第1話 秋子さんと海沿いの町

(1)彼女は太陽のような存在だった

 彼女は太陽のような存在だった。

「成海ー。おい、成海ィ」

 宇宙に輝く恒星であり、豊穣をもたらす女神だった。

「成海よォ」

 惑える民の標であり、地上に降り注ぐ希望だった。

「成海ィ!?」

 誰もが彼女を愛し、彼女もまた愛に応えた。地上では薔薇が咲き誇り、歓喜の歌が満ちて溢れた。

 彼女は、彼にとっての悪夢だった。

「聞こえてんだろ成海ィ!」

 視力を略取する光だった。髄まで焼き尽くす炎だった。逃げ場すら呑み込む厄災だった。無邪気で残酷な滅びだった。彼は苦痛に泣き叫んだが彼女は彼を顧みなかった。彼の存在は灰の一粒にすら成れず、やがて人々の記憶から忘れ去られた。あとには惨めさすら残らなかった。

 彼女は、太陽のような存在だった。

「オイ、返事しねえか糞ガキ!」

 そこまで打って指を止めた。瞼を閉じ、嘆息する。辛抱強く。

 蝉の声が部屋を蝕んだ。

(無視してやろうか)

 一分程度はできていたことだ。継続するのは難しくない。一分が終われば次の一分を始め、その一分が終われば次の一分を繰り返す。そうして一分を積み重ねていけば自ずと目的は達成できる。

 画期的なアイデアのように思えた。理論上は可能なはずだ。そして、理論上可能なアイデアとは、実現不可能なアイデアのことだ。

 舌打ちをしてエンターキーを弾く。その音が存外に強く響いた。扇風機を消してノーパソを閉じる。朽ちて抜けそうな階段を降り、居間に向かって唾を飛ばした。

「なにじいちゃん!? さっきから! うるさいんだけど!」

「うるせえぐらい聞こえてるなら返事しろよてめえは! 口が要らねえなら毟り取るぞ!」

 浅黒い髭面から罵声が返ってくる。畳に鎮座した巨体の向こうでテレビが耳障りな音を垂れ流していた。リモコンを引っ掴んで消してやった。

「てめっ……、何しやがる成海! 俺が折角……」

「いい齢してアイドル番組なんか見ないでよ」

「いいだろうが別に、可愛いんだから!」

「気持ちが悪いんだよ!」

「なあにが! 夏休みだっつーのに朝っぱらからエロ画像漁ってるようなやつに言われたくねえわな!」

「エ……っ、漁ってねえよ! 小説書いてんの!」

「一丁前に小説ときたか、お利口さん! で、前は何になるって言ってたっけか? 画家? その前は漫画家だっけか? 道具集めただけで全然続かなかったって話じゃねえか」

「続いてますぅ新人賞にも応募してますぅ」

「はっ! でもって箸にも棒にもかからないで一次落ちだろ? いい話じゃねえか! 人様の家で寝泊まりするなら無駄なことやってねえで畑仕事の一つでも手伝えってんだ!」

 歯を剥き、ぎりぎりと睨み合う。握ったリモコンがぴしりと軋んだ。だが不意に、徒労感が全身を襲った。とてつもなく不毛な言い争いをしている気がして溜息を吐いた。

「……で、なに? なんか用事?」

 じいちゃんは「ああ」と分かりやすく顔を綻ばせた。

「姉ちゃんからなんか連絡あったか?」

 もうひとつ大きな溜息を吐いた。

「そんなことでいちいち呼ばないでよ……」

「孫娘のこと気にして何が悪いってんだ。で、どうなんだ?」

 開けっ放しの縁側を見た。目に映るのは緑ばかりだ。庭木に田んぼに畑にお山。空だけが自分の色を主張している。晴れているのか曇っているのか曖昧な天気ではあったが陽射しが和らぐのはありがたかった。雲の隙間で白い影が尾を引いていた。

「最終便で東京に戻るってさ。こっちには来ないよ」

 じいちゃんは「なんだあ……」と、やっぱり分かりやすく肩を落とした。俺は鼻で笑ってやった。

「当たり前だろ。姉ちゃん忙しいんだから。高速使って一時間もかかるこんな糞田舎までわざわざ来ないよ」

「じゃあ何か? そんな糞田舎にわざわざおいでくださって引きこもってらっしゃるてめえは本物の糞か? あーあ、折角、顔が見られると思ったのによお」

 リモコンを乱暴に奪い取りテレビの視聴を再開する。馬鹿みたいなライブが終わり、馬鹿みたいな企画が始まっていた。『目撃せよ! アイドル新世紀。1000万人が愛を叫んだ番組史上最強シリーズ 沈黙を破り、武道館に新歌姫伝説が始動する』 髭面が「おほお」と耳障りな奇声を発した。うん、実に気持ちが悪い。

 二階へ戻ろうとするとインターフォンが鳴った。

「成海、おめえ出ろ」

「はあ? どう考えてもじいちゃんの客だろ」

「口答えしてねえで出ろ。宗教の勧誘なら塩撒いとけ。それとな、成海」

 じいちゃんは背中で言った。

「あんまり難しく考えるんじゃねえぞ」

 不意な一言だった。俺は無言で畳を睨んだ。何か言い返さなければと口を開いたが舌が渇いただけだった。もう一度チャイムが催促したので、その話はそれで終わった。

「はいはい、今行きますよっ!」

 どすどすと床板を踏み玄関へ向かう。サンダルに足を突っ込み、格子戸を掴んだ。

 瞬間、目の前がぱっと明るくなった。

 頭に浮かんだのはシンプルな疑問だ。

(なんでだ?)

