閑話 秋子さんと昔のはなし
秋子さんと昔のはなし
「捨て子だったのですよ、あの子は」
この話を聞いたのは彼らと顔見知りになってから少したってからのことだ。
店内に秋子さんの姿はなかった。誰とはなしにアイスが食べたいと言い始め慶衣さんと二人で買い出しに出かけたのだ。マスターは、何を買おうかと楽しげにする二人を見送ったあと何でもないふうにそう語り始めた。どうせあちこち寄り道をするだろうから、すぐには帰って来ないだろうと。
俺の興味を察してくれたのだと思う。
「差別用語に当たるとかでマスメディアではそんな言い方はしないそうですね。法文でも棄児と表記するのが正しいのだとか。あの子からも多少は聞いているのでしょう?」
俺は、無言で頷いた。
「普通養子縁組を結んでいます。結婚をしていない私では特別養子縁組を結ぶ資格はありませんでしたので。当時は年齢も足りていませんでした」
養子縁組には普通養子縁組と特別養子縁組の二種類がある。前者の目的は幅広く、子供の養育のみならず家督相続や介護のためなど、縁組の事情は多種多様。一方で後者は児童福祉という意味合いが大きい。両者には手続きや条件面など細かな相違がいくつかあり、その中に養親の婚姻と年齢制限がある。特別養子縁組では一方が二十歳、一方が二十五歳以上の夫婦でなければ養親としては認められない。それがマスターの説明だった。
「最も大きな違いは実親との親子関係が継続するかどうかです。普通養子縁組の場合、養子縁組が成立したとしても生みの親との親子関係は解消されません。つまり相続権もあれば、実親の扶養義務も残るということです。一方で特別養子縁組の場合、縁組が成立すれば生みの親でも赤の他人です。戸籍にも養親の実子として記載されます。……とは言え、この点についてはさほど私たちには関係のない話でもあります。何しろ、あの子の戸籍は実親の欄が空欄になっていますから」
カップを摘まんでからふと気が付いた。受け皿の装飾がよく見えなかった。天井を見上げ、窓の外に目をやった。夕陽が海に沈もうとしていた。
ぱちりと淡白な音が響いた。店内が暖色に包まれた。
「この近くに
受け皿にはローズマリーの意匠が施されていた。
十七年前、私がまだ二十代前半だった頃です。その日は秋祭りの当日で、直会を終えた私と父は自宅までの道のりを二人で歩いて帰っていました。夜道は暗く、海岸沿いに人の姿は見当たりません。異様に静かな夜だったという記憶がありますが、直前まで賑やかに飲み食いをしていたので余計に寂しく感じていたというのはあるでしょう。だからかも知れません。御旅所の前に差しかかったとき、昼間の喧騒を思い出して、ふと中を覗いてみたくなったのです。敷地はさほど広くありません。鳥居の外からでもすっかり奥まで見渡すことができます。そこで私は、社の前に籠のようなものが置かれてあるのを見つけました。なんだろうと思いました。ゴミにしてはやけに大きいし、それに……これは記憶が不確かになっているのだと思いますが、何か、光を放っているように見えたのです。私は父を呼び止め、それが何なのか確かめてみることにしました。恐る恐る近付き、籠を覗いて、心臓が飛び出るほどに驚きました。ええ、驚かないひとがいるでしょうか? 生後数か月もたってない赤ん坊が毛布にくるまれ、すやすやと寝息を立てていたのですから。御神酒の飲み過ぎで夢でも見ているのではないかと思いましたよ。ですが、どうもそうではないらしい。私と父は急いで警察に連絡を取りました。……人種ですか? いえ、そのときは全く気が付きませんでした。周囲も薄暗かったものですから。それよりも神聖な場所で眠っていたその赤ん坊にある種の畏怖を抱いていた記憶があります。要は滅多にない事態に遭遇して混乱していたのでしょうね。
私と父は駆けつけてきた警察官……先に白状しておきますと貴方のお祖父さんの源三さんです。ええ、当時まだ現役の警察官で父の友人でもあった源三さんに事情を説明して、発見した赤ん坊を保護して貰ったのです。源三さんも初めてのケースだったようで、どうすればよいものかと困り果てていましたよ。とは言え、あとは手続きに沿って処理されていくだけです。戸籍法に則り市町村長に棄児として届出がなされたこと。秋祭りの日に見つかったので『秋子』と名付けられたこと。その日が誕生日とされたこと。どうやらアジア人ではないらしいこと。しかし両親が分からないため日本国籍が編製されたこと。源三さんはそんな諸々の経緯を私たちに教えてくれました。孤児として乳児院に預けられたということも。
