秋子さんの楽しい日常
大淀たわら
プロローグ
call
――なにを泣いているのですか?
今はもう昔のはなしだ。
それは、声と言うより鈴の音、あるいは詠のような、何か清らかな音色に聴こえた。
ほっといて欲しくてうずくまっていたはずなのに顔を上げずにはいられなかった。おれは、振り返り、そして息を呑んだ。
背を預けていた幹の向こうから、ひとりの女が顔を覗かせていた。見覚えがない、という意味でもそうなのだが、それ以上に近しい誰とも似ていなかったことに驚きを隠せなかった。母とも違う。姉とも違う。幼馴染とも全然違う。
思えばそれが、生まれて初めて感じた美しいという感情だったのかも知れない。
これがお姫さまというやつなのだろうか。
紅葉柄の着物に見惚れながら、そんなことを考えた。
そのひとは、小首を傾げ、不思議そうにまた尋ねた。
――みんなのところへはいかないのですか?
遠くで笛の音が鳴っていた。太鼓の音。そして笑い声。
おれは、着物の袖を握り、ふるふると頭を振った。
あんな乱暴者のところに誰が戻るものか。どうせまた頭を叩かれるだけだ。
そう答えたわけではなかったが、そのひとはそれで察したらしい。困ったような、それでいて微笑ましいものでも眺めるような、そんな笑みを浮かべた。
そして何も言わず、唇を噛むおれに手を差し出してきた。おれは、その真っ白な指先に目を奪われた。気付けば自然と手が伸びていた。白さが形になったような、ひんやりとして心地の良い手だった。
そのひとは俺の手を引き、傍にある池に近付いた。膝を折り、地面に落ちていた楓の葉を一枚摘まんだ。
何をするつもりなのだろう。
そのひとがこちらの顔を窺っていたのは、おれの期待を確かめていたのだと思う。にんまりと口の端を広げ、そして、落葉を摘まむその腕を真横に振った。
「わあっ!」
思わず声が出ていた。
振るった袖から、無数の紅い葉が水面に散ったのだ。まるで花吹雪だった。
一枚しか持っていなかったはずなのに、どうして?
真っ赤に染まった水面と、そのひとの顔を交互に見比べた。そのひとは、おれの反応に、大いに満足したようだった。
それから、そのひとは落葉を風に舞わせてみたり、自在に色を変えたりと、不思議なことを次々披露してくれた。俺は、そのひとの振る舞いにすっかり魅了されてしまっていた。
やがて、そのひとは広場のほうを指で差した。
遠くで、おれを呼ぶ声が聞こえた。おれは、もう一度そのひとの顔を窺った。
彼女は、こくりと頷いた。
おれは、後ろ髪を引かれながら、呼び声のするほうへ足を踏み出した。
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