(3)どこかでお会いしたことありませんか?
作法に則り手水舎で身を清めた。左手をすすぎ、口をすすぎ、右手をすすぐ。「最後に
拝殿の前はそれなりに広い。社務所や枝社が収まりよく配置されているだけで特別目を引くものはないが開放的だった。参道と同じくあちこちに楓の木が植えられていて秋の季節を想像させられる。澄んだ空気を取り込み、瞳を閉じてみた。
その光景は、想像よりずっと鮮明に、瞼の裏に映し出された。
「……秋子さん、さっき言ってた巫女舞って、この広場で奉納するんじゃない?」
彼女は不思議そうな貌をした。
「どうしてご存知なんですか?」
俺は、ぼんやりと敷地を眺め回した。
「俺、ここに来たことがあるかも。建物とか風景に見覚えがあるんだ」
「源三さんが連れて来てくれたんでしょうか?」
「たぶんね。いまいちよく覚えてないけど……」
答えつつ、眉間に皺を寄せる。
そう、見覚えがある。でも、いつの話だろう? 十年、あるいはそれよりもずっと前……。
おぼろげな記憶だが既視感ではない。でも思い出すことができない。いつだろう。
朝に見た夢を手繰り寄せているようでもどかしかった。明確な答えを出せないまま、俺は境内を奧へ進んだ。
秋子さんが言っていたとおり、拝殿の前に立て札があって呉葉神社の由来が記されていた。
呉葉神社の御由緒。要約すると次の通りだ。
長徳三年(西暦997年)、
呉葉姫は不思議な力を持っており、手を翳すだけで病を癒したり漁や作物の豊凶を正確に占うことができたという。また、歌や舞にも長けていて彼女が訪れ歌舞を披露した家には富や名誉がもたらされたそうだ。
村に受け入れられた呉葉姫であるが数年もたつと段々と故郷の村が恋しくなってきた。父や母は一体どうしているのだろう。姉や弟は元気で過ごしているのだろうか。
呉葉姫は村に流れ着いたときから一つの小箱を抱えていた。肌身離さず大切にしていたそれは故郷の母から手渡されたものだった。母からは『決して中を開けてはいけない』『どうしても故郷が恋しくなったときだけ禁を破りなさい』と厳命されていた。開けるべきか、開けざるべきか。悩めば悩むほど懐かしい故郷への想いは募っていった。
やがて彼女は決心する。箱の中身を確かめてみようと。
満月が海を照らす夜、姫は一人で浜に立った。故郷の方角を臨み、震える指先を蓋にかけた。するとどうだろう。箱の中から吹き荒ぶ風と大波が溢れ姫の美しい身体を一口に呑み込んだ。彼女は叫ぶ間もなく沖へと流され、あとには何事もなかったように凪いだ海があるばかりであった。
「姫の姿が海に消えて数日がたったある日、浜に一つの巨石が打ち上げられました。村人はその石を呉葉姫の化身と考え、社に祀って姫の魂を慰めようとしました。それが当神社の始まりだと言われています。石は御神体として現在も当社の本殿に安置されています……か」
「何だか悲しいお話ですね」
拝殿に目をやった。薄暗い建物の奧に、本殿へ続く階段が見えた。
「常世の国ってどこなんでしょう?」
訊かれて俺は「ああ」と応える。
「海の彼方の国……理想郷みたいな意味かな。古事記や日本書紀にも記述があって富の国、不老長寿の神々が暮らす国だって信じられていたそうだよ。そこから来たひとは『まれびと』って呼ばれて、福をもたらす神様として崇められたんだって」
秋子さんは「へえ」とつぶやき、胸元のペンダントに指で触れた。
ちなみに浦島太郎が渡った竜宮城も、原型では蓬莱山と書き記され、これは常世の国を指すと言われている。竜宮城の表記が現れるのは室町時代になってからだ。
もちろん常世は神話の存在だから、そこから流れ着いたとされる呉葉姫の実態も伝説とはかけ離れていると考えるべきだろう。彼女の故郷はどこなのか。そもそも本当に実在していたのか。空想に耽るのは楽しいが詮のない話でもあった。
賽銭箱に小銭を投げ入れ拍手を打った。秋子さんは随分と長い間瞳を閉ざしていた。一体何を願っていたのだろう。睫毛が絵筆みたいに長いと思った。
