7話「ゲームオーバーまであと少し」
ゲームは良い。現実では叶わないこと、その世界でしか適用されないルールで統制されている。人間全てが数値で表現できたならば、こんなに苦しい思いはしなかったんだ。
きっと神様と呼ばれる奴は現実という世界のゲームバランスを間違えたんだ。高い塔を作られて焦るくらいには、
まあそれも上書きしてしまえばいい。昨今のゲームに必須とも言えるアップデートが適用されてしまえば、こまめな更新によってクオリティは高められていく。ついでにオマケ要素も無料配布だ。
意外と簡単に入手できた注射器に、気持ち悪いほど真っ赤な液体が入っている。
成功するかは半々。失敗すれば死ぬだけだ。俺以外に被害は出ない、エコ仕様。死因不明の遺体が発見されたとテレビで流れるだろう。まあ背後にある観光名所のイメージダウンには繋がるかもな。その時はメンドーだけど少し歩くか。
腕に痛みが走る。自らに注射など始めてやるからだろう。病院の看護師さんでも上手い下手はあるが、下手な人と比べても酷いくらいだ。発汗が激しいのは夏の夜だからじゃない。目の前が霞む。
煮えたぎる痛みが全身を駆け巡る。鈍痛と激痛が交互にやってくる。休む隙も与えてくれない。携帯電話のカメラ機能を使って自分の状態を確認する。目が赤い。どうやら即効性らしい。
首筋を伝う汗が不快だった。夜風で冷えれば、そこから寒気が襲う。インフルエンザで死を覚悟した時と似ている。体中痛いし、熱いし、寒いし、訳がわからなくなる。ただ意識だけが鮮明だ。
硝子の靴音が聞こえた頃には、やっと期待した効果が始まった。驚く相手を肩慣らしに倒して、大体の操作感を掴む。次にバイクの排気音。どこかピンと来ていない金髪に対して、同じことを繰り返す。これで迷いはない。
しかし予想外にも早く嗅ぎつけられたな。青い血か、深山カノン経由か――それとも。
まあいい。目の前に現れた女子高生の群れとか、社会人の団体とか。全員倒せばゲームオーバーだ。ああ、クリアじゃない。エンディングも訪れない。これはそんな
ただリセットボタンを押すしかない。そして押すのは俺だ。俺を
余計な心配はしなくていい。歴史を変えようとか、誰かの不幸を幸福に差し替えようとか、結末全てを塗り替えるなんて大したものじゃない。ほんの少しだけ、
紙媒体の書籍を、電子配信しても内容は変わらないのと同じだ。根本や前提を覆しても全てが変更するわけじゃないだろう。 リメイクされたゲームがダウンロード可能、ソフトは不要、便利な世の中に適合した形に変化させていく。
魔法という馬鹿げた
代償に俺の存在全てくれてやる。枢クルリという人間は、最初から消える。
まあ怠惰な俺にも少しは価値があったみたいだ。ゲームに負けて倒れていく奴らを冷めた目で見下ろす。
事務手続きのように勝利を掴み取り続ける。一度でも敗れたら、この計画はご破算。だが俺は負けたことがない。そして今だけは絶対に敗者になるわけにはいかない。記憶の中で路上に倒れる少女と、猫の死体が重なる。
魔法さえなければ。あんなことにはならなかった。あれも、これも、今も。全部。痛みが続く体は軋みを上げているようで、吐く息は夏の暑さにも負けないほどの熱を持っていた。
メンドー。痛いのも、苦しいのも、辛いのも。
早く終わらせよう。俺の暴走した固有魔法で。
これが最短で最善の方法だから。
スカイツリーを背に燕が飛んでいく。追いかけてきた女子高生達の固有魔法に触れては消えていった。露とも残らない、いっそ鮮やかな程の消え際。
俺こと、雑賀サイタと並ぶように走っている天鳥ヤクモの固有魔法【
優等生みたいな外見の天鳥ヤクモだったが、木刀の扱いには慣れていた。というのも、俺に当たらないように配慮しながら無駄なく振るっている。もしかして剣道経験者か。中学の授業で経験した剣道特有の足捌きが目に入る。
