった」
下から覗くように首を傾けてくる。
「髪、切ったんですね」
「うん。似合ってるかな?」
頭のてっぺんに手を当てた。
彼女は「はい、とても」と微笑んでくれた。
それから拝殿に辿り着くまでの数分間、紅葉を楽しみながら互いの近況を報告し合った。
数か月で起こることなど高が知れている。一番のニュースが小説を最後まで書き上げたというものだった。「是非読ませて欲しい」と喜んでくれたので応募までには必ずそうすると約束した。彼女は「楽しみにしてします」と目を細めた。
「……秋子さんのほうはどう?」
彼女は「巫女舞ですか?」と呑気そうに訊き返してくる。
「それはもうバッチリ! って言いたいとこですけど昨日も手順を間違えてしまって。いやはや明日が不安です」
「いや、そっちじゃなくて……」
察したのだろう。明るい顔が微かに曇った。答えはそれで十分だった。彼女はなおも明るさを取り繕うとした。でも無駄だと諦めたのか苦笑を見せた。左右に首を振った。
「いえ、花彩さんのお母さんは知らないみたいです。叔父さまも」
「マスターは?」
「少し、聞きづらくて」
それはそうだと納得する。デリケートな問題だ。慎重にならざるを得ない。家庭の問題というものはいつだって慎重にならざるを得ない。
目指す拝殿はまだ見えない。
茅野から連絡を受けたあの日、俺はすぐに『風祭』へ向かった。伝えるだけなら電話一本で済んだ。でもそれで済ますべき内容ではないと思った。開店に向けてテーブルを拭いていた秋子さんを連れ出し茅野に聞かされたことをそのまま伝えた。お母さんの写真が残っていると。あのとき彼女が見せた表情は今でもはっきり覚えている。胸元の小さなペンダントを潰れんばかりに握り締めていた。すぐにでも飛び出してしまいそうな様子ではあったが相手がいることなのでそれはできなかった。隣町から茅野が来るのを待ち、くだんの叔父の家に向かったのは午後になってからだった。
「これが……」
色褪せた写真を手に取った秋子さんは、静かにそれだけをつぶやいた。
「……ホントだ。そっくりだね」
写真の中で佇む女性は、確かに秋子さんと瓜二つだった。
茅野が言っていたとおり場所は呉葉神社の境内だろう。絵の隠し場所と勘違いした池のほとりだ。背景の楓が紅葉していることから秋頃に撮られた写真であることが分かる。紅葉柄の着物を着たその女性は、どこか気品のある立ち姿でカメラを真っ直ぐに見つめていた。一応笑みは浮かべているのだが緊張のせいか少し強張っていた。年齢は二十代前半だろう。秋子さんが少し齢を重ねればこんなふうになるのかも知れない。母親と言うより姉のように見えた。
血縁を示すものはひとつもない。でも心のどこかに確信めいたものがあり、それは秋子さんも同じようだった。間違いなくこのひとは秋子さんの親族だ。
「この写真はどこに?」
尋ねると茅野は部屋の片隅を指差した。
「タンスの引き出し。他の写真と一緒にこれに入ってたの」
手元にあるのは大きめの封筒だった。底の部分が、分かる程度に膨らんでいた。
「母……が、写っているものはこれだけですか?」
「そうみたい。他のは普通の風景写真とかだった」
「身元が分かるものは? おじいさまとの関係とか……」
「うーん、探せばあるかもだけど」
腕を組みながらタンスを見やる。中の状態は御察しということだろうか。いや待て。
「電話で二十年ぐらい前の写真って言ってたよね? 見たところ日付は印字されてないみたいだけど」
「ああ、それなら」
と封筒を裏返した。書き殴りに近い筆跡で日付が記載されている。『H8~H12撮影』 一番古くて十八年前。
「や、それもわかんない。もっと前に亡くなったはずのおばあちゃんの写真も入ってたし。たぶんあとからこの封筒にまとめたんじゃないかな」
「なにもわからないってわけだ」
「仕方ないじゃん」
茅野はムッとして眉を寄せた。別に責めたつもりはないのだが。
「花彩さんの御両親は? 何か知っているということは」
「どうだろ。その頃お母さんは県外にいたはずだから。叔父さんは何か知ってるかもだけど、どこにいるかわかんないし……。あ、お母さんなら連絡取れるのかな? 帰ったら聞いてみるよ」
秋子さんは、お願いしますと頭を下げた。
そうしてまた写真に釘付けになる。その横顔からは喜びも戸惑いも読み取れない。写真に魂を取られたみたいに母親らしき女性を見つめている。茅野が声を柔らかくした。
「気持ちは分かるよ。やっぱり会いたいよね。家族なんだもの。あたしもできる限りのことはやってみる。叔父さんの手紙を見つけてくれたのは秋子さんだから」
茅野は「大船に乗ったつもりで!」と胸を叩いた。
秋子さんは、ありがとうございますと茅野の言葉を受け入れた。
しかし、そう簡単な話でもなかったようだ。
叔父の家を探してみても身元が分かるようなものは見つからず母親と叔父も何も知らなかった。親戚筋にも当たってみるらしいが期待できるかは微妙なところだ。
「仕方ないですよ。何しろ二十年も前のことですから」
秋子さんは、さっぱりとした調子で言った。
「もしかしたら通りすがりに写真のモデルになって貰っただけなのかも知れません」
