(2)別の何かではなかったか?
それからは色々なことをして遊んだ。二人が遠くへ出ている間は軽く浅瀬で泳いだりした。海に入るなんていつ以来だろう。波の力は思うより強く随分と翻弄されてしまった。しばらくすると浮かぶのにも慣れ、深いところで泳いだり潜ったりした。秋子さんは脚に尾びれがついたみたいだった。柔らかく全身をしならせ透明の世界を楽しんでいた。まるで少女の姿をした海の生き物だと、俺は只々見惚れてしまった。透過する光に照らされた口許には大きな満足が浮かんでいた。
泳ぐのに疲れてくると今度は波打ち際で砂遊びをした。秋子さんは感心するぐらいにセンスがなく溶けかけのナメクジみたいな砂像に『スフィンクス』と大層な名前を付けていた。それから蟹を捕まえて第一回蟹レース選手権の開催を試みたが秋子さんが指先をかっちりと挟まれ「あだだだだ」と喚いたところでレースは中止になった。余程痛かったのか目に涙が溜まっていた。慶衣さんと鋼さんが同着で帰還してからは四人で水球対決に移行した。女子対男子でチームを組み苛烈極まる勝負を繰り広げたが誰も点数を数えていなかった。二人が互いの勝利を主張し合い、結局勝負はお流れになった。
「次はビーチフラッグスだオラァ!」
「ハっ! 匹夫の勇とはこのことね。秋子、あんたスターターやりな!」
「フラッグって貸出してましたっけ?」
三人は砂浜の空きスペースへ移動していく。何歩か足跡を付けたところで秋子さんが振り返った。
「成海さん?」
縛った金髪が、眩しげな背で揺れる。
来ないんですか? 傾いた頭がそう問いかけていた。
笑みを作り、片手を振った。
「ちょっと休憩してるよ。三人で行ってきて」
彼女は何かを言いかけた。だがすぐに了解したらしい。わかりましたと笑みが返ってきた。息を吐き、彼らの後ろ姿を見送った。頬の緩みを指で整え、自分たちのパラソルに戻った。簡単に身体を拭き取り上着を羽織る。ポケットに突っ込んでいた小銭を鳴らし休憩所の自販機へ向かった。筐体の隣にはキャンペーン用の幟旗。一体どんな味なのだろう。興味を惹かれる気持ちもあったが結局コーヒーのボタンを押した。屋根の下で腰を下ろし、蓋に指をかけた。
可能性は無限大。
「ホントよく見かけますね、陽葵ちゃん」
幟旗を脇目に見つつ彼女は髪を耳にかけた。秋子さんだ。縛っていた後ろ髪を解き、流れるままにしていた。素足でぺたぺたと地面を鳴らす。缶を煽り、尋ねた。
「慶衣さんたちは?」
彼女は、隣に腰をかけた。
「フラッグがなかったのでナマコの掴み取り対決だとか言って沖のほうに行っちゃいました」
「どうやって勝負が決まるの、それ?」
「さあ? 大きさとかじゃないですか」
クスリとする気配。ちらりと横目に窺った。
緩やかに曲線を描く肩にしっとりと髪が張り付いていた。肌は雫で艶めいている。首筋に、お腹に、腿の内側。鎖骨で膨れた水の粒が、さらりと流れて胸元を撫でた。俺は、慌てて視線を逸らした。
砂浜を無言で眺めた。真夏を絵に描いたような光景が網膜の上を滑っていく。ややあって秋子さんが口を開いた。
「気になります? 桐ちゃんのこと」
缶を口許に運ぶ手を止めた。唐突な問いだった。だが意外にもすんなりと心の中に入ってきた。でも一応は訊き返した。
「どうしてそう思うの」
秋子さんは、両足を交差させるみたいに伸ばした。
「成海さん、ずっと一歩引いてるみたいでしたから」
「わかる?」
わかりますよ、と秋子さん。
少しだけ背を丸め、こちらの顔を下から覗いた。
「だって成海さんよりおねえさんですから」
冗談めかして軽く笑う。勝てないなと、そう思った。
「そっか。わかっちゃうか」
首を後ろに傾けた。見えたのは屋根の内側だ。単純なようで複雑な、それでいてやはり単純に組み合わさった天井の骨組み。その構造をじっと見上げた。
自分の幼稚さに自嘲が込み上げてくる。秋子さんの指摘をすんなりと受け入れられたのは、要は聞いて欲しかったからだ。今の気持ちを聞いて欲しかった。だが肝心なそれが掴めていなかった。頭ではちゃんと分かっているように感じる。でも言葉に換えようとした途端するりと指の隙間から逃げ去ってしまう。小説を書いているときのようだと、そう思った。思い付いたことを打ち込んでみる。
「……まあ、すごいよね」
ごくりとコーヒーを喉に通す。
そう、すごいことだ。
「いきなり出版社からメールが届いたらしいよ。ウェブで連載している作品を書籍化させていただけませんかって。前向きにご検討くださいって。投稿サイトでは常に上位にランクインしてる作品だから順当と言えば順当なんだけど……。既に続刊も視野に入ってるんだって。すごいよ。十五歳で作家デビューだ。羨ましいって気持ちは、当然あるかな」
順に、言葉にする。
「もちろん納得はしてるよ。桐ちゃんはそれだけのものを書いてる。尊敬してるし、誇らしくも思う。心の底から彼女を応援してあげたい。でも何より……」
「悔しい、ですか?」
窄んだ言葉を、秋子さんが掬い取ろうとしてくれた。示された答えを胸中のそれと照らし合わせてみる。俺はかぶりを振った。
「違うよ。悔しいわけじゃない。悔しいって気持ちが全然ないんだ。だから戸惑ってる」
彼女は、それこそ戸惑ったようだ。沈黙が解説を求めていた。だが当の俺自身がどう考えるべきか分からなかった。当然だろう。現れるはずだったものが現れない。感じて当然のものが感じられない。こんなはずはない。漠然とした羞恥が心に広がった。
コーヒーを口に含んだ。苦味よりも甘さが勝っていた。美味しかった。甘いものは美味しい。でも俺に必要なものは、もっと別の何かではなかったのか? 缶を握る手に力を込めた。
「本当は焦らなきゃ駄目なんだ。悔しがらなきゃいけないんだ。遊んでいる時間なんて一秒もなくて、俺は苦しんで傑作を書かなきゃいけない。じゃないと特別な人間になんてなれない。なれないんだ。それは分かってる。でも……」
言葉は淡々と滑り落ち、そして途切れた。詮の締まった蛇口みたいに。それ以上絞り出すのは難しかった。それができていれば、そもそも秋子さんに心配などかけさせなかっただろう。だから表面だけは取り繕うことにした。
「別に落ち込んでるわけじゃないよ。大丈夫。それに、ありがとう。俺を海に誘ってくれて」
秋子さんは何も言わなかった。口許に手を当て、眉を見たことのない形に曲げていた。そのまま数秒。肺を膨らませる音が聞こえた。
「成海さん、それって……」
薄氷を踏むように言葉を紡ぐ。そのときだった。
「Olá」
声が割って入ってきた。二人して同じ角度で見上げた。秋子さんの隣に人が立っていた。いつの間に近付いてきたのだろう。大柄な、金髪の男だった。アジア人ではない。恰好からして泳ぎにきているふうでもなかった。秋子さんの知り合いだろうか。表情を窺い、違うと判断する。ならば観光客だろう。肩にかけたバッグでそう結論付けた。彼は、どこへ行っても受け入れられそうな笑顔でつらつらと何かを喋った。全く聞き取れなかった。唐突に言葉を浴びせられ、秋子さんが目を白黒させた。
「え? え?」
外国人はさらに何やら話しかけてくる。耳を凝らしてもやはり分からなかった。英語ではない。だが『オラ』はポルトガルの挨拶ではなかったか? 男の身振り手振りから察するにどうやら道を尋ねているらしかった。
秋子さんは弱り切って、口をぱくぱくさせた。
「あ、あの……えと、アイキャン、ノット……えーと、その」
男は、大袈裟に腕を広げた。
「Are you American? Or are you British? Where is the city hall? I heard that it is nearby.」
英語だ。通じないとみて切り替えたのだろう。
でも秋子さんの反応は変わらなかった。胸の前で弱々しく指を組み合わせていた。
「あ、あの、ごめんなさい。……私、その」
「いいよ秋子さん。俺が代わるよ」
缶をベンチに置いた。英語なら授業で習っている程度には理解できる。自信があるわけではないがカタコトならば通じるだろう。俺は男を見上げ、参考書の内容を思い出した。
「She can not speak English,so I will answer instead.」
彼の顔に安堵の色が広がった。
「Is that so? Thank you, sweet girl」
「……You are looking for a city hall, right? In that case,……」
好都合なことに休憩所の傍に観光案内板があった。目当ての場所は記されていなかったが下手な説明の助けにはなる。地図を指して位置を示した。ここから徒歩で数分とかからない場所だ。一通り説明を終えると彼は満足そうに目を細めた。そしてまた何か分からない言葉を口にした。礼を言ったのだろう。手を振り、教えたほうへ去っていった。
俺は、乾いた喉に水分を通し、汗ばんだ首筋を手で煽いだ。
「役場はどこかだってさ。呉葉姫ゆかりの場所を見て回りたいんだって。観光協会を教えたほうが良かったのかな?」
返事はなかった。秋子さんは、小さくなっていく男を呆然と眺めていた。やがて、はっとしたように目をぱちくりさせた。小鳥みたいにきょろきょろと首を動かし、言葉を詰まらせた。
「あの、すみません。ええと……それで大丈夫なんじゃないでしょうか?」
口早に濁し、もう一度ゆっくり前を向いた。男の姿は見えなくなっていた。そうしてしばらくいなくなった影を見つめていたが、やがて花が萎れるみたいに目を伏せた。
「……ごめんなさい、成海さん。助かりました」
「いいよ別に。どうして謝るの?」
「だって、ほら……私……」
そっと胸元に左手を当てた。手はするすると肌を滑り右の肩に辿り着く。彼女はそこにかかる髪をぎゅっと掴んだ。覆い隠すみたいに。
咎めを受けるようなその姿。動揺は否めなかった。それを悟られまいと胸を張った。
「関係ないよ。秋子さんは日本語しか喋れないんだから」
できる限り気楽に告げる。
「もっと勉強しなきゃね、おねーさん」
秋子さんはきょとんとした。
そしてふっと目を細め「そうですね」とはにかんだ。
ビーチに戻ることにした。パラソルの隙間を縫って歩く。元来たルートを辿っていたのだが向かう先に慶衣さんたちの姿は見えなかった。まだ海に潜っているのだろうか。
西から東へざっと海を一望した。視界の端に人影が見えた。小さな、白いワンピースを着た幼児だった。それ自体は珍しくもない。子供なんてわんさかと走り回っている。ならばどうして目を引いたのか。遠く、人の集まりから離れた場所にいたからか。傍に親の姿が見えなかったからか。それとも……波打ち際をたどたどしく歩いていたからか。
危ない。
そう思った瞬間、女の子がざぶりと波に呑まれた。
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