俺の前には鏡テオと大神シャコが走っていた。周囲の状況を警戒してか、大神シャコは紺色のセーラー服の上に固有魔法で出した赤いローブを羽織っている。真夏の夜でも少し暑そうな色合いだ。
そういえば大神シャコの固有魔法名を聞いたことがないな。別に不必要なんだが、参考程度に尋ねておこう。
「おい、その赤マントを出す固有魔法の名前はなんだ?」
「シャコの固有魔法名? 確か【
「う゛ぁっ!?」
俺ではなく、天鳥ヤクモが吹き出しながら驚いた。いやまあ、うん。女の子からは聞きたくない英単語だったな。英語が苦手な俺でもわかる内容だが、後輩の女子中学生は首を傾げている。
そして鏡テオも大神シャコと同じ仕草をしていた。おい、二十代過ぎた外国人。今の固有魔法名で使われた英語くらい知っているだろう。まさか意味を理解していないのか。鏡テオならあり得そうだから怖い。
動揺のあまり天鳥ヤクモは木刀を落とした。地面に一度落ちたそれは、二度と飛べないことを悟った鳥のように消失した。俺の顔面が蒼白になると同時に、赤い目の女子高生が嫌な笑みを浮かべた。
「ヤクモぉっ!!」
「すまない! だが安心しろ、私の固有魔法は複雑ではない。すぐに復帰できる!」
鼻からずり落ちかけていた眼鏡の位置を直し、天鳥ヤクモは新たな木刀をその手に掴む。耳は赤いままだが、表情は真剣だった。いまいち頼りになるのかわからないタイプだな、こいつ。
しかし飛来してきた雷に真正面から燕がぶつかった。天鳥ヤクモの固有魔法の利点は、触れた瞬間に「消す」という点だ。弾くのではない。だから衝撃も、痕跡も、何処にも残らない。
まるで南の方へ渡る燕みたいだ。一瞬だけその姿を捉えて、空へと見送る。かすかな静寂。飛ぶ姿は綺麗なんだがなぁ。声は結構濁声だよな。天は二物を与えなかったか。
少しずつ開けた場所へと迫る。聳え立つ塔を前に、足を速めていく。見上げれば、意外と白いのが印象的だ。ライトアップも綺麗だったが、それ以上に目を引いたのは倒れている人の数だ。
なにがあったんだ。老若男女問わずに大勢の人間が路上で寝転がっているなんて異常だ。怪我している様子や、苦しんでいる気配もない。ただ健やかに眠っている。そして入り口前に見覚えのあるソファが一つ。
猫足のソファ。横に灰色布地と白の蝶柄クッションと、緑色布地と黒の竜柄クッション。それぞれの上に多々良ララと大和ヤマトが倒れていた。俺の口元がひくついた。これも見覚えあるし、嫌な予感だけが強くなる。
思わず足を止めた俺の背中に天鳥ヤクモの背が当たった。どうやら波状攻撃から一斉攻撃に切り替えたらしい。迫る雷光と、水滴と、光の槍。天鳥ヤクモが舌打ちをした瞬間だった。
象と同じくらいの大きい猫が魔法全てを呑み込んでしまった。ぬいぐるみのような愛らしい外見に、俺はもう絶句するしかない。
目を丸くした天鳥ヤクモの前で、驚いた女子高生達も猫に丸呑みにされてしまった。咀嚼音がごりごりと聞こえた後、毛玉のように吐き出された。ぬいぐるみなので唾液などはないが、全員が気絶して路上に倒れた。
この自由度の高さ。なんだかんだで人を傷つけないやり口。おかしい。ここは現実のはずだ。俺はあいつと目を合わせてすらいない。なによりスカイツリーが高く聳え立っている。
ポケットに入れていた紙袋を強く意識する。岩泉ノアは言っていた。東京一区画封鎖の日、不自然に消えた物があると。もしもそれを手に入れたのがあいつだとして、現実に干渉できる類いに飛躍できたならば。
そんな俺の不安を言い当てるように、鏡テオが嬉しそうな声を上げた。
「あ、クルリ!」
俺と天鳥ヤクモが一斉に振り返る。そこら辺のコンビニで売っていそうなポテトチップスとペットボトルを買ってきていた。ビニール袋を手にした枢クルリは、確かに服を変えていた。まじで猫耳フードだ。
