(4)もっと、大切なこと

 すぐに帰ってくる。その言葉とは裏腹に秋子さんは四十分近く戻ってこなかった。港の方々を探し回っていたのだろう。ビーチハウスに姿を見せたときには膝に手を付いて荒く息を吐いていた。俺は汗だくの彼女にペットボトルを手渡した。中身はすっかり温くなっていた。

「どうだった?」

 秋子さんは、一気に半分ほどまで飲み干したあと口許を拭った。

「……駄目です。近くにいた、漁師さんに訊いてみましたけど、親子連れなんて、見てないって。誰に聞いても、同じでした」

 息も絶え絶えにそう答える。顎の先からぽたりと汗の雫が垂れた。点々と広がる黒い跡を見ながら俺はやはりと納得していた。『まる』が浮子を指しているのならバツや二重丸は何なのか? その説明が全く付かない。女の子の口ぶりからするに恐らくどれも別の場所だ。だが関連がなければ並べて口にすることもないはずだ。

 辛抱強く話を聞いてみるべきだったのかも知れない。ビーチハウスを睨んでいると、何か動きはあったかと尋ねられた。

「十分くらい前にもう一回アナウンスがあったよ。そのあと受付の人に確認したけどやっぱり来てないって」

「そんな、どうして……」

「秋子さん、この暑さだ。ちょっとは休みなよ」

 でも、と言い返してくるが口調と動きがどこか覚束ない。支えようと背中に当てた手がぐっしょりと汗で濡れた。信じられない量だった。俺は、座らせようと腕を引いたが秋子さんは振り払う仕草を見せた。そのままどこかへ向かおうとする。

「秋子さん、休まなきゃ」

「……駄目です。早く見つけてあげないと。でなきゃ、あの子が」

「あとは警察の出番だ。秋子さんが無理することないって言ってるんだよ!」

 彼女は、なおも振り払おうとする。

 そのときビーチハウスの硝子戸が開いた。笑いながら出てきたのは二人の若い男だった。真っ黒に焼けた肌と、不自然なまでに黄色い髪。胸元と指でシルバーのアクセサリーが光っている。無意識に息を止めてしまった。男たちはそのまま通り過ぎていくかと思いきや、ぐるりとこちらに首を動かした。人目も憚らず「うおっ」と獣みたいな声を出した。

「いきなりすっげー美少女! しかも二人!」

 黄色髪のほうが大袈裟に両手を上げた。もう一人、顎髭の生えた男が「おっほ」と奇妙な声を出した。

「マジだ。メッチャスタイル良いじゃん。ねえねえ? 君、日本語大丈夫?」

 無遠慮に距離を詰めてくる。意識してかせざるか、俺と秋子さんを囲むような位置に立った。秋子さんは、朦朧とした目で上背のある二人を見上げた。

「あの……ごめんなさい。今、急いでるんです」

 弱々しい口調だった。怯えているわけではない。そもそも誰と話しているのかも分かっていないのではないか。そんなことを思ってしまうほど頼りない声だった。だが男たちに慮る意識はなかった。馬鹿の一つ覚えみたいに「おおっ」と大袈裟な反応を示す。

「日本語うっま! こっち来て長いの? ペラペラじゃん」

「あー、こっちの彼女は日本人かな? キミ誰かに似てるねえ。誰だろ? ねえ、誰か有名人に似てるって言われたことない?」

 顎髭が、無造作に俺の肩に手を伸ばしてくる。左手で遮り、頭を下げた、

「すみません、本当に急いでるんです。このひと体調が悪くて。……行こう、秋子さん」

「えー? そんな冷たいこと言わないでよ。俺が触診してあげよっか?」

「つか、そっちの娘アキコって言うの? 何その名前? 帰化なの?」

 薄ら笑いを浮かべる顎髭。もう一方の黄色髪は相方の言葉にきょとんとしていた。

「は? キカ? キカって何よ」

「バッカお前、帰化も知らねえのかよ。あり得ねえ。小学何年生だよ」

 黄色髪は「いやいやいや」とオーバーに手を振った。

「フツー知らねえって。常識的に考えて。キカって何よ」

「お前マジか? 国籍法っつーのがあるんだよ。ガイジンが国籍取って日本人になったってこと。ガイジンだけど日本人なの」

「ガイジンだけど日本人? は? わかんね。この娘、日本人じゃないっしょ?」

「ちげえの! この娘は日本人なの! ガイジンだけど日本人なの! ああもう、ごめんねー? こいつバカだからねー?」

 顎髭はウインクし軽薄な調子で片手を上げてくる。指に嵌めた銀の指輪が太陽光でぎらりと光った。鬱陶しかった。でも秋子さんには見えていなかっただろう。彼女は目を伏せ、下唇を噛んでいた。握った手を震わせていた。微かに……それでも確かに。秋子さんは。

 滲んできたのは怒りだった。悔しさだった。哀しさだった。そして何より……羞恥を感じていた。強く、強く、恥を覚えていた。情けなくて上着の胸元を破れるほどに掴んだ。

 男たちは何も知ろうとはしていなかった。顎髭が「そうだ」と手を叩いた。

「君たちさ、この馬鹿に帰化のことを教えてやってくんないかな? どう?」

 黄色髪が「おっ」と目尻を下げる。

「いいね、ナイスアイデア。アキコちゃんの生まれた国のこと教えてよ。オレ馬鹿だからさ」

「そうそう。調子悪かったら中で休みながらでもいいから。ね? そうしよ?」

「そもそも、君ってどこの国のひとなの? アメリカ? ヨーロッパ?」

「だから日本だっつってんだろ。つかヨーロッパは国じゃねえよ」

 そーだっけ? とゲラゲラ笑う。耳障りな声だった。顎髭はひとしきり口を歪めたあと秋子さんに近づいた。そして、

「いいでしょ。ほら、行こうよ」

 秋子さんの手首を掴んだ。震える手を、強引に。

 瞬間、目の前が真っ赤になった。

 気付けば、男の手を叩き落としていた。

「いい加減にしろよ、お前らッ!!」

 焼けた胸板を両手で突いた。よろめき、唖然とする男に向かって叫んだ。

「さっきから、何なんだよ!? どうでもいいだろ、そんなことは! この娘が誰で、どこで生まれたかなんて。どうでもいいだろ、そんなことは!」

 熱くて。恥ずかしくて。それを掻き消したくて。

「日本語が上手いからって何なんだよ。英語ができないからって何なんだよ!? それで何か決まるのか? この娘の何かが決まるのかよ!? そんなことより大事なことがこの娘にはあるんだ。もっともっと大切なことがこの娘にはあるんだ! この娘のことを見ようともしないくせに……」

 引き千切れんばかりに、絶叫した。

「勝手なことばっか言ってんじゃねえよッ!」

 肺が引き攣り、盛大に咳き込んだ。

 あとには静けさが残った。えずく音だけが響いていた。

 二人の男に、行き交う人々。視線の全てが自分に注がれているのを感じていた。でもどうでもよかった。去来する過去の記憶ほど恥ずべきものなどなかった。隣で、俺を呼ぶ声が聞こえた。顎髭が困惑したように毒づいた。

「んだよ、急に……」

「つうかちょっと待て。こいつ、もしかして、おと……」

「おうよ。よく言った成海」

 男たちの肩が背後からまとめて抱え込まれた。ぎょっとする首の間で坊主頭が犬歯をちらつかせていた。

「さすが俺の見込んだ男だ」

「鋼さん……」

 いなくなっていた鋼さんだ。彼は俺を安心させるように笑ったあと、その眼差しを鋭くした。二人の男が「いっ!」と短く悲鳴を上げた。肩に指を喰い込ませたようだ。逃れるように身を捩ったが筋の浮く腕がそれを許さなかった。鋼さんは二人をがっしり掴んだまま交互にねめつけた。

「秋子と二人でどこほっつき歩いてんのかと思ったらよ、またチャラいのに絡まれてんなあ?」

 歯を剥く顎髭。その耳元で囁く。

「なあ、おにーさん方。そっちの二人より俺らと遊ばねえか?」

「てめ……っ、なん……?」

「そうしようぜ。いいだろ慶衣?」

「いいわよー?」

 と鋼さんの背後から現れたのは慶衣さんだった。どこで手に入れたのか左手には西瓜の小玉、右手には木刀を握っていた。慶衣さんは、男たちをぐるりと迂回し俺と秋子さんを庇うような位置に立った。そして背筋の凍りつくような、耳を疑うような猫撫で声を発した。

「じゃあおにいさんたち~。うちらと西瓜割りしよっかあ?」

 西瓜がふっと宙に浮いた。次の瞬間「ぱんっ」と簡単な音が弾けた。果実がごとりと地面に落ちる。慶衣さんの左右にひとつずつ。血肉のような断面を曝していた。

「あ、でも割れちゃったね?」

 病気みたく青ざめる二人。俺も、我が目を疑った。

 ……いつ木刀を振ったんだ?

 鋼さんだけが「お~」と感心を口にした。

「さすが景色流剣術道場の跡継ぎ。錆びないねえ」

「うるさいよ。私は継がないって言ってんだろ」

 一転、鉄色の声でぴしゃりと黙らせる。慶衣さんは「さて」と素足を踏み出した。拘束された男たちは後退ることもできない。迫りくる猛獣を前にただただ目を剥いていた。と再び風を切る音が聞こえた。慶衣さんが木刀を振った、と気付いたのは、黄色い糸くずが宙を舞ったからだ。馬鹿を自称していた男の髪が一部不自然に途切れていた。よく見ると隣の男の顎髭も。男たちはあんぐりと口を開けることしかできなかった。

 凪いだ刀を肩に担ぎ、慶衣さんがさっぱりと言った。

「次は何を割ろっか?」


「ありがとう、慶衣さん、鋼さん。助かったよ」

 回れ右でビーチハウスに逃げ込んでいく男二人。中指で見送っていた鋼さんが「おうよ」と応えた。

「お前も大丈夫か、成海」

「うん、俺は何ともないよ。それより、秋子さんが……」

 そう言って秋子さんの顔を覗いたときだ。俯いていた身体がぐらりと傾いた。ずり落ちる腕を咄嗟に掴む。その手に彼女の体重の大半がかかっていることに気付き慌てて身体を抱き留めた。がくりと後頭部が落ちる。

「!? 秋子さん? 秋子さんッ」

 半開きになった口。瞳は力なく閉ざされていた。

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