「こちらからも降りられるんですよ」
祈り終えた秋子さんが示したのは拝殿を背にして左手だった。離れの脇で小道が口を開いていた。車一台が楽に通り抜けられる無舗装の坂道で下の道に繋がっているという。恐らく境内に物資を運搬するための通路の役割を果たしているのだろう。
「松の木がたくさん植えられた公園があるんです」
説明のとおり、蛇行する斜面を下ると松が鬱蒼と茂る空間に辿り着いた。海風に煽られた無数の松は全て同じ角度、同じ方向へ傾いている。行儀正しくもあり、滑稽なふうでもあった。俺たちは木洩れ日の射し込む歩道をゆったりと散策した。
「ところで」
と秋子さんがつばの下から覗いてきた。
「見覚えがあると言えば、成海さん。私たち、どこかでお会いしたことありませんか?」
傍らに佇む松を見上げた。樹皮で覆われた幹の先、針葉がびっしり突き立っていた。数は見当もつかない。肩をすくめた。
「……さあ、どうだろ。わからないけど」
「どこかで、お会いしたことがあるような気がするんですよね。どこでしょう?」
ううむと、考える素振りをした。
「じいちゃんの家には年に数回は来るからね。小さい頃に遊んだことぐらいあるのかも」
「だとしたら感動の再会ですね。ドラマチックです」
「ありがちな話だよ」
だが、彼女はもっともらしい仮説に満足したらしい。ふふふと口許を緩めていた。想い出との再会を信じているわけではないが、そう考えるのも面白い。そんなところだろうか。一方の俺は全くのでたらめを口にした気分だった。こんな女の子と遊んだ記憶など一切ない。一切ないが、心当たりがあるとすれば、それは……。
そのときだった。
「ん?」
チャッチャッチャとリズミカルな音が近付いてきた。思い浮かんだのは犬の足音。爪が地面に触れる音だった。誘われ、振り返った。その瞬間、
「え?」
と秋子さんが目を丸くした。彼女が提げていた籠バッグ。どういう材質で編み込まれているのか。場違いにも、そんな疑問が浮かんだのだが……そのバッグが手から離れて宙を舞った。
いや、飛んだわけではない。バッグは綺麗な放物線を描きながらもしっかりと口でキャッチされていた。牙の生えた大きな口に。
犬。やっぱり犬だ。茶色い毛並の柴犬だった。軽やかにジャンプした体躯がフライングディスクよろしく彼女のバッグを奪い取ったのだ。犬はバランスを崩すことなく着地すると唖然とする俺たちに尻尾を振った。しばらく黒目を輝かせて得意がっていたが、やがて身を翻すと松林の奧へと駆け出した。
「こ……」
秋子さんが声を詰まらせた。
「こらーっ、待ちなさーい!」
叫ぶや否や、麦わら帽子が舞い上がった。
「秋子さん!?」
間抜けに驚いている間にも、ワンピース姿は遠ざかっていく。
そんな恰好で無茶なと呆れたが、彼女は軽やかに木々を駆け抜けて行った。木の根を飛び、幹を軸に弧を描き、白いスカートで花を咲かせた。揺れる金髪が煌めていた。
舞い踊っている。
そんな印象が脳裏をかすめた。
それでも走力の差は歴然だろう。結果の見えた勝負と成り行きを眺めていると唐突に犬がピタリと止まった。向きを変え、前傾姿勢で身構えた。
「もう逃げられませんよ!」
秋子さんが腕を伸ばす。奪われたバッグに手が届かんとする、まさにその瞬間、犬が後方へステップを踏んだ。軽々と躱され「こらっ……」と戸惑いの声が漏れた。
「駄目ですっ、返してくださいっ……! かえ、して、くだ、さいっ!」
二度、三度と腕を振るっても結果は同じだった。前後左右に跳ね回り秋子さんを翻弄する。
(完全に遊ばれてるな……)
そのうち秋子さんは蹴躓き、すってんころりんと転んでしまった。
そんな恰好で動くから。
彼女は、ぐぐぐと拳を握ったあと、びしりとこちらを指差した。
「成海さん、そっちです! そっち行きましたよ!」
「え!? ……いや、え?」
犬が嬉しそうに駆け寄ってくる。新しい遊び相手を見つけたみたいに。
(いや、無理だろ!?)