額を隠すヘアバンドはいつも通りだが、髪の毛が少しだけさっぱりしていた。濃い紫の半袖パーカーに白の七分丈ズボン。サンダルはお洒落を意識したデザイン。怠惰のあまり中学の頃のジャージを着ていた奴とは思えん姿だ。
猫耳のフード部分を背中に落として、夜風に黒髪を遊ばせる枢クルリは汗まみれだった。それ以上に異様なのは赤くなった猫目。夏だというのに湯気が出そうな程の熱を感じさせる息の仕方に、声のかけ方を忘れた。
「うわ。メンドーなのが来た」
『おい!!!!』
しかし憎まれ口は通常運転で、俺と天鳥ヤクモは声を揃えてツッコミを入れた。
「クルリー、会いたかったよー! 急にいなくなっちゃうから心配したし、なんか皆怖い顔して話し合うからよくわかんなかったんだー」
全く状況を読めていない鏡テオが、両腕を広げて枢クルリの元へと向かう。勢いのまま抱きついたせいで、枢クルリが潰れたような声を上げた。背中から地面に倒れた姿は非力そのもので、脅威なんて何処にもないように見えた。
というか、やっぱり理解していなかったか。まあ鏡テオに関してはそれが良くも悪くも空気を変えるし、今は目を瞑っておこう。俺の隣で脱力した天鳥ヤクモが木刀を消した。そこで思い出す。
あいつの固有魔法はどうやって消せば良いんだ?
「って、うわ凄い熱!? サイター、クルリの体温がなんか変だよ?」
「……だろうな。賢者の石を体内に入れて、どうなるかって知ってるくせに。なんでやりやがった、クルリ!!」
「ゲームオーバーのため」
「そういうゲーマー根性はどうでも……いやそこはクリアだろ」
俺の声で怯えた顔を見せた鏡テオを押しのけながら、枢クルリが呟いたこと。いつも以上にわかりにくい内容に、俺は疑問符を浮かべるしかない。ゲーマー基準で話しているにしても不可解すぎる。
面倒そうに息を吐いた枢クルリは、地面を二度叩く。白い布地に赤い林檎の柄が描かれたクッションが出てきた。その上に鏡テオが乗るように指で指示し、座らせていた。これまた不思議なことに鏡テオによく似合っている。
「クリア条件がメンドーすぎるし、達成感もない。そんなクソゲーに付き合って後どれだけ残機を減らせば良いのか。考えなかった、なんて言うなよ」
「……深山が怪我したことに関係してるのか?」
直感だけだった。正直、枢クルリがなに言いたいかを掴めなかった。
けれどあいつは顔を少しだけ俯かせた。小さく頷いたようにも見える。その姿が、背中を向ける時の雰囲気に似ていた。指を突きつけられるのが嫌そうな、怯えと恐怖が入り交じって虚無に逃げ込んでいるような気配。
もしかしてあいつなりに現状に向き合って、こんなことになっているのか。俺達に相談の一つもせず、自分で決めた。まあ進歩はあったと褒めるべきなのかもな。けれど被害が俺の予想以上にでかい気が。
「なあ、ヤクモもなんか言え……って」
振り向いた俺の目に映ったのは、状況が飲み込めずに開いた口が塞がらない天鳥ヤクモだった。呆けている。間違いない。
「な……わ、私より背が高くなっている!? 猫背のくせに!」
「そこかよ!」
「ヤクモ……まさかその眼鏡、天鳥ヤクモ?」
「眼鏡が本体ではない!! その失礼な言い草、間違いなくクルリだな!!」
珍しく枢クルリが戸惑った。そして眼鏡扱いされた天鳥ヤクモが人差し指を真っ直ぐ突きつけた瞬間、あいつの肩が震えた気がした。小さく怒っている天鳥ヤクモは気付いていないみたいだけどな。
「……最悪」
忌ま忌ましそうに吐き捨てられた言葉。表情を歪めた枢クルリに対して、天鳥ヤクモは萎縮したように人差し指を降ろした。あー、これ絶対面倒な関係だな。しかしこの二人の過去話に付き合って時間を浪費するのはもったいない。
「クルリ。今はどんなゲームしてるの?」
