(2)消え失せろ、ばかコウ

 ぎゃーっと店内に悲鳴が響いた。

 ドンガラガッシャンと凄まじい音が続く。対面の桐ちゃんがびくりと肩を縮こまらせた。俺も似たようなものだったろう。二人してカウンターへ目を向けた。慶衣さんの姿が見えなくなっていた。呆気に取られたマスターが自分の足元を見下ろしている。俺の位置からは見えないが、どうやら彼の脚にしがみついているらしい。店内に俺たち以外の客はいない。そして俺たち三人も言葉を失っていた。ややあってマスターの脚を支えに慶衣さんが立ち上がった。中腰になり、生まれたての小鹿みたいにぷるぷると身体を震わせていた。

 これは傑作とばかりに扇子を広げたのは、俺の隣に座る坊主頭だった。

「ヘイヘーイ、ケイチャンびびってるゥー」

 涙目になった彼女の目尻は、刺身包丁くらい尖っていた。

「うっさい死ねッ! コウ! ばかコウ! 死ねッ!」

「ンッン~? 声が震えてて聞こえにくいですなァ? もう少しはっきりと仰って頂かないと」

「死ね! 帰れ! ばか! 死ね!」

「……って、オイ!? 慶衣、うしろ!」

「ひッ……!?」

 半回転して飛び跳ねた慶衣さんはガタリとカウンターにお腰をぶつけた。そのまま棚を見て硬直していたが、やがて台に背を預けたままずるずると沈み込んだ。その様子に、またワハハとご機嫌な声が響く。俺は、慶衣さんの弱点を意外に思いつつ坊主頭を横目に見やった。

 彼の名前は古宮鋼。『風祭』の常連で、慶衣さん、秋子さんとは幼馴染だ。下の名前は『はがね』と読むが皆からはと呼ばれている。慶衣さんとの仲はで罵り合っているところしか見たことがない。秋子さん曰く実は大変仲が良いらしいのだが、そのあたりのことはよく分からなかった。今も慶衣さんが怪談話を苦手としていることを知りながら喜々として持ちネタを披露し始めた。もっとも俺が『図書館の幽霊』について話したことが切っ掛けではあるのだが。

 鋼さん曰く地元に伝わる怪談だそうで、夜にランニングをしていた青年が、子供を探す母親に出会うという内容だ。青年は協力を申し出るが、ふらふらと彷徨ってばかりの女に段々と不気味さを感じ始める。やがて草むらから『何か』を拾ってきた女が青年に向かってこう告げるのだ。子供を見つけました、と。

「それで、その女の正体は何だったんですか?」

 尋ねたのは桐ちゃんだ。慶衣さんとは逆に目を輝かせていた。基本的にフィクションが好きな人間は怪談・奇談の類に目がない。取り分けホラーを執筆している彼女は、あわよくば自作のネタにしようとでも考えているのだろう。準備万端と言わんばかりにノーパソのキーに指を伸ばしていた。

 鋼さんは、ニヤニヤとカウンターを見ながら扇子を仰いだ。

「ほうほうの体で逃げ出した青年が調べるに、昔その場所ででかい事故があったんだと。犠牲になったのは旅行者の親子で、母親は即死。子供のほうはどこが手足かも分からねえぐらいグチャグチャになっちまったらしい。以来、事故が起こった時刻になるとバラバラになった子供の身体を探して母親の霊が現れるようになった。で、それを知った青年が後日事故現場に花を手向けに行く、つーオチ」

 桐ちゃんがカタカタと音を鳴らした。俺は、落ち着かないものを感じ、自分ノーパソに手を伸ばした。電源は既に落としている。閉じたカバーを意味もなく撫で、ふうんと相槌を打った。

「実際にあった事故なの、それ?」

「さあ? 場所は大藍川たいらんがわの河口って言われてっけど、実際にあったかどうかは知らねえなあ。あったんじゃねえの?」

「ありませんよ。そんな事故は」

 割って入ったのは、いつの間にか席の傍に立っていたマスターだ。「おつかれさまです」と微笑み、桐ちゃんの傍に湯気の立つカップを配った。彼女は頬を朱に染めながら「いえ」と短くつぶやいた。何とも分かりやすい反応だった。