身のこなしで勝てる道理はない。
それでも一応は腕を開いた。
充分まで引きつけたところで、ええいままよと飛びかかる!
「とりゃ!」
無理だった。
犬は直前で進路転換。俺はずささと地面に倒れ込んだ。
何をやっているんだろう。
虚しさと不甲斐なさに起き上がれないでいると頭上ですんすんと音が聞こえた。犬の鼻が間近にあった。咥えたバッグをひけらかし、ふんすと荒く鼻息を吹いた。
「てめえ……!」
立ち上がり再び捕獲を試みる。復活した秋子さんも参加し二人で尻尾を追いかけた。でも結果は同じだった。すばしっこさに手も足も出ず、秋子さんはすてんと転んだ。
「成海さん、挟み撃ちです!」
馬鹿にされ続けて数分間、迂回する秋子さんが声を上げた。俺は、脚を開いて腰を落とす。犬は速度を保ったまま突進してくる。
速い。だが必ず進路を変える。右か、左か。
その瞬間を逃すまいと一挙手一投足に神経を集中させた。が、
「い!?」
相手はスピードを緩めなかった。さらに手足を加速させ、俺の股下をくぐり抜けた!
「野郎っ」
振り返ろうとして、はっと気付く。目の前に秋子さんが迫っていた。
「わわわ、成海さん!?」
ブレーキをかけてのけぞっていたが時すでに遅し。全速力のタックルを喰らわされ、もろとも地面に倒れ込んだ。
「いたたた……。大丈夫ですか、成海さん」
仰向けになった身体の上から、秋子さんが訊いてきた。
「あ、うん。……大丈夫」
肩と背中を打ち付けはしたが、たぶん怪我などはしていない。痛みも息苦しさも痩せ我慢ができる程度だ。それよりも今の体勢のほうに問題があるような気がした。何と言うか、すごく柔らかい。後頭部をもたげると彼女の瞳が間近にあった。
「秋子さん、あの……」
「はい?」
と胸板の上で小首を傾げられる。
ずっと走ってきたからだろう。汗の香りが鼻孔をくすぐった。
「伸し掛かられたら、その……」
続きを口にできずにいると、
「コラ、何やってるの!?」
一喝が飛んだ。どこからともなく。
俺は、びくりと身体を震わせた。
慌てて秋子さんを押し退け正座する。意味もなく。
動悸を抑えつつ振り返った。
そこにいたのは女だった。齢は俺と同じくらいだろうか。堂々たる仁王立ちで色の濃い眉を釣り上げていた。だが生来的なものだろうか。どこか愛嬌があって迫力がなかった。そして、その迫力のない叱責を向けられているのは俺ではなかった。
「だめじゃない、さくら! 勝手に行っちゃ! 言うこと聞かないともう連れて来てやんないからね!」
矛先を向けられたさくらはどこ吹く風で尻尾を振っている。女は、愛犬に首輪を嵌めようと近付き、眉を寄せた。
「……って、あんたさっきからなに咥えてんの? トマト? そんなのどっから……」
と辺りを見回し、はたと動きを止める。俺たちの存在に気付いたらしい。愛犬の拾い物と、薄汚れた俺たちを見比べ何となく事情を察したようだ。急いで首に縄を付け、籠バッグを取り上げた。リードを掴み、とてとてと早足で駆けてくる。
「ごめんなさい、大丈夫ですか!? ちょっと目を離した隙に首輪が抜けちゃって……って、うわ、外人さん? 綺麗なひと……」
綺麗。そう言われた秋子さんは、きょとんと瞬いた。そして微笑むような、むず痒いような、複雑な表情を見せた。照れているんだろうか?
女は、こちらに視線を移してくる。そして眉間に皺を寄せた。見慣れた反応だったのでうんざりした。こいつどっちだという表情。
少しは隠せと苛ついたが、困惑したのは俺も同じだった。
女は緑色のジャージを着用していた。デザインからして学校指定のものだろう。胸の部分に校章が刺繍されていたが見覚えがなかった。それは別にどうでもいい。気になったのはその足元だ。
腿のあたりから靴にかけて、べったりと土で汚れていた。
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