本来であれば、私がそれ以上踏み込む事情はありませんでした。私はただの通報者で、どこにでもいる若造に過ぎなかったのですから。家庭もなく、経済力もなく、一人前の自覚もない。ですが……。
実は、私も孤児だったのです。捨てられたわけではありませんが実の両親に私を養育する能力がなかったとかで小学校に上がるまで児童養護施設に預けられていました。そんな私を養子として迎え入れてくれたのが父と母……あの子の祖父母だったのです。養父母と暮らした日々は決して平坦なものではありませんでした。今でこそ、彼らは優れた人格者であり、善き父親、善き母親であったと理解できます。しかし、若い頃の私は養子という立場に甘えて随分と身勝手な振る舞いをしてきました。養父母だけでなく、多くの方々に迷惑をかけ……貴方のお祖父さんの世話になったことも一度や二度の話ではありません。思い返すと本当に愚かでくだらない少年期を過ごしてきたと恥じ入るばかりです。生みの親に育てられていないことなど何の理由もならないというのに。
……失礼、話が逸れましたね。そんな私ですが高校も終わりを迎える頃には自らの境遇ともある程度折り合いを付けることができていました。父と母が私に剣突を食わせたことも愛情の裏返しであり、私を見限らず全力で向き合い続けてくれたことの証だと気付いたのです。同時に両親が与えてくれた何でもない日常が、とても得難く、有り難いものだと感じるようになっていました。そして……恐ろしくなりました。彼らが私を見つけてくれなかったら私は一体どうなっていたのだろう、と。
その耐えがたい孤独を想うと、何もせずに見過ごすことが取り返しのつかない罪悪であるかのように感じました。私には、あの子に手を差し伸べる理由があるように感じたのです。家庭がなく、経済力もなく、覚悟すらできていなかった私ですが……縁がない、とまでは言い切れなかったのです。
私があの子の親に成る。私はそれを決めました。
最初はもちろん不安しかありませんでした。自分がそんな上等な人間ではないことは誰よりも自分自身が一番よく分かっていたからです。所詮は一時の同情でしかなく途中で何もかも嫌になって投げ出してしまうのではないかと。ですが、そんな私を応援してくれたのもまた両親でした。一度決めたことは最後までやり通す、お前はそれができる人間だと、私の目を見て折り紙を付けてくれたのです。
その言葉を信じたわけではありません。ですが、そんな言葉で勇気づけられる、家族という関係のことは信じても良いような気がしました。
もちろん、私が決心したからと言ってすぐに子供を迎え入れられるものでもありません。県の施設から養子を迎える場合まずは里親として登録する必要があって、これには一定の審査を受けなければならないのです。健康状態や経済状況、家族の理解や養育方針など、適切な養育環境が整っているかどうかをチェックされるわけですね。当時の私が審査項目を満点でクリアできていたとは到底思えません。ここでも両親の存在が良い方向に働いたのだと考えています。父と母は児童相談所とも繋がりがあり良好な関係を築いていましたので、あのご家庭なら大丈夫だろうと、そういうわけです。
もちろん私自身も、人の親になるためできる限りの努力はしてきたつもりです。生活態度を改め、早く一人前にならなければと、父にこの店を譲って貰いました。……喋り方も、父の友人だった空手家の先生に倣って変えてみたのです。何年か前にお亡くなりになったそうですが、いつも穏やかな口調で話される、とても尊敬できる方でした。父からはあまり肩肘を張るなと笑われましたが、とにかく私は良い大人に成ろうと必死だったのです。
あの子と再会したのは里親に登録されてから3か月程たってからのことでした。登録後に何年も待たされるご家庭もあるそうですから、これはかなりの短期間です。恐らく希望する子供のタイプを尋ねられたとき率直にあの子を迎え入れたいと伝えていたからだと思います。外国の血を引く児童は養親の希望から漏れるケースが多いらしく、児童相談所としても機会があるなら逃さずマッチングしたいという考えもあったのでしょう。
初めてあの子を抱いたときのことは一生忘れることはありません。腕に伸し掛かるあの子の重み。脆さ。柔らかさ。恐ろしいと思いました。身を守る殻も何もなく、ほんの少し加減を間違えただけで死んでしまう。剥き出しの命です。そして、それゆえに強く生命力を感じさせる。何と純粋で尊いのだろうと……。あの子はうっすらと目を開き、私の顔を見つめました。そして、まるで楽しい遊び相手でも見つけたかのように、にっこりと微笑んだのです。つられて私も笑ってしまいました。そうして頬を緩めながら、同時に……涙を流していました。なぜだか自分でもよく分かりません。ですが、そのとき誓ったのです。この笑顔を曇らせるすべてのものから、必ずこの子を守ってみせようと。
それから十数年は……月並な表現ですが、あっという間だった気がします。あんなにも小さかった手足がいつの間にか大きくなって、気付けば歩き、言葉を喋るようになっていました。おむつの交換から食事の世話まで、大変な苦労をしたことは確かです。ですが、今はもう楽しかったという印象しか残っていません。ええ、覚えておくといいでしょう。子供というものは本当に楽しいものなのです。何でもない仕草が愛らしく見えるかと思えば、思いがけない言動で周りを驚かせたりもする。泣いて親を困らせることも、拗ねてご飯を食べないことも、全てが成長の証であり、家族の幸福に繋がるのです。
私はあの子に多くのものを与えたつもりでいました。しかし、今なら分かります。あの子からたくさんの幸せを貰ったのはむしろ私のほうだったのです。
あの子はあんな見た目ですから学校で浮いてしまうのではないかと心配しましたが、それも杞憂でした。八色の気風が良かったのか、生まれついての性分なのか、友人や先生にも恵まれ、あの通りのんびりとした娘に育ちました。もちろん、貴方のお祖父さんにも大いに助けられてあの子は大きくなったのですよ、成海さん。
マスターはそう締め括り、にこやかに微笑んだ。
西の空は、凪いだ水面のように淡白な色合いに変わっていた。長閑に浮かぶ夏の雲に、わずかばかり夕陽の残滓が滲んでいる。どこをほっつき歩いているのかは知らないが、そろそろ帰ってくる頃合いだろう。
最後に、一つだけ、気になっていることを尋ねた。
マスターは顎に手を添え考え込んだ。それは解答を探していると言うより、話す順序を考えているふうに見えた。ややあってマスターは口を開いた。
「本当の両親、ですか……。あの子の、生みの親についてはお話しできることは何もありません。先ほど申し上げた通りあの子には戸籍すらなかったのです。どこの国の方で、なぜあの子を手放さなければならなかったのか。あの子が生みの親についてどう考えているかも直接は聞いたことはありません。ただ」
「ただ?」
マスターは胸元に指を当てた。
「あの子がペンダントをしていることはご存知ですか? あれはあの子が寝かされていた籠の中に、あの子と一緒に入っていたものなのです。実の御両親からの贈り物でしょう。それを肌身離さず身に付けている。……会いたい、という想いはあるのではないでしょうか」
マスターは慎重に言葉を続けた。
「養子が自らのルーツを知りたがるのというのはある種の幻想であって必ずしも一般化すべきではありません。個人の性格や生育環境によって考え方は千差万別。生みの親について全く興味がないという子供さんも別に珍しくはないのです。しかし、逆に言えば強く知りたいと願われる方も当然いらっしゃるということです。実を言うと私がそうでした。私は両親のことは名前すら知りませんでしたが、自分を手放したことにもきっと理由があるはずだと、そう信じて少年期を過ごしてきました。大人になってから再会し、現実というものを知りましたが、それでも少年だった私にとって、実の両親がどこかで生きて私を想ってくれている、そう想像することが生きる希望の一つになっていたことは確かです。もしかしたら、あの子にもそういうところがあるのかも知れません」
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