(2)八色町へようこそ
「昔から仲良しなんです。うちのお父さんと」
自転車を突きながら彼女は言った。
田畑に囲まれた直線の県道。その素朴さ同じ程度に、じいちゃんと秋子さんの関係も素朴なものだった。
「要はただの友達付き合いってことね」
「ええ、小さい頃から孫みたいに可愛がって貰ってて。こうやってお野菜を分けて貰ったり、うちからおかずを御裾分けしたり。……孫みたいだなんて、本物のお孫さんに言うのも変でしょうか?」
「や、逆に安心したよ」
「安心?」
変な宗教にハマったんじゃなくて。
声には出さずにそう答える、
もっとも、じいちゃんは既に信者だ。グッズとかで大分貢いでると思う。
「成海さんはどこに住んでるんですか?」
今度は彼女が質問する番だった。
俺は東の空を見た。雲が稜線を越えようとしていた。
「市内のほう。こっちは滅多に来ない」
だからじいちゃんにこんな外国人……いやいや、金髪の女の子の知り合いがいるなんて知らなかった。
「学校は?」
「西高」
「すごい。頭いいんですね。私なんか八色高ですよ」
続けて学年を訊かれたので一年だと答えると「私のほうがちょっとおねえさんですね」と嬉しそうにしていた。秋子さんは二年生らしい。
取り留めのない会話を続けていると、向かう先から風が吹いた。秋子さんは「ひゃあ」と帽子を手で押さえる。金色の髪を梳く風には、微かに潮の香りが混ざっていた。遠くに青い景色が見えた。
じいちゃんたちが住む
秋子さんは、のほほんと自転車を突きながら、忙しなく方々を指差していた。
ここが町の図書館です。あちらが海水浴場。さすが夏休み、まだ早いのにたくさんひとが泳ぎにきてますね。海のすぐ近くで工事をしているのは津波避難タワーです。大きいでしょう? もう少し向こうへ行くと漁港があるんですよ。美味しいものがたくさん引き揚げされるんです。近くにはお寿司屋さんもあって新鮮なネタがいっぱい食べられます。カツオ、カンパチ、ウニ、イクラ。……はあ、舌がとろけてしまいそう。あそこの喫茶店は見えますか? 夏季限定スペシャルチョコバナナジャンボサンデーは私のおすすめです。あとでちゃんと紹介しますね。ほら! 見てください。ソフトクリームが売ってますよ。わあ、美味しそー……。どうです、一つ買っていきませんか?
ほとんど食い物の話だった気がする。
ソフトクリームをぺろりと平らげた秋子さんは次の目的地を手で示した。
「こちらが
海の真正面に石造りの鳥居が立っていた。大きくて、堂々とした立ち姿だ。
「秋には大きなお祭りがあるんですよ。私事なのですが、今年は私が巫女舞を奉納する予定です」
このひとの巫女姿か。どんなだろう。
金髪と巫女装束の組み合わせを想像できないでいると「少しお参りしていきましょうか」と、彼女はバッグの持ち手を握った。鳥居をくぐっても拝殿は見えず参道が真っ直ぐ続いていた。道の両脇には楓の木が整然と並び、青々と葉を繁らせている。秋の景観は見事なものだろう。木陰を踏みながら並木道をしばらく歩くと今度は長い階段が見えた。登った先が拝殿らしいが段の多さにげんなりした。登り口には神社の概要が掲げられていた。
呉葉神社。海上安全・航海安全・豊漁祈願・五穀豊穣・縁結び・開運招福・安産祈願・夫婦和合・歌道上達などなど。祭神は
「って誰?」
底筒男命、中筒男命、表筒男命。この三神は聞いたことがある。黄泉の国から戻ってきた
「ええと、昔このあたりにいた女神さまとかお姫さまとかそんな感じの人ですね」
いや、それは何となくわかるけど。
「確か拝殿の前に姫の伝説を書いた立て札みたいなのがありましたよ」
行ってみましょうと秋子さん。跳ねるみたいに石の階段を上っていく。俺も運動不足の身体に鞭を打った。
「成海さんは、どうしてこっちに来たんですか?」