 なんで、じいちゃんの家にこんなひとが。

 立っていたのは一人の少女だった。微かに残る幼さと、微かに香る大人っぽさが自然に両立できている。そんな年頃の女の子だ。夏らしい真っ白なワンピースに麦わら帽子。手には籠バッグが握られている。華奢な肩に流れる髪は稲穂みたいな黄金色で、海の色をした瞳は素直な様子で輝いていた。

 ひどく不似合だった。七十過ぎのくたばりぞこないにも、朽ち果てそうなボロ屋にも、あまりに似つかわしくない訪問客。

 こんな糞田舎の、こんな糞ジジイの家に、どうして外国人の女の子が訪ねてくる?

 唐突な展開に思考がすっかり参ってしまう。しかし彼女も似たようなものだった。長い睫毛をぱちぱち動かしたあと、ことりと首を傾けた。

「……高砂源三さんのお宅、じゃなかったですっけ?」

 流暢な日本語だった。完璧な発音。俺はこくりと頷いた。

 彼女は、頭から爪先まで俺を眺め下ろした。人形みたいな目に見つめられ鼓動が速まるのを自覚していた。少女は「はあ」と気の抜けた声を漏らした。

「源三さん、随分と可愛らしくなりましたね……」

「源三は俺の祖父です」

「え、お孫さん!?」

 そこで間違うか?

 あらびっくりと口に手を当てる外人に、恐る恐る問いかけた。

「……あの、祖父に何か用ですか?」

「え? あ、はい。ええとですね。これを」

 と籠バッグを掲げたところで、背後から野太い声が降ってきた。

「おお、アキちゃん」

「源三さん」

 玄関から突き出た髭面を見て、外人……アキちゃんとやらの瞳が明るくなった。えへへとはにかみ、

「知らない女の子がいたからびっくりしちゃいました。はい、これどうぞ」

 とバッグを差し出した。じいちゃんは俺を押し退け「いつもすまないね」と持ち手を掴んだ。

「孫が遊びに来ててね。びっくりしたろ? ついでにもうひとつびっくりさせると、こんな顔してっけどこいつ男なんだぜ」

「え! そうなんですか?」

「ハハ、髪切れってな。女装が趣味なんだとよ」

「女装が……」

「いや、そこ信じないで」

 俺が半眼で突っ込むと「あ、冗談なんですね」と照れ笑いを浮かべた。

 身体の前で手を重ね、姿勢を正した。

「はじめまして、源三さんにはいつもお世話になっています」

 ぺこりと麦わら帽子を揺らす。世話されていますと言われてもハアドウモとしか返せない。じいちゃんは顎髭をじゃりじゃり撫でた。

「オレ、なんか世話してたっけ?」

「いつもお野菜くれるじゃないですか」

「ああ、そうそう。トマトあるんだけど持って帰る?」

「わあ、いいんですか。ありがとうございます」

 いいよいいよーと奥に引っ込んでいくじいちゃん。謎の外人と二人きりにされる、俺。

 じいちゃんの客であることは確定したので留まる理由は特にはなかった。ただ興味が足を縫い止めていた。じいちゃんと、この女の子。一体どういう関係なんだろう。

 観察が露骨に過ぎたのかも知れない。視線がぱちりとかち合った。彼女はにこりと愛想を浮かべた。俺は、汗ばむ首筋に手を当てた。

「日本語、上手だね」

 彼女はきょとりと瞬き、苦笑した。

「だって日本人ですから」

「……帰化?」

「生まれも育ちも……いえいえ、生まれは分かりませんが育ちはずっとこの町です。かざまつりあきこと言います。風のお祭りで風祭。秋の子どもと書いて秋子。風祭秋子」

「風祭、秋子さん。風祭さん」

「秋子でいいですよ」

 秋子さん。秋子さんか。

 風流な名前を胸に染み込ませていると、じいちゃんが戻ってきた。

「ほい、お待たせ―」

 とバッグを返す。持ち手の隙間からぷりぷり太ったトマトが顔を覗かせていた。秋子さんは「わあ、真っ赤ですねー」と頬を緩めた。

「お父ちゃんにもよろしく言っといてくれ。それと」

 ちらりとこちらに視線を向けてくる。

「秋ちゃん、今日は暇?」

「? ええ、お使いも終わりましたから。帰って夏休みの課題をするくらいです」

「じゃあさ、このエロ坊主に町ンなか案内してやってくんねえかな」

「え? 俺?」

 なんで?

「俺? なんで? じゃねえよ。おめえ休み終わるまでずっとこっちにいんだろ? 町に何があるかぐらいわかっとけ。つうか鬱陶しいんだよ。辛気臭え面で24時間休みなくエロ画像漁られるとよ」

「漁ってねえっつってんだろ!」

 じいちゃんは「いいから行って来い」と俺の背中をばしりと叩いた。弾みで前につんのめる。傾いた肩を秋子さんが支えてくれた。ひんやりとして心地のいい手だった。顔を上げると、青い瞳が、はっとするほど近くにあった。

 彼女は瞬き、きらりと宝石を輝かせた。とびきりの何かを見つけたような、そんな眼差しだった。得意げに胸元に手を当てた。

「わかりました。では不肖ながらわたくし風祭秋子がナビゲーターを務めさせていただきます。お孫さんに我が町の魅力をたっぷりとご紹介いたしましょう!」

 冗談めかして口上を並べたあと「さあ」と俺の右手を掴んだ。

「え、待って。俺まだ、行くなんて……」

 秋子さんは気にしない。戸惑う俺を、ぐいぐいと明るいほうへ引っ張っていく。

 待ってくれ。せめて身支度をさせてくれ。

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