第5話 秋子さんと楽しい日常
(1)可能性は無限大
「っっ海だ――――――――!!」
「そうだね」
確かに海だ。
特に否定する理由もないので同意した。だが待っていたのは未知の生物を目撃したかのような眼差しだった。特に海老ぞりになって跳ねた二人……秋子さんと鋼さんは狼狽を隠そうとすらしていない。「ど……」と言葉を詰まらせた。
「どうしたんですか、成海さん……? 海だ――――!! ってやらないんですか……?」
「成海、つらいことがあるなら相談に乗るぞ……?」
「え、義務があるの……?」
真剣な表情で迫ってくる二人から身を引きながら一瞥する。海だ。何度見ても海。波は大変穏やかだ。陽射しは午後に比べればマシという程度だが空と海の彩度の低さが多少の涼感を与えてくれる。実際、潮風は心地良かった。目を引くものがあるとするなら人が多いということだろうか。俺たちと同世代の人間もいるが親子連れの姿が目立っていた。砂浜には七彩のパラソルがキノコの群生地みたいに突き立っていて、傘の下では母親と祖父母が全力で日焼けに抗っていた。浅瀬では子供の手を引く父親の姿。砂でシンデレラ城を建設している少女の姿。浮き輪で波を満喫している少年の姿。意味もなく波打ち際を走っている男女の姿。……いや、意味はあるのかも知れないが。とにかく皆がめいめいに遊んでいた。反対側では浜よりもやや高い護岸のうえでおっさんが浮き輪の貸し出しを行っている。浮き輪四百円。パラソル千二百円。価格の妥当性に関しては判断が付きかねる。そこからさらに離れた場所にビーチハウスと呼ばれる施設があって俺たちはその中で水着に着替えた。
一般的に海水浴場と呼ばれる場所だ。
「まあ、海だよね」
「…………」
改めて認める。間違いない。海だ。
だが秋子さんたちは絶句していた。
いやいや。
「海だーって言われても最近ずっと海見てたし。そもそも三人とも地元でしょ? 海なんか遊び飽きてるんじゃないの?」
えー、と不服を態度で示される。
「いつ来ても楽しいですよね?」
「まあ、飽きるってことはないね」
「水着のねーちゃん見放題だしな!」
親指を立てる坊主頭に慶衣さんの裏拳が飛んだ。鼻頭を押さえて悶絶するその脛をさらに無言で蹴りつける。二人とも朝から元気なものだ。すっかり見慣れたやり取りに、半ば呆れ、半ば感心する。そして受け入れた。
確かに彼らが正しいのだろう。海に来て「海だね」などと分かり切ったことを言っている俺のほうがおかしいのだ。
つかえを呑み込み、もう一度振り返った。
護岸の向こうに屋根付きの休憩所が見えた。すぐ側には真っ赤な色の自動販売機。何かのキャンペーン中なのか、同じ色をした幟が潮風を受けてはためいていた。旗には女性タレントのアップと飲料水のロゴマーク。キャッチコピーは『可能性は無限大』 炭酸飲料水にどれだけの可能性が広がっているのか、これと言って有意義な未来が思い浮かばなかったのは想像力が貧困だからかも知れない。俺はただ昨日のことを思い出していた。
泳ぎに行こう。
言い出しっぺは誰だったろう。雑談とは大抵そういうものだが、いつの間にかするすると結論が決まっていく。いつものように『風祭』で溜まっていたら誰かが暇だとぼやき始めた。確か鋼さんではなかったか。どっか遊びに行こうぜ。どこってどこです? 暑い。じゃあ海ね。いつにしましょう。明日はどう? わかった、9時に集合な。
概ねそんな流れだった。
「成海は水着持ってんのか?」
と訊かれたとき「はい?」ととぼけた返事をしてしまった。半分聞き流していたのだ。こっちに水着を持ってきていないことはすぐに思い出せた。だが、それ以前に『行かない』という選択肢が示されなかったことに俺は困惑した。慶衣さんが「じゃあ今から買いに行く?」と当たり前のように段取りを組む。彼らの中では既に頭数に入っていたらしい。鋼さんが「お前の水着貸してやれよ」と軽口を叩いて殴られていた。慶衣さんは執筆中の桐ちゃんにも話を振った。今度は行く、行かないの二択だった。桐ちゃんは「あー」と悩む素振りを見せた。選択に悩んでいるのではなく答え方に悩んでいるふうだった。やがて首を傾け最大限の愛想を浮かべた。
「せっかくですが」
慶衣さんは「だよね」と苦笑し、それ以上追及はしなかった。桐ちゃんは「すみません」と前髪を揺らすと再びキーボードに指を伸ばした。無機質ながら、どこか熱意の伝わってくる軽快な音。肩肘を突いて耳を傾けた。