無邪気な声で尋ねる鏡テオ。熱を持った息を吐きながら、枢クルリは短く答える。
「ツクール系」
あまり慣れない名前だけど、なんとなくわかるぞ。素人でも気軽にRPGゲームとか作れて配信できる創作の類い。素材というのか、アイコンとかシステムが既に用意されていて、それらを組み立てるだけでいいとかな。
二次元至上主義の西山トウゴ曰く、フリーゲームで面白いのがあるとか。あいつも手を出したらしいが、難易度調整に挫折したらしい。やはりクリエイターは神の領域だったとかなんとか。
でも枢クルリが遊ぶとは思えない分野だし、あの怠惰な猫耳野郎がここまで事を荒立てて行うのが、ゲーム画面に収まる内容な気がしない。というか、今までのことを考えると大体の結果がようやくわかった。
「お前……現実をゲームに見立てて、固有魔法【
無言。俺はそれを肯定と受け取る。
賢者の石で自らの固有魔法を暴走させ、現実に干渉する。無茶苦茶な計画だ。しかし半ば成功している。まじかよ。あの猫耳野郎、一か八かの賭けに勝っていやがる。
いくらなんでも暴走の方向性を決めるなんて聞いたことがない。空間系魔法なんて暴走すれば、普通の固有魔法よりも命の危険性が高いはずだ。下手すれば存在消滅だってあり得る。そこまでして変えたいのかよ。
「サイタ」
「なんだよ?」
「ツクールとはなんだ!?」
天鳥ヤクモ。話が進まない奴。ある意味、鏡テオとは真逆のタイプだな。
「そういう細かい説明は後だ。とにかく! あの猫耳野郎は、自分の固有魔法で現実に干渉してなにかを変える気なんだよ! 恐らく、大家さんが言ってた魔法を消すってことに繋がっているはずだ!」
「……それが本当なら、危険だ」
「は?」
「固有魔法の歴史は五百年前に遡るとされている。魔法を消すと言うのは、時空や歴史に関わることだ。過去だけではない、現在、未来、全てに干渉を続ける。その方法が固有魔法ならば……魔法が消失した世界に、固有魔法所有者は存在できない」
夏には似合わない鳥肌が立った。つまり――
「クルリは消える」
俺が嫌いな童話に似た結末だ。
たった一人の女の子のために、世界を変えます。そんな理由で魔王をやっているキャラクターが出ていたアニメを見たことがある。深夜放送だったか。可愛い絵柄には似合わない重い内容なのが印象的だ。
世界なんて大袈裟に捉えるから面倒なんだと思う。もっと単純にまとめようぜ。彼女を助けたかった。そういうことだろう。でも手遅れなんだ。流れが決まっていて、逃げ場はなくて、女の子もそれを受け入れていた。
そんな当たり前が許せなかったんだろう。少しだけわかる。その傲慢な考えを、俺は自分のことのように感じた。でもな、お前は倒されなくてはいけないんだ。勇者だって同じなんだ。むしろ勇者の方がまだ間に合う。
けれど魔王。お前はその結果を受け入れんじゃねぇぞ。勇者に倒される王道が嫌だってんなら、死ぬまで足掻け。声を張り上げて否定しろ。力の限り戦え。絶対に手加減するんじゃねぇ。
それが魔王になってまでお前が望んだ、傲慢な願いなんだろう。
かくして魔王は倒されました。めでたしめでたし。ただ次回予告で美少女化したことには一言文句を出すからな。なんでも味方にすれば良いって考え嫌いじゃねぇけど、好きでもねぇよ。というか女体化の使い道を間違っている。
という理由で続きは見ていない。とりあえずこのアニメのDVDを貸してくれた西山トウゴに、何故これ俺に渡した、と。魔王美少女化の外見が好みだったという返答に、それ以上問い質す気力はなくなった。
なんで、こんなのを思い出すんだろうな。理由は単純だ。きっと枢クルリと重なったから。あいつは無言か、別の理由をつけるかもしれないけど。あいつがここまでやる根本は、そんなに難しくない気がするんだ。
「……消えるんじゃなくて、最初から存在してなかったんだよ。俺なんか」