 マスターは俺に向き直った。

「見通しの良い直線道路です。事故が起こるような場所ではありませんし、起こったという話も聞いたことがない。どこが出処か知りませんが、根も葉もない噂話です」

「けどよお、宗助さん」

 鋼さんが口を尖らせた。

「根も葉もなかったらどうしてこんな怪談が広まるんだ? 火のないところに煙は立たないって言うぜ」

「あなたみたいな子が何もないところに火を起こすからですよ。やめてくださいね? 八色の悪評を広めるのは」

「そーだそーだ。消え失せろ、ばかコウ」

 援護射撃を撃ってきたのは慶衣さんだ。カウンターから頭だけ突き出し、地獄へ落ちろのジェスチャーをする。俺は「まあまあ」と場を取り成した。

「悪評はともかく、これ以上桐ちゃんの邪魔をするのは悪いよね」

「あ、てめ、成海。裏切りやがったな」

 桐ちゃんは「邪魔だなんて」と両手を振った。

「いいんです。切りの良いところまでは終わりましたから。それに古宮さんはずっと静かにしてくれてましたよ?」

 それは確かにその通りで、俺と桐ちゃんがキーボードを叩いている間、彼は黙々と雑誌をめくっていた。怪談話が始まったのは彼女が「つかれたー」と背伸びをしたあたりからだ。

 鋼さんは我が意を得たりと言わんばかりにふんぞり返った。慶衣さんは不愉快そうに顔を顰めたが特に何も言わなかった。桐ちゃんはマスターを見上げた。

「それに、悪評だなんてとんでもないです」

 心から、というふうに目を細めた。

「良い町ですよ。近所もみんな親切なひとばかり」

 そうして窓辺に視線を流す。

 言外にあるものを、マスターが掬い取った。

「朝霧さんは、去年の秋に越してらっしゃったそうですね」

「ええ、父が転勤族なものですから」

 見つめる先で一隻の船が浮かんでいた。

「小学校のときに三度、今回で四度目です。同じ場所にいられたのは長くても三年程でした。今回はいつもより長期間いられるそうなのですが……」

「何か問題でも?」

「進学のことです。両親がここにすればという高校があって」

 と彼女が告げた校名が県内でも随一の進学校だったので慶衣さんと鋼さんが「おお」と感嘆の声を上げた。かく言う俺も少しばかり驚いた。うちの学校と比べても偏差値の差は歴然だろう。慶衣さんが感心したままの表情で尋ねた。

「今の時期によく小説の執筆なんか許してくれんね」

「うちの親、文化活動には寛容ですから。勉強に支障がない限りうるさくは言いません」

「受験は問題ないってこと?」

「ええ、成績は充分に足りているんです。でも通学をどうしようか悩んでいて」

 成る程、とマスターが話を引き取った。

「あの高校ではうちの娘と同じようにとはいきませんね」

「秋子さんは自転車通学ですか?」

「ええ、バスを使うほどの距離ではありませんので。ですが朝霧さんは」

 八色からだと電車で片道二時間はかかる。

 通えない距離ではないだろうが相当な負担になるだろう。

「そうですね。一人暮らしも考えています。この町を離れることになるかも知れません」

 そう答えて苦笑する。巡り合わせに皮肉を感じたのかも知れない。あるいは単に、寂しさを取り繕うためだったのかも知れない。曖昧な笑みを浮かべたまま手元のカップに視線を落とした。

「……少し前の私なら、こんな気持ちにはならなかったと思います」

 口許が、恥じるようなそれに変わった。

「私の好きなものは皆にとって意味がなくて、私の居場所はここじゃないんだって、そんなふうに考えていました。自分が変わらなきゃって焦ってた時期もあったと思います。けど……」

 湯気の立つカップを大事そうに包み込んだ。

「秋子さんがここにいていいと言ってくれたんです。誰も邪魔したりなんかしないからって。それで気持ちが軽くなったと言うか……私は私のままでいいんだって、そんなふうに思えるようになったんです。上手くは言えないのですが」

「あの子はただ、あなたと友達になれたらきっと楽しいだろうと、そう思っただけですよ」

 マスターが笑うと、黙って聞いていた鋼さんが「そーだな」と同意した。

「秋子だからな」

「そーね、秋子だもん」

 慶衣さんも右に倣う。

 桐ちゃんは三人へ順番に目を向けたあと、照れ臭そうにカップを覗いた。

「話をしてみれば、あなたのご学友も同じかも知れませんよ」

 彼女は、意外そうに瞬いた。

 それから少しだけ頬を緩め「そうですね」と呟いた。

「そうかも知れませんね」

 カップに唇を触れさせる。こくりと喉を動かし、じっと瞳を閉ざした。穏やかなその表情を眺めているだけで珈琲の味が伝わってくるようだった。桐ちゃんは胸をすうと膨らませた。

「……素敵なお店ですね。コーヒーが美味しくて、海がすぐ近くに見えて、静かで……。私、音楽の鳴ってるとこだと集中できないんです」

「海の音を聞いて貰いたいのですよ」

 促され、俺たちは窓の外を見た。砂浜に波が打ち寄せていた。

 海の音。ガラス越しではよく聞こえなかった。でも、静かにしていると何となくその音が耳の奥で再生されるような気がした。そういうことなのかも知れない。

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