(3)おかあさんはまるのところ

 秋子さんの反応は驚くべきものだった。俺が「あ」と口を開いた瞬間には数メートル先へ駆け出していた。女児が呑まれた場所まで五十メートルはあるだろう。その距離を持ち前の俊足でぐんぐんと走り抜けていく。いつか犬を追いかけたときとは比べものにならない。木の幹もなければ、スカートも穿いていない。しなやか彼女の脚を邪魔するものは何もなかった。風のように砂浜を疾走し、数秒後には小さな身体を抱き留めていた。

 慌ててあとを追った。秋子さんは抱えた子供を波打ち際から遠ざけていた。

「何ともありませんか!?」

 叫ぶ。が、何ともないのは見れば分かった。服がびしょびしょに濡れているだけだ。自分の身に何が起こったのかも理解できていないだろう。平然とした顔で、むしろ大声を上げる秋子さんに驚いていた。

 秋子さんがこちらを振り返った。その瞳には安堵があった。彼女はもう一度女児に向き直り砂の付いた頬を指で拭った。子供はされるがままだった。三歳くらいだろうか。突如現れた見知らぬ女を不思議そうに見上げていた。やがてその未熟な手が秋子さんを指差した。

「めんめ! かみ! なんで!?」

 心の底からびっくりした。そう言わんばかりの声量。

 砂を払う手がぴたりと止まった。人形みたいに固まっていた。ややあって喉が慎重に動くと彼女は女の子の髪に手を伸ばした。夜空みたいに綺麗な黒髪。砂を取り払おうとしたのだろう。でも指先が汚れていることに気付いたのか触れることを躊躇った。それから困ったように……本当に困ったように、薄く笑みを浮かべた。

「……さあ、どうしてなんでしょう? 私にもわからないんです」

 波の音が響いていた。繰り返し、繰り返し、響いていた。

 俺は、何か言わなければと息を吸った。でも肺が膨らんだだけだった。気の利いた言葉ひとつも思い浮かばない。自分のガキっぽさが嫌になった。傍に寄り、膝を折った。女の子の髪に手をやった。彼女の代わりに砂を払う。その程度のことしかできなかった。

 秋子さんは少しだけ吃驚したようだ。黙ってこちらを眺めていた。一体どんな貌をしていたのか。女児に向き合っていたので俺は知らない。彼女はその場で立ち上がった。

「……ご両親は、いらっしゃらないんでしょうか?」

「え? ああ……そうだね」

 手を止め、辺りを見回してみる。目の届く範囲にそれらしき影はない。無責任な親だ。こんな小さな子供を放って置くなんて。

 秋子さんは身を屈め女の子に目線を合わせた。柔らかく問いかけた。

「お父さんと、お母さんはどこですか?」

 女の子はきょとりと瞬いた。そして何が嬉しいのか分からないが元気いっぱいに手を上げた。

「おとさんはおしごと! おかさんはまるのところ!」

 お父さんはお仕事。お母さんは……。

 俺たちは自然と顔を見合わせていた。

 お母さんはまるのところ。? まるのところって、どこだ?

「あとね、ばつとかにじゅうまるもあるの! えんぴつもあった!」

「バツ? 二重丸? 鉛筆?」

「でもねきょうはいっしょにまるにきたの!」

 秋子さんの表情がみるみる曇っていく。クエスチョンで埋め尽くされた顔が助け舟を求めてくる。

「どこだと思います……?」

「さあ……?」

 首を捻るしかなかった。心当たりなど、ない。

 指先をくるりと回す。

「まるって、円って意味だよね?」

「そうなんじゃないでしょうか。二重丸とバツがあるなら」

「ならパラソルのことじゃない? 下から見れば丸いでしょ」

「じゃあバツと鉛筆は?」

「傘のガラとか……?」

 女の子の反応を窺う。彼女は、俺の視線に気付き、またもやハイと腕を伸ばした。

「あとね! お日様とかね! ご本とかもあった!」

「へえ、そうなんだあ」

 何言ってるんだろう、この子。

 眉間の皺を自覚する。でもあまり真面目に取り合う必要はないのかも知れない。親も近くで待機しているはずだ。呼び出しをかけて貰えばすぐにでも飛んでくるだろう。

 俺たちは子供を監視員のところへ連れて行くことにした。女の子は怯える様子もなく秋子さんに手を引かれる。大人を警戒する様子が全くない。家庭環境は悪くないということだ。ならば……と改めて疑問がもたげる。親はどこで何をしている? 必死に子供を探す姿がビーチにあって然るべきなのだが。