仕方がない。強要はできないだろう。彼女の事情を聞けば誰も強要はできない。今の桐ちゃんはとても忙しい。とても、意欲に満ちている。
作家としてのデビューが決まったのだから。
「ま、それはいいとしてさ」
と首に腕が絡まってきた。慶衣さんだ。上背のある彼女にグッと引き寄せられ身動きが取れなくなってしまう。密着する肌に耳が熱くなったが彼女は何も気にしていないようだった。その耳元で囁いてくる。
「ほら、何か感想とないの?」
「か、感想って?」
「秋子すごいっしょ?」
声で促される。当の本人は「私ですか?」ときょとんとしていた。海水浴場に来ているのだから当然彼女も普段着ではない。慶衣さんあたりが選んだのか。割と肌の出ているタイプだった。まじまじと眺めるのも不躾かと思い、あえて直視は避けていたのだが。確かに。
「あんだけガツガツ食べてんのに、なんかもう……卑怯! って感じだよねー。あの大量に食べたスイーツは一体どこに消えているのかっ」
「え……?」
秋子さんは、引き攣った顔でおへそを隠す。
(……違う。秋子さん。もっと上)
隣で鋼さんがやれやれとかぶりを振った。
「お前こそ摂取した栄養分はどこに消えてんだよ」
「あら? 教えて欲しい?」
「あだだだだだだ、わがっだ! わがっだから! 割れる! あ・だ・ま・が・わ・れ・る!!」
坊主頭が万力から解放される。慶衣さんは汚らわしいものに触れたとばかりに片手を振った。頭を抱えて屈む鋼さんを軽蔑の眼差しで見下ろした。
「大体アンタみたいな性犯罪者がどうして娑婆で息吸ってんの? 収監はまだなわけ?」
「お前それ蒸し返すかよ!? あれは国枝の手違いだって本人にも確認取っただろうが!」
「犯罪者の九割は取り調べで無実を主張するのよ」
「根拠のない数字をそれっぽく持ち出すんじゃねえ!」
鋭い眼光で刺し合う二人。秋子さんが「まあまあ」と真ん中から引き離した。小慣れたものだ。今度はこちらに向き直り「水着と言えば」と両手を合わせた。取り繕うように目を細め、身体全体を傾けた
「……成海さん、やっぱりちゃんと男の子だったんですね」
「何でちょっと気まずそうなのさ」
「いや、もしかしたらと思っていたので」
もしかするか!
半眼で睨み返す。が、それも仕方なしと肩を落とした。
「……まあ、確かに身体つきは貧相だよ。骨は細いし、体質的にあんまり肉が付かないんだ」
「それはそれで羨ましいですね」
真顔でサっとおへそを隠す。その上部の膨らみを慶衣さんが凝視していたが見て見ぬふりをした。代わりに彼女の隣に視線を移した。
「その点、鋼さんやっぱ鍛えてるよね。普段はそんなにも見えないけど」
「おうよ。朝夕の鍛錬は欠かしたことがねえ。こう見えて空手二段の実力者よ」
力こぶをバシリと叩き、ニカリと白い歯を零す。そんな鋼さんを弓なりの目が嘲った。
「なーにが空手二段の実力者よ。あんたなんか糞雑魚じゃん。この前の試合だって伊戸とかいうやつにボッコボコにされてたしさ」
「ばっ……あれは仕方がねえだろ!? お前知らねえからそんなこと言えんだよ。あいつ滅茶苦茶怖えんだぞ!?」
「えー? 相手にビビって尻尾巻いちゃうようなひとが臆面もなく実力者とか自称しちゃうんですかー? わー、すごいんですねー実力者サマはー」
「慶衣、てめえ……。表出ろコラァッ!」
ここが表だよ。
結局仲良く喧嘩をし始める幼馴染の二人。しばらくそうして火花を散らしていたが、やがて足先が海へ向いた。「勝負だ、ぜってー泣かす」「はあ? あんたもう半泣きじゃん」「俺の倍は泣かす!」などと張り合いながら大股でのしのし行ってしまう。遠泳で決着を付けるらしい。ぽつんと取り残される俺と秋子さん。
急に周囲の音が大きくなった。蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。海の音に、人の声。茫漠とした感覚。サーフボードを担いだ男女が眼前を横切った。それと交差するように浮き輪を抱えた小学生が走って行く。俺は、何をどうすれば。
戸惑った視線は自然と一か所へ流れた。彼女は微笑み、俺の手首に触れた。
「私たちも行きましょう、成海さん」
「……うん」
太陽から容赦のない熱線が降り注いでいた。焼き尽されるような熱さの中、彼女の手だけはひんやりとして心地が良かった。引かれるままに浜を駆け、波打ち際を飛び越えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます