(7)踊るみたいに走っていった
海を眺めていた。海と砂浜の境界を。
白い泡がざあっと押し寄せ、砂地を撫でて帰っていく。実に原始的な水の揺らぎ。何億年も前から繰り返されてきたのだろうし、今後何億年と繰り返されていくのだろう。眺めたところで切りがない。一度見れば充分なはずだった。なのに目が離せなかった。白波で揺らぐその境界を、じっと眺めてしまう自分がいた。
顔を上げた。波打ち際で女子たちがきゃっきゃとはしゃぎ回っていた。特に秋子さんが上機嫌だ。スカートの裾を掴み、素足で波を跳ねていた。
何がそんなに楽しいんだろう。何が。
「成海さーん」
境界の向こうから俺を呼ぶ。
おざなりに手を上げ、スマホの画面に目を落とした。時刻は十一時半を示そうとしていた。
「あった。ほんとにあったよ、秋子さん!」
茅野が声を弾ませた。手には油彩のキャンバスが掲げられていた。
土で汚れた服を着替え、再集合したのは十一時だった。俺と秋子さんは、くだんの叔父の家にやって来ていた。元々は亡くなった茅野の祖父の家、つまりは親兄弟の実家にあたると説明された。茅野の祖父は本格的な写真趣味を持っていたそうで、本宅のほか、離れに暗室まで作っていたらしい。祖父の亡きあとは叔父がアトリエとして利用していたそうだ。画材類は多いが散らかっているという印象は受けなかった。
茅野が手にしているのは写真越しに見た『朝顔』の実物だった。但し、木枠から画布が剥がれ、片隅がぺらりと垂れ下がっている。
普通、キャンバスと言えば四角い枠に張り付けられた、まっさらなものを思い浮かべるだろう。だが厳密には亜麻の繊維で作られた帆布そのものを指す。その布を木枠に張り付けることで支持体として完成を見るわけだが、布なので二枚重ねて張ることだってできる。絵を描いた画布の上にもう一枚画布を重ねるなんてことも、まあ、できなくはないわけだ。
朝顔の絵の下には、もう一枚別の絵が顔を覗かせていた。
『朝顔の下を探してみなさい』
秋子さんは、俺が蜉蝣だの何だのと能書きを垂れている横で、ずっとシンプルに物事を考えていたのだ。
「でも、どうして朝顔だったんでしょう?」
釘抜きの作業を続ける茅野の横で、秋子さんが疑問を口にした。
この方法なら上に張る絵は何でもいい。朝顔である必要はなかっただろう。サイズの合う作品がそれしかなかったのか、そもそも意味などなかったのか。思い当たる節がひとつだけあった。
「たぶん、誕生花だよ」
「ああ」
と秋子さんが納得する。
ある花を象徴する言葉が花言葉だとしたら、誕生花は生まれた月日を象徴する花を指す。定義が曖昧で、国内においても確たるものは定まっていないらしい。たとえば俺の誕生日である七月三日ならハスやタツナミソウ、秋子さんの誕生日である十一月九日ならノギクがそれに該当する。そして朝顔が誕生花とされるのは八月一日。ちょうど茅野の誕生日だ。だとしたら、叔父の真意も見えてくる。
「この絵って……」
茅野がつぶやいた。秋子さんも首を傾げる。
「星の絵じゃない、ですね」
そう星の絵じゃない。違う作品だ。写真にはなかった一枚。見惚れる茅野の手元からぱさりと何かが滑り落ちた。薄っぺらなそれを秋子さんが指で摘まんだ。
「メモ……手紙でしょうか」
絵と絵の間に挟まっていたらしい。折り畳まれた紙片が透明のビニールで包まれていた。手渡された茅野が封を開いた。
手紙は全部で四枚。冒頭には雑な筆跡でこんなことが書かれていた。
『花彩ちゃんへ
今回のクイズはどうでしたか。簡単だったでしょう?
