(6)俺は関係ないのでは……?
「急げ、成海!」
目が眩むようだった。
海沿いの道路は緩やかな曲線を描きながら町のほうに続いている。青い海と白い雲。輝く太陽の下で満喫する真夏の絶景スポット。……観光雑誌ならばそんなふうに書くのだろうか。ことさら真面目に読み込んだこともないが、そんなところだろう。だが現に直射日光に曝される身としては景色を楽しむ余裕などなかった。とにかく熱い。眩しい。鬱陶しい。真昼のアスファルトは鉄板のように煮え立っている。蝉はすこぶる喚き散らし、体感温度を噴騰させるのに一役買ってくれていた。俺たちは炎で焼かれて転がるみたいに全力でペダルを漕いでいく。濡れたシャツの不快感。そして皮膚を炙られる痛み。下顎の汗を拭った。
USBメモリーを紛失してからまだ数分。男二人の全速力なら到着までには追い付けるだろうと高をくくっていた。だが彼女もそれなりのスピードを出しているらしい。後ろ姿すら捉えられていなかった。
「ほら、もっと早く漕げって!」
十メートルほど離されている。鋼さんは体格こそ平均的だが軟弱ではない。速力で勝てる相手ではないだろう。
早く漕げ。そう叱咤されても出てくるのは速度ではない。疑問だ。先刻と全く同じ疑問。
(俺は関係ないのでは……?)
勢いでここまで来てしまった。だが鬼気迫る鋼さんを前に「あとは一人で頑張ってね」とも言いづらい。いや、俺が足を引っ張っている現状を考えれば彼だけで先に進んで貰ったほうが互いの利益に適うのだが。目指す場所は分かっている。あとは切り出し方とタイミングだろう。俺は太腿に力を込めた。
「見えたぞ!」
嬉しそうに鋼さんが叫んだ。先にあるのは海辺の集落だ。水宮と呼ばれる地区らしい。住宅と商店が立ち並ぶ一画からシートに覆われた建造物が突き出している。
「津波避難タワーだ!」
津波避難タワー。三年前の震災から頻繁に耳にするようになった言葉だ。津波発生時、避難時間に乏しい海沿いの地区において一時的な避難場所として機能する。海に面したこの八色でも数棟の建築が急がれており、海際に見えるそれが第一号らしかった。
確かに、秋子さんに町を案内されたとき建設中だと教わった。じいちゃんの家から『風祭』に通うまでにも風景としては目に入る。だが特に意識はしていなかった。改めて見ると巨大な建物だ。景色に違和感を覚えるほどに大きい。桐ちゃんの家があれの隣にあるのなら、確かに執筆に集中することなどできまい。
完成は九月らしく、遠目からもほぼ仕上がっているように見えた。これで騒音がなくなれば……彼女はもう『風祭』には来なくなるのだろうか? きっと、そうなるだろう。恐らく口ではまた来ますと言ってくれる。実際何度かはそうするはずだ。でも必要がなくなれば足は遠のく。接点を失えば繋がりも切れる。人間関係とは、本来的にそういうものだ。
秋子さんらと楽しそうに笑っていた姿を思い浮かべると幾ばくか寂しさが込み上げてきた。海も見えると喜んでいたのに。
(あれ?)
海が、見える?
そうだ。桐ちゃんは喜んでいた。すぐ近くに海が見えると。だが……待て待て。津波避難タワーが立つような場所なら、津波避難タワーが立っているあの海辺なら、海は大抵近くに見えるんじゃないか?
「違うぞ、鋼さんッ!」
両手を強く握り締めた。後輪が弧を描きながら地面を削る。声は甲高いブレーキ音にかき消されたが振り向かせるには充分だった。鋼さんは間髪入れずに車輪を止めた。
「んだよ急に! 止まんじゃねえよッ」
怒鳴る坊主頭。蝉の大合唱の中では必要以上に声が大きくなってしまう。
一拍置いてから、もう一度叫んだ。
「違う! 津波避難タワーじゃない! 桐ちゃんは『風祭』が海に近いことを喜んでた。海が見えるような場所に自宅が立っているはずがない。別の場所だ!」
「はあ!? お前そんなん今さら……」
彼は、言いかけて口を噤んだ。腕時計を覗き舌打ちをする。顔を上げ唾を飛ばした。
「じゃあ、どこなんだよ!? 他にでけえ工事してるとこなんて知らねえぞ!?」
工事。本当に工事なんだろうか? 他に音の出る場所。どこかあるんじゃないか?
目を細め、前方に広がる町並を見つめた。
たとえば工場はどうだろう? 八色は港町だ。水産物の加工場は珍しくない。どの程度の防音対策が施されているかは知らないが機械の稼働音が漏れ出ている可能性は十分にある。海から離れた場所にそんなものがあるとすれば、そこが桐ちゃんの自宅ではないだろうか。
(……いや)
違うな。彼女が騒音に悩まされ始めたのは三か月前。引っ越してきたのは去年の秋だ。工場の隣に家を借りたのなら、この町に来た時点でそうなっていなければおかしい。無論、転居後に新しい工場が稼働したとも考えられる。だが、そんな予定があるような土地にわざわざ引っ越してくるだろうか? 今回の勤務は長期になると言っていた。長く滞在しなければならない場所なら住居は慎重に選ぶはずだ。工場の稼働が後だろうと先だろうと、そんな場所に家は構えない。同様の理屈で、やはり津波避難タワーの隣も望み薄だろう。
「ああ、もう……」
頭がぼんやりする。考えがまとまらない。
何か。他に何か言っていなかったか? 桐ちゃんの家を特定するための何か。
彼女と交した数少ない会話を掘り起こし、その中で、最も古く、最もそれらしいものが頭に浮かんだ。
『あなた八色校の生徒ですよね? ……友達と一緒に歩いてるとこ、よく見かけます』
初めて桐ちゃんに話しかけたとき、彼女は秋子さんにこう告げた。
桐ちゃんが秋子さんを頻繁に見かける。それはいい。こんな田舎では彼女の容姿は目を引くだろう。記憶に残っていても不思議ではない。だが、それで八色高の生徒だと認識できるかどうかは別の話だ。歩いているだけでは分かるまい。つまり、彼女が見かけたのは秋子さんが制服姿でいるときだ。
「素直に考えれば、登下校の時間に見かけたってことだ……」
鋼さんが、周囲を見回した。
「秋子の通学路の途中に桐ちゃんの家があるってことか?」
「もしくは、桐ちゃんの通学路と秋子さんの通学路がどこかの地点で交差するか」
「そんな情報じゃあ何も分からねえだろ。確かに範囲は絞り込めるが……それで終いだ」
俺は、頷いた。
登下校の時間に歩いている姿を見かける。その情報から自宅を特定することは困難だ。
だが、その状況が成り立たないとすればどうだ?
登下校の時間に見たのではなかったとすれば?
「分かったよ。桐ちゃんの自宅がある場所」
髪を風が梳いた。
額に涼しさを受けながら、俺はその答えを鋼さんに告げた。
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