 監視員に事情を説明するとビーチハウスに案内された。それなりに大きな建物で、更衣室以外にもレストランやトレーニングルームなどが備えられている。一階のホールには総合案内があって、そこに座っていた中年の女性に話が引き継がれた。すぐに呼び出しをしてくれるらしい。女の子は事務所で預かっておくので氏名と連絡先を教えて欲しいと言われた。秋子さんが名前を告げると、この子の名前ではなく貴方の名前だと、いかにも辛抱強そうな態度を見せられた。秋子さんは「それが私の名前です」と繰り返す。係員は「へえ」と変に感心したような薄ら笑いを浮かべていた。

「おねえちゃん、またね!」

 女の子に手を振りビーチハウスを後にした。

 入口を出たところにあるベンチで待機していると五分もたたず割れた音が響いた。

『八色海岸公園をご利用のお客様に迷子のご案内をいたします。白いワンピースに赤い靴をお召しになった三歳の女の子、ヤツオカエデちゃんをお預かりしております。お連れ様は至急ビーチハウス1階総合案内までお越しくださいませ。繰り返します……』

 俺は、汗を拭った。

「これで一安心、かな?」

 秋子さんも「ですね」と肩の荷が下りたような顔をしていた。

 しかしそれは早計だった。保護者らしき人物が現れなかったのだ。ベンチに座ったまま建物に出入りする人間を眺めていたのだが幼児の母親という体のひとは一人もいなかった。仲睦まじく歩く男女。競うように走っていく小学生。子供に引っ張られていく初老の男性。また小学生……。変だなと訝しんでいたところ、再度アナウンスが響いた。

『八色海岸公園をご利用のお客様に迷子のご案内をいたします。白いワンピースに花柄の靴をお召しになった三歳の女の子、ヤツオカエデちゃんをお預かりしております。お連れ様は……』

 放送に耳を傾けている人は誰もいなかった。

「どういうことなんでしょう……?」

 秋子さんが、不安気に瞳を揺らした。俺は顎に手を添えた。

「聞こえてないわけはないよな。だとしたら……」

 意識が自然と海に向いた。静かに凪いだ海のうえで立ち泳ぎをしている二人組が見えた。慶衣さんと鋼さんだろうか。遠過ぎてよく分からなかった。目を細めていると一つの影が海に沈んだ。潜ったらしい。しばらく様子を見守っていたが浮かんでくる気配はなかった。

 胸中にぽつりと何かが落ちた。一滴の雫に等しかったそれは徐々に膨らみ大きくなっていく。口許を手で覆った。

「母親が身動きの取れない状態なのかも」

「身動きが取れない状態って……」

「病気とか……事故とか」

「そんな。大ごとじゃないですか」

「いや、でも」

 と砂浜を見やる。

「浜辺は人が多いし、監視員もいる。異変があれば誰か気付くんじゃないかな。それに、あの女の子は水着を着ていない。母親だけが溺れて沈んでるなんてことは流石に……」

 否定しながらも言葉は萎む。確信が持てなかった、いや、不安が消えなかった。一瞬でも描いた最悪の想像は理屈で拭い切れるものではない。

 潜っていた二人組はいつの間にか姿が見えなくなっていた。浮上し、どこかへ移動したのだろうが、もしかしたら……。

「私、探してきます」

 秋子さんが立ち上がった。ボトムの裾を指で直す。

「成海さんはここで待っててください。すぐに戻ってきますから」

「探すって、どこを? 当てはあるの?」

 問うと彼女は東を指した。女の子が見つかった方角だった。

「ひとまず向こうの岩場まで。それ以上はあの子の足では歩くのが難しいと思います。その付近で聞き込みをすれば何か分かるかも知れません」

 ここからでは秋子さんの言う岩場は見えなかった。記憶を辿ればそんなものがあった気もする。距離は三、四百メートルと言ったところか。人だかりからは離れた場所だ。

「……わかったよ。無理して遠くまでは行かないで。俺たちまで迷子になっちゃ物笑いの種だ」

 秋子さんは「そうですね」と苦笑すると、束ねた髪をゴムで縛った。

 俺は空を見上げた。太陽が徐々に首を持ち上げようとしていた。


 秋子さんは十五分程で戻ってきた。ベンチに座った俺を見るなり弱々しく首を振った。

「……駄目でした。それらしいひとは、どこにも」

 乱れた息を整え、額に張り付く髪を払った。

「まず親子連れを見かけたというひとがいません。ただ、近くで釣りをしているひとに聞いたら女の子が県道のほうから歩いてきたのは見たと。そのときすでに保護者の姿はなかったそうです」

「県道から……」

 そちらは? と話を振ってくる。

「いや、特に変わったことはないよ。職員のひとが何人か集まってたみたいだけど、たぶん俺たちと似たようなことを話してたんじゃないかな」

「そうですか……」

 秋子さんは肩を落とした。沈黙が落ちる。俺は状況を吟味した。秋子さんを待つ間、多少落ち着きを取り戻していた。整理できることを順に整理する。

「……女の子は県道のほうから一人で歩いてきたんだよね」

 彼女は「ええ」と首肯する。

「親子連れを見たひとはいない。呼び出しにも応じない。だとしたら母親が浜のどこかで身動きが取れなくなっていると考えるより、そもそも浜にいないと考えるべきじゃないかな。あの子の格好も泳ぎに来たって感じじゃないよ」

「外から迷い込んできたってことですか?」

 多分、と頭を動かす。

「どこかの民家か、公園か。少なくとも放送が聞こえない程度に離れた場所。いや」

 と思考を一歩進める。

「母親があの子を置いて行ったって可能性もあるのか……?」

「……お母さんが、ですか……?」

「可能性としては低いだろうけど、信じられないバカ親なんていくらでもいるし、決してあり得ない話とも……」

 言い切れない、と言い終える前に、はたと気が付いた。

 秋子さんが絶句していたのだ。頬を叩かれたみたいに言葉を失っていた。やがて空いた隙間を埋め合わせるように強い光が瞳に宿った。肺が膨らみ、言葉が弾けた。

「ダメですよ! そんなのッ!」

 俺の、上着の袖を掴んだ。

「あり得ません! どうしてそんなことができるんですか!? 親が、子供を……子供を置き去りにするなんて。そんなこと、そんなこと許されるわけないじゃないですかッ!」

 俺は、たじろぎ身を引いた。だが掴んだ手がそれを許さなかった。見たこともないような激しい感情が目と鼻の先で燃え上がっていた。ごくりと唾を呑み込んだ。

「……落ち着いて、秋子さん。可能性の話をしているだけだから」

 彼女は、はっとして手を離した。慌てて腕を引き「すみません」と口早に言った。窮屈な空気が流れる。俺は、乱れた襟元を正した。

「……どっちにしろ母親が浜にいないのは間違いないと思う。どこだか分からないけど、多分あの子が言ってた……」

「まるのところ、ですか」

 俺は、黙って頷いた。

「子供の足だからそう遠いところじゃないと思う。どこか、心当たりないかな」

 彼女は俯き、じっと記憶を辿った。瞳が忙しなく左右に揺れる。やがてふと顔を上げた。

「港に行けば浮子がたくさんあります」

「浮子。……浮子か。確かに丸いね」

「もしかしたらその近くにいたのかも」

「それで、母親が目を離した隙にあの子だけここに迷い込んできた? でも、ここからだと二キロはあるよ? 子供の足で歩けるかな」

「確かめてきます」

 言うが早いか、小走りで駆け出していく。向かう先には駐輪所があった。俺は「え?」と数秒遅れで反応した。

「その恰好で行くの!?」

「すぐに帰ってきますから!」

「そこが正解かも分からないんだよ!?」

 彼女は、ぴたりと素足を止める。半身で振り返り胸元に手を当てた。そこから溢れ出してくるものを懸命に押さえつけるように。かぶりを振った。

「……きっとお母さんも心配しています。必死になってあの子のことを探しているはずです。だって、そうでしょう? 子供がいなくなって心配しない親なんていません。……いないんです」

 絞るように吐き出してから建物の向こうへと消えて行った。

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