先行する秋子さんが訊いてきた。見かけによらず体力があるのか息に全く乱れがない。対する俺はトラックを全力で走ってきたかのような有様だった。両膝に手を付き、荒い息を整える。石段にぽたりと汗が垂れた。
「……別に。向こうにいても、落ち着かないから」
「では、こちらでは落ち着いて……その、えっちな画像を?」
「いや、えっちな画像の話はいいから」
調子狂うな、このひと。
疲労を溜息に変換する。
「……小説を書いてるんだよ。来年の新人賞に応募するんだ。今年は一次で落ちちゃったから」
小説! と弾んだ声が降ってきた。
「すごい。作家さんになるんですね」
「さあね。でも、特別な人間には成りたい」
「特別な人間ですか」
「これが俺だと言えるような、特別な人間だよ」
喩えるなら……そう、石碑だ。
石碑に名前を刻み込むように、高砂成海の名前を特別なものにしたいのだ。
石段を睨んでいると「大変そうですね」と呑気な反応が返ってきた。汗を拭った。
「大変だよ。資料集めは切りがないし、窓から飛び降りたくなるほど考え抜いたって面白いプロットは浮かんでこない。仮にアイデアがあったとしても、俺の未熟な文章力でどこまでそれを表現できるものか」
本当はこんなことをしている時間なんてないんだ。
そう口にしない程度の分別はあった。
「でも、苦しむことだって必要なんだ。楽して特別な人間に成れるわけがない。それができるのは……生まれたときから特別な才能を持っているやつだけだ。俺みたいな凡人は苦しんで、苦しんで、苦しまなきゃ、特別な何かに成ることはできないんだよ。秋子さんには分からないかも知れないけどさ」
彼女は、迷ったのかも知れない。少しばかり沈黙を挟んだ。だが結局は「そうかも知れないですね」と相槌を打った、
「秋子さんは、なりたいものとかないの」
彼女はまた少しだけ考え込んだ。
「子供の頃はケーキ屋さんになりたいと言っていたらしいです。でも、お父さんにケーキ屋さんはケーキを食べるところじゃないんだよと言われて泣いてしまったんだとか」
「今は?」
「これと言ったものがないんですよね。来年は受験ですからそろそろ決めなきゃとは思ってるんですけど。うーん、頭が痛いです」
さして痛くもなさそうに「えへへ」と照れた様子を見せた。それでも一応は考えてみたのだろう。腕を組み、あれもいいしこれもいいしとメトロノームみたいに揺れていた。だが、やがて何かに納得したのか、うんとひとつ頷いた。
「そうですね。私が何者になるにしても毎日を楽しく過ごすことができれば、それでいいかなって思ってます」
うんと、大きく、もうひとつ。
「楽しいのが一番です」
彼女はにっこりと微笑んだ。その胸元で銀色のペンダントが光を放っていた。身に付けていることには気付いていたが四葉のクローバーの意匠だとは気が付かなかった。だからどうという話でもないが。
(楽しいのが一番、か)
否定することではないだろう。だが素直に受け入れられない自分もいる。顔を伏せ、古ぼけた石段に視線を逃がした。
「ほら、成海さん、見てください」
促され、指の先を目で追った。
海が、広がっていた。
見渡す限りの青海原。涼しげな色が、何となく丸みを帯びた水平線までたゆたっていた。静かだった。雲も、船も、蝉の声も、どこかのんびりとしていて、許されているようだった。遠くに聞こえる波の音に意識を委ねていると晴れ間に白い影が見えた。心地よい潮風に乗って羽ばたいた翼は、俺の頭上で穏やかに鳴き、社のほうへ飛び去っていった。目で追い、振り返ると、海と同じ色をした瞳が、嬉しそうに細められていた。
「成海さん」
黄金色の髪が、風に踊りながら、きらきらと光を放っていた。
「八色町へようこそ」
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