まさか松の木の下を掘ったりしていませんよね? 花彩ちゃんはがんばり屋さんですが思い込むと周りが見えなくなってしまうので、そのうち大きな失敗をしてしまうんじゃないかとおじさんはいつも心配しています。もし暑いなか頑張って穴掘りをしてしまっていたのならちゃんと水分補給をしてください。一緒に塩を舐めると良いらしいですよ』
茅野の耳が朱色に染まっていた。
手早く一枚目を後ろへ送った。
『さて花彩ちゃんがこの手紙を読んでいる頃にはおじさんはもう日本にいないと思います。行き先はまだ決めていません。でも色々な国を見て回りたいと考えています。この齢になって自分探しの旅というのも恥ずかしい限りですが一度外から自分の居場所を見つめ直す必要があるように感じたのです』
さらに一枚めくる。
『僕はいつも部屋の窓から遠くばかりを見つめていました。大切なものは手の届かない場所にあるのだと疑いもせずに生きてきました。でもある朝ふと考えたのです。
僕の居るこの部屋には本当に何もないんだろうか?
個展の失敗は良い機会でした。急にいなくなって心配をかけるかも知れませんが大丈夫。きっと大きくなって帰ってきます。お母さんには定期的に連絡を入れるので心配しないで。花彩ちゃんも高校受験がんばってください。風邪には十分気をつけて。それでは』
「ぴーえす、かやちゃんがほしいと言ってくれた星の絵。そだいごみの日にまちがってすててしまいました。ごめんなさい」
「捨てた……」
「捨てたって書いてますね……」
あんな苦労して探したのに。
茅野の顔を窺った。手紙を目元に押し当てていた。しばらくそのまま震えていたが……堪え切れなくなったらしい。やがてアハハと声を上げた。背中を丸め、くすぐられるみたいに肩を揺らした。可笑しくて堪らないといった茅野の姿を見ていると、いつの間にか頬が緩んでしまっていた。はっとして隣を見やる。秋子さんと目が合った。彼女は微笑とも苦笑ともつかない貌で「えへへ」と笑った。妙に気恥ずかしくなって、だらしない頬を指で抓った。
茅野はひとしきり腹を抱えたあと、あー可笑しいと涙を拭った。
「叔父さんらしいや」
そうしてもう一度キャンバスを掲げた。
最後の一枚にはこう綴られていた。
『星の代わりにこれを 花彩ちゃん、誕生日おめでとう』
叔父なりの謝罪、そして祝福なのだろう。用意されていたのは別の絵だった。
満面の笑顔を浮かべる少女の絵。
それよりも少し大人びた表情で、茅野は満足そうにしていた。
「成海さーん、ほらー、冷たくて気持ちいいですよー」
浅瀬から俺を呼ぶ声。
海なんか滅多に来ない。ちょっとは足も浸してみたい気持ちもある。でも、どこか抵抗感があった。何に起因するものなのか、俺にもよく分からない。
「俺は、いいよ」
素っ気なく答えると、秋子さんがむうと頬を膨らませた。
ぱちゃぱちゃと素足で駆けてきて、俺の腕を無理矢理掴んだ。
「ほおら、こんなとこで座ってたらタコに食べられちゃいますよー?」
「だからいいって。引っ張らないで。……って言うかタコって何!?」
秋子さんは、耳を貸さずにぐいぐいと腕を引っ張っていく。振り払うこともできず、波打ち際まで連行された。
波がものすごいスピードで迫って来て、くるぶしまで塩水で浸された。
「ひゃっ! つめたっ」
変な声が出てしまった。
二人はきょとんと瞬いたあと、声を出して笑った。
「成海くん、なんかかわいー」
「女の子みたいでしたねー」
むう、そんなに笑わなくても。
俺は女どもを睨み付けた。そして足元の水を掬い、えいと二人にかけてやった。女子たちが抗議の声を上げた。あとは報復合戦だった。俺も段々と楽しなってきて、気付けば一緒に海を駆け回っていた。
ふと、茅野が空を見上げた。
「あ、天気雨」
空に色濃い雲が一つ。霧状の粒がぱらぱらと顔に降り注いだ。すでにすっかりと濡れていた俺たちは心地良く雨を受け入れた。やがて秋子さんが岬のほうを指差した。
「ほら、虹です」
海を見下ろす白い灯台。まっさらなそれと重なるように七色の光が伸びていた。
秋子さんは心底から楽しそうに笑ったあと、踊るみたいに虹へ向かって走っていった。
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