「なんかとか言うな!! 誰しも生きる価値はある! 私達はそうやって学んできたはずだ!」
「猫殺し、中等部中退、引きこもり、親も見放す問題児、そして――世界大会決勝でわざと負けた俺に、お前がそれを言うのか?」
「っ、あ……ああ」
「相変わらずメンドーな程真っ直ぐ。だから壁を置けばあっさりとぶつかる。なあ本心は?」
まるで意地悪な問いかけだ。煽りとも言うんだっけか。さあ天鳥ヤクモ、気をつけろよ。
お前は今、試されているんだから。
「……私の本心は……」
暗闇の中を歩くような頼りない足取りで、天鳥ヤクモが一歩踏み出す。少しずつ、前へと進む。階段を上った先に枢クルリが待っている。赤い目で俺達を見下ろしていた。
「ずっと……謝りたかったんだ」
罪を告白する犯人みたいな、胸を握り潰して出す声だった。
「怒りに身を任せて、お前を傷つけた。それだけではない。世界という大舞台で、私の声を皮切りに怒りが侮蔑へと変化していくのが怖かった。そのせいで身が竦み、お前を守ることもできなかった……友達なのに、恥ずかしい」
「……やっぱ、ずるいな」
「へ?」
「それじゃあまるで、俺のために謝りたかったみたいじゃないか」
顔を上げた天鳥ヤクモの赤い縁眼鏡に、枢クルリが映る。冷めた目で見下していた。でもどこか寂しそうな、切り捨てるのに苦労している姿にも俺には見えた。
飼い主の安らかな死に顔をじっと眺めている猫がああいう表情を浮かべている気がした。猫の感情なんてわからないけど、言葉に表せない表情っていうのを一度だけ見た覚えがある。
近所の猫屋敷で大往生を迎えたばあさんの、最も長い付き合いの猫。ばあさんに懐いていた俺はこっそり猫屋敷に忍び込んで、目撃したんだ。その時だけ、ばあさんが眠る部屋は猫一匹の世界だった。
「善人の無自覚な嘘吐きはメンドー。本当は自分のためなんだろう? 自分の間違いを正しいと変えて、赤ペンみたいな謝罪で塗りつぶしたいくせに。昔からそうだった」
「く、クルリ?」
「俺に勝ちたいと言ったのも、世界の頂上で戦いと告げたのも、クラスで一人だった俺に声をかけたのも、全部!! 優秀な良い子ちゃんである自分のためじゃないか! お前の本音が聞けたのなんて、一度だけ! 俺を指差して怒った時だけだった!」
珍しい。どうやら賢者の石を体内に入れたせいで、冷静な思考ができていないみたいだ。足下がふらついているし、本格的に枢クルリの症状が危険になっている証拠かもしれない。
天鳥ヤクモが愕然として、声を失っている。そんなのも構わずに、枢クルリが汗だらけの顔を拭いながら、激昂を続けた。
「昔は出臍の蒙古斑だったくせに!!」
すげぇ。枢クルリからあんな低レベルの罵倒が飛び出るとは。相当なんだな。俺は絶対に賢者の石を使いたくないと思わせるには充分だった。うん、まあ、なんて言ってやったら良いかな。疲れてるんだろ、お前。
子供の喧嘩じゃあるまいし、あんなの天鳥ヤクモに通じるわけないだろう。高校三年生の受験生だ。そう考えていた俺だったが、差し出された手に嫌な予感を覚える。視線で辿った先には無表情の天鳥ヤクモ。
「サイタ。すまないが、奴とは対等で戦う必要がありそうだ。渡してくれ」
あ、怒ってる。しかも今までのノリとかそういう次元の話じゃない。糸が切れて、なにかが外れた憤怒だ。触らぬ神にはなんとやらだ。俺は無言で紙袋を手の平に載せる。
即座に紙袋から固形の賢者の石を取り出した天鳥ヤクモが、飴玉のようにそれを噛み砕いた。赤い縁眼鏡はポケットに入れて、階段へと一歩踏み出した。その足取りは重くて、けれど確実に枢クルリに近付いた。
「人の幼い頃の身体的特徴をあげつらい、自分の存在を消してまで世界の在り方を変える? お前は……貴様はそういう奴だったな、クルリ! それを私が許さないと知っているくせに、これが一番だと諦める!! 私はそんな貴様が気にくわなかったんだ!!」