表向きは落胆した様子はなかった。だがそんなはずはないとも思った。つまりは既に立ち直ったあとなのだろう。俺は、スマホを覗いた。
「本格的に探そうと思ったら興信所に依頼するのが一番なのかな。ネットで情報を募るって手もあるけど何が引っかかるか分からないし」
「あまりひとに話すようなことでもないですから。それに聞くならまずは周りからです」
「境内で撮られた写真だから、宮司さんなら何か分かるかも知れないね」
「いずれにしても、お父さんに相談してからでないと……」
そうだねと返事をしたところで、ふと気が付いた。参道の奧に人影が見えた。若い二人組の男がえっほえっほと小走りでやって来る。二人で一本の丸太を抱えていた。丸い幹を支える腕は筋骨隆々で見るからに漁師という風貌だった。たぶん漁師だと思う。二人はそのまま俺たちの脇を通り過ぎていく。すれ違いざま、秋子さんがにこりと会釈をすると無言のまま顎をしゃくった。片方の男が俺を睨んでいったように見えたが、気のせいだろうか。
「……あんな長い丸太、何に使うの?」
「参道に大きな幟を立てるんですよ。あちこちに立てなきゃいけないので結構大変です」
そう言えばそんな係もあったなとポケットからプリントを取り出す。じいちゃん経由でマスターから預かったものだ。律儀にも準備に従事するひとの一覧と役割が書かれてある。
境内を飾り付ける係は先に階段ですれ違ったひとたちだろう。丸太を運んでいた二人は幟・祭具準備。境内の奧にまだ八人残っていることになる。
「俺たちは直会の準備だっけ。何すればいいの?」
「
「自分で調理したものを自分で食べるのね」
「食べるのは飽くまで姫ですから。……ふふ、カツオの刺身にイワシの干物。鯛、蟹、海老にウルメのお寿司……うふふ、うふふふふ」
「秋子さん、よだれよだれ」
はっと正気に戻るお姫さま。
神様を身に宿す前にしっかりと禊をする必要がありそうだ。
「慶衣さんと山下さんってひとが一緒の係だね」
「慶衣さんはおじさまと一緒に来ています。山下さんは若いご夫婦ですね。最近慶衣さんちの近所に引っ越してきた方で地元に馴染もうと色々頑張ってくれてるみたいです。四人とも十分ぐらい前に坂の下ですれ違いましたよ。車で買い出しに出かけるそうです。何を隠そう、そのとき慶衣さんに指摘されるまで待ち合わせ場所を伝えていなかったという考えに至りませんでした」
「それは隠そうよ」
腕時計に目を落とした。時刻は九時二十三分。もう二十分以上の遅刻だ。直会準備の担当者は七名。四人が買い出しに出かけ、二人がここにいるのだから……。
「マスターが一人で準備してるってこと? まずいじゃん」
「う、それもそうですね……」
拝殿はもうすぐそこだった。授与所と末社を過ぎると拝殿前の広場があり敷地の西側に複数の車が停車してある。うち最も大きなトラックの荷台に漁師ふうの男たちが慌ただしく丸太を積み込んでいた。坂道を降りて参道や御旅所に幟を立てに行くのだそうだ。力仕事だなと眺めていると先ほどすれ違った二人組が舞い戻ってきた。片方の男が「針金ってどこにあんだ?」と手近なひとりの肩を掴んだ。捕まえられたほうは「知らねえよ。社務所じゃねえか」とけんもほろろな態度を取る。男は軽く舌打ちすると「お前聞いてこい」と隣の男に顎をしゃくった。弟分らしきその青年は「社務所ってどこっすか?」と顎を掻いた。兄貴分は「さっき入った建てモンだよ」とその背中を叩く。彼は「うっす」と頷いてから社務所の方向へ走って行った。
忙しさからか、いささか殺気立った雰囲気がある。幸いなことに俺と秋子さんは直会係なので反対側にある斎館へ向かった。場所は拝殿を前にして右側。公園へ降りる坂道のすぐ脇だ。斎館などと呼ばれているが二階建ての民家みたいなものだ。その玄関の先に、
「ん?」
四人の人間が集まっていた。一人はマスター。もう一人は神社の宮司。あとは年配の女性と、眼鏡をかけた中年の男性。宮司の妻と息子だろうと思った。四人とも難しそうな顔で何やら話し込んでいる。
「何かあったんでしょうか?」
近付くと会話の断片が聞こえてきた。「お前が出し忘れてるだけじゃないのか?」「ちゃんと出しましたよ。ねえ宗助さん?」「ええ、確かにお預かりしました」「そうだね。打ち合わせのあとにも見かけたよ。玄関に置いてあった」「ならどうしてなくなっているんだ?」「知るもんですか」
どうやら何かを紛失してしまったらしい。
「どうかしたんですか、お父さん?」
秋子さんが割り込むと四人の視線が一斉にこちらに向いた。
「ああ、秋子さん。それに成海さんも。お久しぶりです」
俺は、久しぶりと頭を下げ宮司ら三人に名前を告げた。俺がいなくても特に問題はなかったようで遅刻についての言及はなかった。代わりにマスターが眉根を寄せた。
「それが、盃の入った箱が見当たらないのですよ」
「さっき社務所から運び込んだやつですか?」
マスターは「ええ」と頷き、開いた格子戸に目を配った。薄暗い玄関の先で無造作に紙箱が積み上げられていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます