(3)This is magic!
「つまり、ここが秋子さんの家なんだな」
ストローに口を付けアイスコーヒーをしゅるると吸った。心地良く冷やされた苦味と甘味が頬の内側を浄化していく。秋子さんは、いたずらがばれた子供みたいに上目でこちらを窺った。
「言ってませんでしたっけ?」
「言ってない、言ってない……」
嘆息し、頭を後方に傾けた。天井から三角錐のライトが呑気にぶら下がっていた。
秋子さんはご覧の通りの外見だ。親も同じだと考えるのは不自然ではない。いや、事実そうなのだろう。だが家族というものは何も血の繋がりだけで形作られるわけではない。夫婦。義理の両親。そして養子。簡単に事情を説明されたのは日替わり定食を食べながらのことだ。若鶏を頬張る口で彼女は言った。私はこの店のマスターの養女であると。
気付いたのは慶衣さんの一言だった。
「慶衣さん、マスターのことをマスターって呼んだからね」
「何かおかしいですか?」
「うん。だって入店したときはパパって言ったから」
ああ、と彼女は納得の表情を見せる。「それでわかったのか」という意味ではないだろう。それで誤解したのか、という貌だ。
「客の前で父親のことをマスターって呼ぶのは分かるよ。職場では飽くまで仕事上の関係を通す。個人経営の喫茶でそこまで徹底する必要があるかは分からないけど、まあ分かる。でも客の前でパパと呼んだあとで呼び方をマスターに切り替える意味が分からない」
このやり取りが自然に通じるのは『パパ』が慶衣さんにとっての父親ではなく別の誰かにとっての父親を指す場合だ。それは誰か? 会話の相手は秋子さんなのだから当然秋子さんということになる。つまりあのパパはmy fatherではなくyour fatherの意味だったのだ。
同様のことが、マスターと慶衣さんの会話にもあった。
『娘が何か失礼をしたのではありませんか?』
『するわけないじゃん、ねえ?』
答えたのは慶衣さんだが娘が秋子さんを指していても会話としては成立する。『秋子は人に無礼を働くような人間ではない』 彼女はそう擁護したわけだ。
前提を共有できている人間にとっては何ら不自然な会話ではない。前提を共有できていない俺だからこそ三人の関係を読み間違えてしまったのだ。
そして、ここが店舗兼住宅となれば荷物を移動させる先が簡単に増える。
「二階だな。俺がトイレに行ってる間、二階に上がって自室だかリビングだかに荷物を置いてきた。それだけの話でしょ?」
秋子さんが、えへへと頬に手を当てた。
「正解です。リビングに置いてきました」
「そう言えば、誰かが階段を昇り降りしてたもんな」
「聞こえてました?」
聞こえていた。マスターと慶衣さんが持ち場を離れられないのだから、あれが誰なのか疑問に思っても良かったかも知れない。
「ちなみに、私の予定を訊いたのは何だったんですか」
「ああ」
と、俺はグラスを下した。
「二階へ上がれるのが家族だけとは限らないからね。一応確認してみた」
「なるほど、慶衣さんも働くときは二階に荷物を置きますからね」
そう、秋子さんがこの店で働いていたとしても二階へ上がる資格はある。つまり午後にシフトが入っていれば先に荷物を置きに上がることも考えられるわけだ。しかし何も予定がないのであればこの仮説は成立しない。そして……。
窓の外に目を向けた。入口の上部に店の看板が張り出していた。
『ヒントは外です』
ヒントどころか、答えがそのまま書いてあるではないか。
「『BAR:Rituale di Vento』 イタリア語で風のお祭りってとこかな」
秋子さんは、えへへと後頭部に手を当てた。
「分かりにくかったですか?」
BARは南ヨーロッパで喫茶店を意味する言葉。ritualeは祭祀。diが前置詞でventoが風。繋げると風のお祭り。秋子さんの姓『風祭』だ。風祭という姓は風除け・風鎮めのための祈願行事に由来している。祭りを意味する言葉にはfestaもあるが祭祀という趣旨を踏まえてritualeと訳したのだろう。
ritualeもventoもさして馴染みのない単語だ。読んだだけではどこの国の言葉かも分からない。ただメニューを見返したらイタリア料理ばかりだったので、ひょっとしたらと翻訳サイトを立ち上げてみた。推測は当たっていた。
「でも、誰も『Rituale di Vent』なんて呼ばないんですよね。常連さんは大体『風祭』って言います。お父さんにも『風祭』に改名したらって言ってるんですけど」
「亡くなったお祖父さんとお祖母さんが一緒になって考えた名前ですよ。そんな簡単に変えられるわけないでしょう?」
割って入ってきたのはマスターだ。右手に一枚の皿を乗せていた。上にはカラフルな円盤が編隊を組んでいる。マカロンを頼んだ覚えはなかった。
マスターは、物柔らかに目を細めた。
「お近づきの印に」
「いいんですか?」
「お代は娘の小遣いから差し引きます」
「え!?」
秋子さんが、面白いぐらいに目を丸くする。マスターは驚愕の眼差しを涼しげな様子で受け流していた。俺は笑い、有り難く気持ちを頂戴することにした。
秋子さんは悩ましげな表情で皿とこちらを見比べていた。だが、やがて諦めが付いたのか肩を落としてマカロンを摘まんだ。さくりと歯の立つ音が聞こえた。
「でも、お祖父さまもお祖母さまも、改名には反対されませんでしたよ?」
「それはあの二人があなたに甘かったからですよ。私も改名案を考えたことがありますが、すげなく却下されました」
「……それはお父さんのセンスが悪かったからでは」
秋子さんとマスター。二人は互いに敬語で話す。だが他人のような余所余所しさは感じられなかった。血が繋がっていないことは理由ではない。これがこの親子の形なのだろう。
異人種の養子という特殊な関係とは裏腹に、会話をする二人の様子は実に安穏としたものだった。
と不意に青い瞳がこちらに向いた。
「成海さん、成海さん」
何か思い付いたらしい。ちょいちょいと手招きをする。俺は肘を突いて身を乗り出した。彼女はマカロンの皿を引き寄せると、取り出したハンカチで小皿を覆った。
一体何が始まるんだろう?
マスターが苦笑を浮かべた。秋子さんは「いいですか? よーく見ててくださいね」とカウントを開始する。1、2の……
「え!?」
ハンカチを跳ね上げたとき小皿のマカロンはすべて消え失せていた。俺はまっさらになった皿と、秋子さんを交互に見た。彼女はふふふと得意げに指を立て、
「This is magic!」
器用にウインクをしてみせた。
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