「俺もお前の本心を隠す日常の姿に吐き気を覚えてた。おあいこだな、ようやく」
「なにが! ようやく、だ!! さあ勝負方法を決めろ!! 今度こそ、私が勝つ!! 本気の貴様を負かすんだ!!」
高い塔を登るように、ゆっくりと進んだ天鳥ヤクモは枢クルリの目の前に立った。二人とも真っ赤な目でお互いを睨んでいる。俺はというと、階段下で大神シャコとその様子を黙って見守っていた。
他人が口出せる空気じゃなかったし、なんだか相応しい光景だと思ったんだ。きっと喧嘩してるくらいが丁度良いんだろうな。最初から怠惰な猫耳野郎と憤怒の燕好き。はは、仲良くなる構図の方が難しいな。
「じゃあチェス。あの日の再戦といこうぜ、ヤクモ」
「上等だ! って、私が賢者の石を取り込んだ意味は!?」
「は? そんなのそっちが勝手にやったことじゃん。大体魔法勝負とかナンセンス。ラノベかよ」
「猫耳フードなどつけてる貴様にだけは言われたくないからな!!」
不安しかない。仕方ないので俺も階段を上がる。大神シャコが背後からくっついて離れない件に関して、今は無視しておこう。鏡テオが既に観客気分で、足を揺らして目の前で繰り広げられるであろう戦いを楽しみにしている。
そして説明する前に怒りまくっている天鳥ヤクモ。事態が進まないことに苛ついた枢クルリが、空中からビスケット文字でルールが書かれた看板を出現させた。新聞紙を広げたくらいの大きさなのだが、それが天鳥ヤクモの頭上に落下した。
看板の角が当たった天鳥ヤクモが地面に膝をついた。うん、痛いだろうな。と思って俺が試しに看板を持ち上げてみれば、子供が使う柔らかい積み木に似た感触と重さだった。これなら怪我はしていないだろう。相応の衝撃はあっただろうけど。
「クルリぃっ!! 勝負する前から私を潰す気か!?」
「そんなメンドーなことしなくても楽勝だし」
「こ、この野郎!! 人がデュフフ丸から情報を聞いて心配しておけば、その言い方!! 私の気遣いを返せ!!」
「だからそういうとこがメンドーなんだってば。受験生なら自分のことだけ心配しておけば良いんだよ」
「クルリぃっ!!!!」
最早クルリの名前のルビに馬鹿とか阿呆とかつき始める勢いだった。とりあえず、五十歩百歩、という感じなんだな、お前ら。
とにかく看板に書かれた文字を眺める。大神シャコはこの文字の丸みが不可解らしく、首を傾げていた。そうか、今の若者にはビスケット文字は伝わらないか。時代の流行というのも考え物だ。
・ゲームマスターの魔法が及ぶ範囲を「この世界」と定義する。
・ゲーム中は一切の暴力と魔法を禁ずる。
・勝者は望みを一つ叶えられる。しかしゲームマスターは除く。
・ゲームマスターが認めた者はこの世界での安全を保証される。
・法則は追加することもある。だがゲームマスターはゲームのルールに一切手を加えない。
・挑戦者が零に至った時、固有魔法【
単純な内容で、でも前に見た際と少し変わっていた。枢クルリは世界を賭けて、勝負を続けていたんだな。勝ち続けるという、常識で考えるならば恐ろしい条件だ。そして鏡テオや多々良ララ達のクッションを眺める。
きっと認めた者は、ああいうクッションが与えられる。身が沈みそうな程心地良い家具。そして枢クルリは消えた後、あいつらの安全を保証し続けるんだろう。魔法が及ぶ範囲が全世界になっても、この条件が通じるように。
法則は後で追加すればいい。今はまだゲーム中の禁止も、いずれ広範囲に適用される。本当に自由な固有魔法だ。もう少し強引な手段も取れるはずなのに、どこか甘い。もしかしてだけどさ、お前自身も戸惑っているんじゃないか。これでいいのかな、とか。
でも信じられないんだ。ずっと部屋の中に引きこもって、人との触れ合いを避けてきたお前にとって。自分は本当に必要な人間なのかと。不安なんだろう。自分が消えても、問題ないはずだって思ってるくせに。
もしも誰かにとって掛け替えのない人間だったらと、考えるのが怖いんだ。それに相応しいかどうかも、自信なくて。打ち明ける相手もいなかった。少しだけラプンツェルの童話に出てくる姫と、枢クルリが重なる。
長い髪のラプンツェル。それを使って外にも行けたはずなのに、塔に閉じこもっていた。魔女が世話をしてくれるから楽だったと言うのもあるんだろうが、一番は怖かったんじゃないか。
一人では怖くて、けれど誰かと会うのも怖かった。理解されなかったらどうしよう。否定されたらどうしよう。嫌われたらどうしよう。不安で、恐ろしくて、考えるのを止めた。それは楽だ。怠惰に過ごし、言われたがままに動けば良い。
でも出会った。外へと強く願う誰かに。ラプンツェルってのは外に出てすぐに王子様に再会できるわけじゃない。人の営みを体験し、子供を育てて、苦労を強いられた。恐怖を乗り越えた、強い奴だ。まあ母は強し、とか言うしな。
枢クルリが少し違うのは、出会った誰かのため。世界の外に出て行こうと企んでいる。誰とも会えない場所へ行って、楽をするつもりだ。こいつはまだ、怖いままなんだ。
チェス盤を地面に置いて、枢クルリと天鳥ヤクモが地べたに座る。一手指す前から汗だらけの二人は、痛みを紛らわすように言い合いを続けていく。
「じゃあ先攻後攻はそっちが決めて良いよ。どっちにしろ結果は見えてるし」
「ならば先行だ! それに勝負は終わるまでわからないからな!!」
「どうせなら完封するか。ぐうの音も出ない程負かせば、そのやかましい怒鳴り声聞かなくて済むし」
「クルリ!! 私だって勉強や運動、あらゆる面で努力し続けてきた! 昔の私だと思うなよ!」
「はい、負けフラグ」
「真面目にやれ!!」
怒鳴り続ける天鳥ヤクモに対し、枢クルリは負けずに言い返している。どこか饒舌で楽しそうな雰囲気もあったが、チェスの駒が動けば一気に痛みが突き刺すような空気が場に満ちた。
俺はチェスのルールなんて知らない。駒がどうやって移動するのかもわからない。けど天鳥ヤクモは
そんでもって枢クルリは
「……あと十手。そこで終わり」
死神の宣告だった。戦略ゲームだからか、今更ヒーローが現れて大逆転なんて見込めない。冷徹な俯瞰。天鳥ヤクモもそれを知っているからか、止まらない汗を拭っては苦渋の表情でチェス盤を見ている。
そして
「本当に強いな、クルリ」
「……」
「私はあの日、負けても良かったんだ。いいや、やっぱり負けたくなかったな。全力で勝ちたかった。いつもは私の負けで悔しかったしな! しかし……それでも負けるなら、また明日勝とうと決めて受け入れたかった」
顔を俯かせながら、駒を動かす天鳥ヤクモ。指先は震えていて、駒がチェス盤を叩く音も頼りない。けれど手は止めなかった。
「なにせ……クルリだけが私と対等でいてくれたからだ」
「…………は?」
「私はどうも利用しやすいと思われているのは知っていたんだ。けれど同級生に頼られて、先生に褒められて、それが家族の耳に届いて賞賛される。認められたようで嬉しかったんだ……私が立派な人物でいたいというのは、そういうエゴがあるからだ」
あと五手。それでも勝負は決まっている。
「しかし理解した。私はそんな人物だと見下されていたんだ。命令を聞く犬みたいな扱いなのだと、そう考えた時もある。だから同年代の子供の遊びには入れなかった……勉強が残っている、あっちで先生が呼んでいた、剣道の稽古はおろそかにしてはいけない、悩んでいる子供の相談に乗らなくては。私はいつも仲間はずれだ」
「そうは見えなかったけど」
「見てないの間違いじゃないか? まあいいさ。私と遊んでくれたのは、お前だけだったんだ。いつも負けて、どうにか勝てないかと卑怯な手も考えたことはあったけどな……」
「そんな手を使っても、勝つのは俺だし」
「お前のそういう所は昔も今も変わらず腹立つけどな」
最後の一手が決まった。いい話をしているからって、勝敗が左右されるわけじゃない。期待なんか無駄だ。チェスってのはそういうゲームだろう。
枢クルリの完全勝利。黒の
「はい、負け犬の遠吠えをどうぞ」
「お前なぁっ!! はぁ……私の負けだ。正直ここまで打ちのめされると、怒る気力も削がれていくな。そしてようやく言える」
「なにが?」
「お前の勝ちだ、クルリ」
汗が流れ続ける中、泣きそうな顔で笑う天鳥ヤクモ。
本当は悔しくて叫びたいくらいなのに、同時に歓喜で打ち震えている。
真夏でも白い息を吐きそうな程、熱を持った天鳥ヤクモがスカイツリーを見上げた。
「なんだろうな。言いたいことは山程あったんだ。けど、その全てが必要ではなくなってしまった。代わりに胸いっぱいに満足がはち切れそうで、駄目だ。良い言葉が思いつかない」
「……」
「なあ、この想いもお前が消えればなくなってしまうのか?」
「……最初から負けたことも存在しなくなる」
背中からアスファルトの地面に倒れた天鳥ヤクモは、その言葉を聞きながら両腕で目元を覆う。体勢が崩れた際にシャツがズレて、臍の左側にある黒い燕の痣が曝け出された。ちなみに成長して臍は引っ込んだらしい。
「ああ、情けない。泣きたくはないのだ。本当は心の底からお前の勝利を称えたいのに、何故努力してきた私が負けるのだと理不尽な怒りで頭が痛い! すまない、クルリ! 私は成長などしていない! 悔しいくらいに子供の頃のまま、お前に勝ちたかった気持ちで潰れそうだ!!」
「……」
子供みたいに四肢を動かして暴れたい感情なんだろう。でも天鳥ヤクモの体はもう、指先しか動かせない程衰弱している。限界だ。賢者の石を体内に取り込んで、固有魔法を暴走させないまま我慢していたんだ。
誰もが耐えられないのに、天鳥ヤクモは枢クルリと決着を付けるために堪えていた。それを凄いって褒めても、きっと今は意味がない。こいつが一番欲しかったのは枢クルリに勝つことだったんだから。
「……明日もお前に会いたいのに、明日にはお前がいないんだ」
「清々するだろ」
「馬鹿を言うな……まるで燕だ。南に渡ったと信じるしかないんだ……幸せになれば良いと願うだけで、結局なにもできやしない!! だから私は親指姫が嫌いなんだ!!」
「……俺は嫌いじゃない。微妙にリアリストっぽい考えがいい。全員の幸せは叶えられないけど、誰か一人の幸せくらい良いんだって」
「だったらお前が幸せになれ」
「無理。メンドー……ほら、さっさと眠りなよ。起きた時には世界は変わってるからさ」
少しだけ優しい声音の枢クルリからの言葉。それが合図だったのか、天鳥ヤクモは動かなくなった。黄色の布地に黒の燕柄のクッションが現れて、その体を包んだ。
深い溜め息が零れた。それは枢クルリと、俺だ。同時に息を吐いたんで、変な音になってしまったが仕方ない。こっちも緊張してたんだ。どう変化するかわからなかったからな。
そんで天鳥ヤクモが負けたのを見て、俺も腹を決めた。枢クルリに近付いて、三歩前で立ち止まる。そんでもってアスファルトの上で胡座をかく。赤い目が胡乱な感情を宿していた。
「次は俺と勝負しようぜ、クルリ」
ゲームでの勝率は零。奇跡も大逆転も起きない戦況。
けど、天鳥ヤクモの気持ちは無駄にしたくない。なにより枢クルリの思い描いているゲームオーバーだけは阻止したい。
悲しい結末が嫌いだ。誰かが犠牲になるなんて御免だ。それだけで充分だろう。
さあ
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